初恋
「君だよ、ナナリー!」
初めて彼女の名を口にした途端、抑えようの無い感情が洪水のように溢れ出した。
……よかった。
彼女の名を在園中に呼ばなくて。
もし呼んでいたら、私はとっくに大人として在るまじき行動をしていたかもしれない。
※
「あのさ、凄く迷惑。どうして私を好きになるの?早くその余計な感情をどうにかしてきてくれない?これじゃあ研究に支障が出る」
正面に立つ女の顔を確認する事もないまま、アルドはそう言い放った。
彼の視線は机上に開かれた学術書から逸らされる事は無い。
「……酷い」
「そう言われても……。じゃあどうして欲しいの?私と寝れば満足する?」
言い終わるや否や、アルドの頬には鋭い平手が飛んできた。
叩かれた頬にようやくアルドは顔を上げる。
「……ゆる、さない!許さないわよ、アルド!」
怒りに顔を歪めた女―――魔女は足を踏み鳴らして部屋を出ていった。
「……今のは本当に最低だと思うぞ、アルド」
すぐ近くにいた友人に苦言を呈されたがアルドには全く響かなかった。
―――アルド、24歳。
彼は魔法学の研究以外に興味のない男だった。
「なあ、アルド。お前その魔法に対する興味をもう少し他者に向けてみたらどうだ?あの子だって、気が合ってただろう?」
「彼女の魔法の知識は素晴らしいからね。伊達に40年は生きてないね」
「……お前なぁ……」
「それよりさ、ここの魔法展開なんだけど―――」
アルドは人の機敏に疎くて、それを改善する気もなかったのだけど。
「……あれ?」
それから数年経ったある日、身体の変化が何も訪れない事に気がついた。
「ようやく気づいたのぉ?そう、私特製、その名も愛でメロメロメロ〜ン魔法よ!」
「……どういうこと?」
数年ぶりにアルドの前に現れた魔女は以前よりだいぶ髪が伸びていた。
とはいえ、彼女も外見の変化はほぼ無い。
「解く方法は簡単よ。アルド、アナタがどうしようもなく誰かを好きになって、その人の全部全部ぜーんぶが欲しいって欲望を実感すればいいの。もちろん、その感情は私に向けてくれていいわ!その時には盛大に振ってやるんだから!」
「……まあ、要するに今の私は不老不死なんだね?―――いいね、魔法研究が捗る」
「アナタねぇ……」
呆れた様な魔女のため息に、自分勝手な女だとアルドは思ったが声には出さなかった。
なんの不便もない、そう思ったから。
最初に違和感を覚えたのは、いつだって真っ直ぐに苦言を呈してきた友人が亡くなった時だった。
アルドと共に研究を進めていた男は気がついたら家庭を持ち、子、孫が生まれ――老いていった。
「子供達に関してはなんの心配もねぇ……立派に育ったからな。俺は最後までお前が心配なんだよ……」
アルドにそんな言葉を向けたほんの一月後、男は眠る様に息を引き取った。
(もう、居ないのか)
この時すでにアルドは魔法学に於いてそれなりの地位を築いていて、そんな彼に真っ向から毒を吐くのは魔女一人になってしまった。
―――そんな魔女も。
「ごめんね、ごめんねアルド。すぐ解けると思ってた。もう、私でなくていいから、誰でもいいからアナタの心を動かしてくれればって……。ごめんなさい、ごめんなさいアルド」
「いいよ。私は怒ってない……もう、おやすみ」
破天荒な魔女の事をアルドは決して嫌いなわけじゃ無かった。
けれど、アルドの心臓が彼女のために動くことも無かったのだ。
魔女はぴったり100年生きて、見かけは若いままに老衰で死んでいった。
その後もアルドは、多くの人を見送った。
アルドに学園長の座を用意してくれたのは弟の孫で在る当時の王だった。
「貴方は何にも囚われる必要は無いですけど、場所はあった方がいいと思って」
彼は聡明な男だった。
アルドはたびたび自身が何者かわからなくなったけど、その肩書きが彼を人へと縛り付けてくれたから。
その度にアルドはもう居ない男に感謝をした。
魔法以外興味が無かったはずなのに、アルドは人を大事に思う様になった。
生徒達が卒業して自身よりも大人になって活躍して、そうして年老いていく姿を見る度に、その眩しさに目が眩んだ。
エルフの友人も出来た。
たまにしか会う事はできないが、同じ様な時間を生きる友人の存在はアルドの心を大いに励ました。
―――そんな友人もある日、エルフの森の諍いの中儚くなってしまった。
何度か、女性と良い関係になった事もある。
いい人だな、とか、一緒にいると落ち着くな、と思う女性と出会う事だってあった。
もう、これが恋でいいじゃ無いかと、私はこの人の事を好きだろうと思う事もあったが、アルドの心臓がそれらに反応を返す事はなかった。
(もう本当にずっとこのままなのかもしれないな)
―――あの、雪の日の衝撃をアルド以外の誰が分かるだろうか。
自分ではなく遠くを見ながら笑う少女。
その笑顔にごくりと喉を鳴らした。
足元からぶわりと全身に血が巡る様な、熱が頭まで到達する。
(痛い、心臓が、熱い……!)
少女の手首を思わず握りしめた。
消えてしまいそうで怖いのもあったが、何よりその熱の衝撃をそのままに握りしめてしまったのだ。
ずっと忘れていた鼓動が、知らない速さで胸元で止まない。
今すぐ目の前の少女を抱き締めて、欲望のままに自分のものにしたくて仕方がなくなった。
(……あぁ……これは確かに知らなかった……)
これが恋だというのなら、何て、何て、醜悪な感情なんだろう。
己の欲を全て詰め込んで、押し付けたくて仕方がない。
ナナリーに同じ欲を持って、自分に返して欲しい。それを全て飲み干したい。
アルドは長い人生で初めて得た感情に、揺さぶられて―――喜びを得た。
※
「ナナリー」
「何ですか?」
「……ナナリー」
「はい」
「ナナリー」
「……アルドさん?」
ナナリーが学園を卒業して、二人は早々に籍を入れた。
諸々面倒な手続きはあったが、アルドはそれらを恐るべき速さで処理してナナリーを手に入れた。
「ううん、可愛いなって思って呼んだだけ」
「…………。あ、アルドさん!あれなんですかね?」
「え?」
不意にナナリーが指を差した方に、何の疑問も思わずにアルドは顔を向ける。
―――途端に、頬に感じたのは柔らかい感触で。
「えへへ、隙あり〜!仕返しですよ!」
頬を真っ赤に染めて笑うナナリーに、アルドの心臓は高鳴る。
(ああ、本当に。ナナリーのせいで私の心臓はずっと痛い)
その場を逃げようとするナナリーの腕をいとも簡単に捕まえて、アルドは笑った。
「ナナリー、大好きだよ。ね、もう一回して?」
今や胸元まで伸びたアルドの髪が、風に乗って柔らかくそよいだ。




