06
サージャ様と会った次の日、アパートの前には虎が居た。
「ガウッ」
随分と愛らしく泣いた虎に、私は恐怖に慄いた。
「食べられるうううううう!!!!!」
速攻逃げたのだが、虎は何故か付いてくる。しかも私の逃げ足とほとんど変わらない速さで追い掛けてきた。
「いやああああ!!!付いて来ないでえええ!!」
と叫んでしばらくして虎が追い掛けて来ていない事に気付き、後ろを振り返ると見るだけでも可哀想なぐらいションボリしていた。
「あ、ごめん」
来た道を戻って、恐る恐る頭を撫でると私のお腹に顔を擦りつけて私の負担にならない程度にじゃれてきた。
銀色の髪は短く切り揃えられ、焦りの見える蒼い眼の男と、一緒に家と家の隙間からルナとミケを監視する。
本当になんだこれ。なんで俺ここに居るの。今日兄上が勝手にセッティングした見合いの日なんだけど。
「シンディア様、今から説明しますが話を聞いてすぐに行動に移そうとはしないでください」
「なんですか。それ」
「ルナさんは、聖女様です、ね。あれ完璧に」
サージャは偶に憶測だけで行動する事がある。こんな美麗な容姿をしているのに猪突猛進なのだ。
サージャのその言葉を聞いて、視線をルナに向ければ、ルナに嬉しそうにじゃれつくミケの姿。義姉上にだってあんなに懐いている所を見た事がない。いや、義姉上の場合は既に兄上という猛獣が付いているから野生の勘で懐くに懐けなかったのかもしれないが。
「人見知りで神獣であるミケ様が初見のルナさんに、あそこまで懐くのはルナさんが聖女様である可能性が高いですよ」
曰く、ルナの父親は元大神官で、昔の悪政で排斥された被害者。ディージェが何度も神殿から使いをやり、説得をするもずっと拒否され、気付けば亡き人になっていた。その後子供が居た噂を聞き、探したらしいが見つからず、断念せざるを終えなかったとか。
「神殿にも確認を取りましたが、未だ聖女様は見つかっておらず、魔力も安定している事、魔物も人を襲う事はない事を考えると、どこかで生きておられるとだけしかわからないとの事でした。彼等にしてみても聖女様が空席の状態がこれ以上続くと民が非常に不安がるだろう。偽物でもいいから聖女様を見立ててくれないか、と、陛下とディージェ様にご相談までしていたらしいです」
「偽物聖女を見立てるって…」
「神殿はそこまで切羽詰まっていたんです。今回のルナさんの話で神殿は既に聖女様を迎える準備を始めています」
「神殿ってなに。猪突猛進の団体でしたっけ?」
なんで、確認もなく、すぐに行動に移すんだよ。
再度、ルナの方へと視線を向けると、ミケはルナを背に乗せ、走り出していた。
「信仰している神獣が猪突猛進だから、信者も猪突猛進なのか…?」
「それはいいとして、ミケ様が走って行った先、神殿ですよ」
そう言われて思わず溜息を零し、転移の魔法を展開する。行先はもちろん神殿だ。
「ね、ねぇ、私これから仕事行かなきゃいけないの…」
虎に話し掛けても、今にも鼻歌でも歌い出しそうで、ご機嫌にルンルンとどこかに私を連れて行こうとする。
「あのさ、お城、見えてきたんだけど…」
それでも止まろうとしない虎の頭をペシンッと叩く。常ならばしない行動を取れる程に、私は混乱していた。虎は何故か嬉しそうに「くぅん」と一鳴きした。
虎は止まる気はないのか、意気揚々と私を背に掛けていく。
城門前を素通りし、お城の隣にある神殿の門を潜る。門の前で立っていた兵達が腰を抜かして転んでいた。
そりゃそうだ。肉食獣が神殿に入ってきたら大惨事になるだろう。
「お、お願い!止まってっ!とまっ……!」
「ルナ!」
シンディア様の声が聞こえたと思ったら、身体は宙に浮いていた。
「へ」
徐々に地面に向ってゆっくりと落ちていく身体をシンディア様が受け止めてくれた。
「重くなりましたね」
「最低!」
地面に降ろしてもらい、虎を見るとショボショボした足付きで来た道を戻ってくる。
「ミケ。ルナは事情を知らないのです。あまり勝手をすると怖がられて、嫌われますよ」
更に落ち込む虎の尻尾は元気なさげに左右に揺れている。
