第九話
法廷へと続く高い天井の回廊は、冷え切った静寂に包まれていた。フィリップには「君のような不安要素は家に置いておきたい。いいな、終わるまで一歩も外に出るんじゃないぞ」と言いつけられたが、メグにそんな聞き分けの良さを期待するのが間違いである。
あの悪徳弁護士が、彼女が一番欲しがっていた首を銀の皿に乗せて届けると宣言したのだ。その結末をこの目で見届けなければ、この地獄の日々が報われない。
「……おや、こんなところでお会いするとは。奇遇ですね、レディ」
不意に影が伸び、冷徹な声がメグの足を止めた。柱の陰から現れたのは、夜会で踊ったあの男──チャールズ・フィッツジェラルドだった。彼は相変わらず隙のない身なりで、メグを値踏みするように目を細めた。
「……ムッシュ・フィッツジェラルド。……ええ、あいにく観劇の予定が流れてしまいまして。代わりと言っては何ですが、パリで最も刺激的な悲劇が演じられていると聞き、つい足を向けてしまいましたの」
メグは瞬時に淑女の微笑を貼り付けた。しかしチャールズは歩みを止めず、彼女を追い詰めるようにゆっくりと距離を詰めてくる。
「悲劇、ですか。確かにここは、多くの者が身に余る夢を抱き、そして破れる場所だ。……ところでレディ、貴女はあの法廷の入り口に立つ、正義の女神ユースティティアの像をどう思われますか?」
「……まあ、ずいぶんと急な問いですこと。立派な彫刻だと思いますわ。何か、特別な謂われでもあるのでしょうか?」
メグが扇を広げて動揺を隠すと、チャールズは満足げに口端を上げた。その視線は、彼女が纏う絹のドレスの質感を確かめるように、執拗に輪郭をなぞる。
「左手に天秤、右手に剣。彼女は相手が誰であろうと、差し出された重みの真実だけを測るためにその目を布で覆っていると言います。ですが、レディ。目隠しをされた女神の前に立つとき、人は嘘をつけない。なぜなら彼女が測るのは、着飾った外見でも流暢な弁明でもなく、神だけがご存じの魂の重さそのものだからです」
彼はまるでお気に入りの詩を口ずさむように、穏やかでいて残酷な響きを声に乗せた。
「神はすべてを見ておいでだ。……最後には天秤の傾きがすべてを白日の下に晒し、まもなく彼女の剣が偽りを切り裂く。貴女が巧みに縫い合わせた仮面が暴かれる瞬間を、私は実に愉しみにしているのですよ」
チャールズは最後の一歩を詰め、獲物の息の根を止める直前の狩人のような、静かな愉悦を瞳に湛えた。メグの瞳の奥に潜む路地裏のドブネズミを、今にも引きずり出そうとするかのように。
「神様が嘘を暴く……素敵なお考えですこと。でも残念ながら、夫は“悪魔の代弁者”なんて呼ばれておりますの。神様がお忙しくて手が回らないときは、悪魔が代わりに真実を暴くこともあるようですわ」
メグは一歩踏み込み、至近距離でチャールズの瞳を見据え返した。恐怖で震えそうになる膝を、気高さという名の虚勢で押さえつける。
「彼には立派な剣も、公平を装う天秤も、ましてや現実から目を逸らすための目隠しだってございません。ただ、地獄の底まで腕を突っ込んで、綺麗な顔をした怪物が隠した真実を力ずくで引きずり出す泥塗れの腕があるだけ……」
チャールズの言葉はもはや社交界の戯れ言ではない。今ここで怯めば、この男に正体を喰い殺される。メグは背筋を伸ばし、フィリップから叩き込まれた教えを呪文のように繰り返した。
──言葉は君が何者であるかを定義する。高貴な婦人として喋れば、たとえ相手が国王であっても君を侮ることはできない。
「目隠しをしたままの正義が見落とした真実を、悪魔のやり方で暴く。そのために魂を売ったのだとすれば、私、本望ですわ」
チャールズの眉が不快に跳ねる。彼女の正体を暴き、狼狽させようとした彼の目論見は、淑女の傲慢さによって脆くも跳ね返された。彼女が何者であろうと、この凛とした立ち振る舞いの前では、どんな告発も低俗な嫉妬か根拠のない中傷にしか聞こえない。
「さあ、道を空けてくださる? 今からあの中で、悪魔が最高に無作法な真実を引きずり出すところですの。見逃しては、もったいなくてよ」
メグは迷わず法廷の扉に手をかけ、一気に押し開ける。重厚な音を伴って扉が左右に開いた瞬間、法廷内の空気は極限まで張り詰めていた。