「え?」
「ミケは神獣なんです。昔、とある森で王妃が拾ってきてミケと名付けました。それ以来、神殿がミケの住処なんですよ」
「え?それが、なんで私を……」
「おかえりなさいませ、聖女様」
「え?」
それから怒涛の神殿の歓迎会がなされ、陛下や王妃様も来られ、神獣様は私の傍に鎮座し、シンディア様も私の傍を離れなかった。
今日の仕事は何やらサージャ様が手を回してくれたらしく、店主と女将さんに迷惑をそんなにかけずに済んだらしいが、申し訳なさに涙が出る。
暫くは神殿に籠っているようにと陛下からも命令され、私は身動きがほとんど取れなくなってしまった。
朝早く起きてお祈りをし、ミケと遊んで、勉強が最近の日課である。
勉強は、父から習っていた事がほとんどだったから復習をしている感じだ。ミケとの遊びは割愛するとして、初めてお祈りの為に礼拝堂を訪れた時、私はその場所を、何故か私だけの場所と勘違いしてしまいそうになるほど、声を掛けられるまでずっとお祈りをしていたらしい。
「…本質は何も変わらないのに」
急激に変わる周囲の環境の中で、私は一人取り残された気がした。
聖女として神殿に招かれた日から、他人の人生を歩んでいるような、そんな錯覚を覚える。
シンディア様は会いには来てくれない。当然っちゃ、当然なのかもしれない。
あの人には婚約者が居る。この前侍女達が井戸端会議している所を盗み聞きした。本当かどうかは定かではないが、女の情報網は凄いって女将も言ってた。
神官にも問い詰めたが、何故か生暖かい眼差しを向けられただけだった。
寂しいと言えば、寂しい。意地の悪いお小言が聞けなくなるのは嬉しいけど、それでも寂しく思うのは、シンディア様に会えないからだろう。
「………シンディア様…」
「辛気臭い顔ですね。もう少し嬉しそうな顔しなさい」
「ぎゃああああああ!!!!!!」
勢い余ってインク壺を転がしてしまった。
机の上は大惨事になった。
「ああああああああ!!!!!」
「アホですか」
シンディア様が何か呟くと、机の上にぶちまけられていた黒い液体がインク壺に戻って行く。ホケッとしながらその光景を見ていた。完全にインク壺に戻った所で、魔法の感動の余韻に浸っていた。
「このインク壺……」
「クグリ様からいただきました」
王弟殿下の妃様は、男爵家のお嬢様だった。
どういう訳か、王弟殿下のヴェルフェ様に見初められて、今に至るそうだ。
「義姉上か」
深い溜息を吐き出すシンディア様は、インク壺に蓋をし、私の向かいの椅子に腰を下ろした。
「男から贈り物を受け取らないでください」
「どうしてですか」
「……私が、嫉妬するから…」
「は?」
あり得ない言葉を聞いた。そう思ってもう一度と目で訴えてみたところで、それは空耳ではない事を結論付けた。
「ふはっ。シンディア様、顔が真っ赤です」
「本心なんですから、心して聞きなさい」
顔からの赤みは取れないまま、シンディア様は一つ咳払いをして、私に向き直った。
「結婚してください」
「…婚約者はどうされたんですか」
「元々、私の周りは難儀な性格の方が多いですからね。それに兄があれでしょう。だいたいの方は王の弟という事で怖気づいてしまう」
陛下を頭に浮かべるが、あの方の義妹になる事を考えると、確かに怖気づく。
「私も怖気づくとか考えませんか」
「ルナが?」
ハンッと鼻で笑ったシンディア様は、本当に私が好きなのだろうか。嘘でしょ。
あの王が義兄になる事すら薄ら寒く思うのに。
「愛しています。埋まらない身分差が底無しの峡谷とさえ思いました。どんなに運命の赤い糸で繋がっていたとしても叶わない事もあるのかとこの間まで塞ぎ込むくらいにはあなたが好きですよ」
「赤い糸ってなんですか。意外とシンディア様はロマンチストですね」
「王族にとって、身分とはとても大切なんですよ。教養や知性、マナーに考え方。庶民以下では身に付ける事が難しい気品や佇まいその他諸々は、例えば諸外国への外交で妻を紹介するに当たり重要視する部分でもある。それ以外にも沢山。ですから、スラム街出身のあなたとの結婚なんて夢のまた夢。カエルと馬が結婚するぐらい有り得ない事柄なんですよ」
なんでその例えをチョイスしたのかはわからないけど、大変分かりやすい例えなのは言うまでもなく、それぐらい有り得ない事だ。
それは私にもわかる。何事も自分に見合った身分が一番良い。それが一番生きやすい。
「私は、その身分に相応しないと思いますけど」
「前大神官の娘であるあなたが何を今更。あなたの評判は聞いています。勤勉でお祈りも欠かさない。マナーはまだ怪しいところがあるみたいですが、及第点です。ダンスは、身に付けておくに越した事はありません。頑張ってください」
うっ、と息を詰まらせる。
ダンスは苦手だ。なぜ、あれが必要なのか。普段使わない筋肉を使って今も足腰がガクガクである。
「本当に勉強は得意みたいですね」
教師である神官の一人に出された宿題をシンディア様が覗き込む。
「昔、父が倒れるまで私に読み書きを教えてくれました。だけど、父が死んでから読み書きは必要なくなって、私は全部忘れてしまいました。メイドとして1週間教育されてた事がありましたよね。あの時も父から伝え聞いていた事を実践しようとしたけど、全然上手くいきませんでした」
忘れ去った過去の学習も、ここに来て、また1から学び直す。忘れてしまった事、あぁ、父はそういえばそんな事言っていたな、とか、薄ぼんやりと父との思い出が溢れ出してくるのだ。
教本に落書きして叱られたな、近所の子と喧嘩して励ましてくれたのも父で、初めて父に向けて書いた手紙を見て、父は大切そうに胸に抱え泣いていた。父の葬式の日近所の人が集まって一緒に埋葬してくれたっけ。身請けをといってくれる人も居たけど、迷惑掛けたくなくて断った。この国は一人で生きていくのには苦しくて辛い。
辛くて泣きそうになる日は、いつだって父を夢に見る。
「シンディア様。私は、シンディア様の隣で、役目を果たす事が出来るでしょうか」
「まだ言うの?辛くて、どうしようもなく死にたくなる日がルナに来たとしても、私は手放す気なんてサラサラない。なんてったってあの兄王の弟ですからね。執着心は人一倍高いんですよ。諦めて私に縋りなさい」
シンディア様の腕の中に飛び込んでみれば、力強く抱き締められ、背骨がギシギシと軋む音が聞こえたところで抗議の声を上げた。
「ちょちょちょちょ!!!どんな力してるんですか!!!背骨折れるー!!!!」
「愛ですね!!」
「意味分かんない前向きさを出さないで!」
悲鳴を上げると「聖女様あああ!!」と扉の向こうから聞こえる声を無視して、シンディア様は私を抱き上げる。
「我等兄弟は絶倫のようです。頑張ってください」
光り輝く胡散臭い笑顔を私に向けるシンディア様はサッと手払いをすると扉の向こうから聞こえていた声は掻き消された。この時、部屋に防音魔法を掛けたらしいのだが、私は恐怖のあまり気付けなかった。
「ぜ、ぜつりん、ってなんでしょうか…」
そして今一番してはいけなかった質問をシンディア様に投げた時には遅かったのだと、全てが終わった時に気付いた。
それから半年後にはシンディア様と結婚し、更に半年後には男の子が産まれ、育児とか色々大変な時に義姉二人に恐れ多くも色々なアドバイスや子育てを手伝って貰いながら、時にはお茶会と称して旦那の愚痴を零す。
時折、シンディア様の婚約者と名乗るご令嬢が現れるが、クグリ様が「よくあるよくあるほっとけほっとけ!」と言いながら報告書を王に提出していた事は知っている。またある日は身に覚えのない罪を被せられそうになっていると王妃様が、「証拠は?」と詰め寄りまさかの逆転劇が始まり、結局罪を被せようとした奴が逆になんとかかんとかの罪で、捕まったりしていた。
こりゃー、旦那は尻に敷かれるわー。と思うだろうが私は知っている。全部王の掌の上で転がされていたのだ。何かある度、王妃様は憤慨していた。「また地獄が始まる!」と、この地獄はシンディア様曰く、1週間は部屋から出られない事を指しているのだと。想像して、恐ろしくなった。
とりあえず、色々あるけど、二人目妊娠したけども、幸せなのには違いはない。はず。