「被告人、ギュスターヴ・ミレーが署名したとされる自白書類。しかし残された筆圧を解析した結果、本来この紙の上に重ねられていたのは別の正規書類であることが判明しました。さらに実行犯であるエドモン・ヴィドックの供述、および彼が隠し持っていた証拠物が事実を指し示しています」
フィリップは扉が開いた音に眉ひとつ動かさず、手にした書類を裁判官へと差し出した。彼はメグの乱入に気づいているはずだが、その姿はあくまで冷徹で、悪魔の代弁者とも呼ばれる弁護士の体現そのものだった。
その時、メグを追うようにして、チャールズ・フィッツジェラルドが静かに傍聴席へと姿を見せる。彼がまるで教会の椅子にでも座るかのような優雅さで、腰を下ろしたその瞬間だった。
「あ、あああ……っ! 嘘だ、なぜ、なぜあんたがここに!」
証人席の端で縮こまっていたエドモンが、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。幽霊でも見たかのように顔を蒼白にさせ、ガタガタと震える指でチャールズを指差す。
「彼だ! その男だ! 俺に書類を渡したのも、ミレーを嵌めろと命じたのも、すべてフィッツジェラルドだッ! 助けてくれ、逆らえば消される、俺はただの駒だったんだ!」
「静粛に! 証人、着席しなさい!」
裁判官の槌が激しく打ち鳴らされる。法廷内は蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。チャールズは乱れることなく、ただ優雅に傍聴席で慈悲深い聖者のような笑みを浮かべている。
しかし、裁判官の目は笑っていなかった。エドモンの取り乱し方は、単なる虚言とは到底思えない。裁判官は手元の書類と、平然と座るチャールズの姿を交互に見比べ、その鋭い眼光を男に向けた。
「……チャールズ・フィッツジェラルド卿。貴方の名は、今のところどの証拠書類にも記載されてはいませんが。これほどまでに名指しで怯えられている理由について、いずれ伺う必要があるかもしれませんな」
チャールズは法廷内のあらゆる視線を一身に集めながらも表情を変えなかった。その立ち振る舞いは、泥にまみれたエドモンの醜態とは対極にある、一点の曇りもない紳士のそれである。
「……フィッツジェラルド卿。貴方は証拠不十分と言いたげな顔をされている。確かに指示書の筆跡は巧妙に偽装され、金銭の動きも複雑な迂回路を辿っている。しかし、一点だけ。貴方ほどの完璧主義者が、あろうことか端役を侮りすぎた」
フィリップは書類の束から、最後の一枚──先ほどまでとは明らかに質の異なる、何度も握りしめたような古びた紙の断片を、まるで行き先のない事務書類を整理するかのように無機質に掲げた。
「エドモン・ヴィドックは、約束された報酬が確実に支払われる証拠を求めた。貴方の名が書けないのなら、せめて貴方の家系がこの約束を保証している証拠を、とね」
紙の末尾には、一点の曇りもない深紅の封蝋がはっきりとその形を留めている。指示書に刻まれた、あまりに艶やかなその紅の色。
「この印は、貴方が今その指にはめているシグネットリングと、寸分違わず合致するはずだ。……裁判長。今すぐ彼の指輪とこの封蝋の照合を。それだけで、天秤を傾けるには十分でしょう」
チャールズが無意識に右手を隠そうとしたが、その動揺こそが何よりの自白となった。法廷内のすべての視線が、逃げ場を失った蛇を追い詰めるように彼の指先に集中する。
先ほどまで聖者のように穏やかだった彼の微笑が、薄氷が割れるように崩れ落ちる。チャールズは自分の指輪を見つめ、それから初めて、傍聴席で自分を真っ向から睨みつけるメグへと視線を移した。
メグは逃げなかった。淑女の仮面の裏側で、泥にまみれて戦い抜いた娘の誇りを瞳に宿し、彼を見据え返した。
「……女神の目隠しは引き剥がされたようだ、チャールズ・フィッツジェラルド」
フィリップが淡々と引導を渡す。裁判官は厳かに頷き、執行官にチャールズの身柄確保を命じた。槌が三度、重く打ち鳴らされる。怒号と驚愕の渦に飲み込まれた法廷で、メグの視界は、ついに無実を勝ち取った父ギュスターヴの、震える背中で滲んでいった。




