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第八話

「エドモン・ヴィドック。地方劇団をクビになった端役者だ。二年前、楽屋の現金を盗んで前科がついている」


 帰宅したフィリップは上機嫌を通り越して、狂気じみた愉悦さえ宿していた。さらに追い打ちをかけるように、彼は情報屋が掴んだ奇妙な事実を付け加える。


「奴が最近、街の医療器具店で注射器を購入していた。……メグ、役者上がりの詐欺師が、なぜ医者でもないのに注射器など必要とすると思う?」


 メグが答える前に、フィリップは法廷から戻ってきた再鑑定の報告書をテーブルに広げた。


「鑑定結果だ。字は間違いなく君のお父上、ギュスターヴ・ミレーのもの。しかも君が託したあの愛用の万年筆で書かれている。だが……」


 彼は報告書の一点を指先で鋭く叩いた。


「インクのみがイギリス製、そして偽造債券もイギリス製だった。つまりこういうことだ。奴はお父上の筆跡を模写したんじゃない。本人に書かせたんだよ。正規の書類の下に、あの自白書類を重ねて敷いた。筆圧で残った跡に、注射器でイギリス製のインクを流し込んだんだ」


「それでインクだけが違ったのね? やっぱり、父さんはサインなんてしてなかったのよ……!」


 メグの瞳に、悔しさと安堵が混じった熱い色が浮かぶ。筆跡そのものが本人のものであるという事実が呪いのように彼女を縛り付けていたが、その真相が今鮮やかに暴かれたのだ。


「次の公判で、僕はエドモンを“天才的な犯罪の主犯”として大々的に糾弾する。奴がすべての計画を立て、資金を動かした怪物だとね」


「……あんな間抜けを? 逆じゃないの? あいつはただの駒だって言わなきゃ」


「いや、それでいいんだ。メグ、欲張りな小悪党が、分不相応な手柄と責任を押し付けられたらどうなる」


 その問いにメグはしばし沈黙した。市場の裏通りで、自分の手に負えない大金を掴んだ連中が、その後どうなったか。彼らの末路はいつも、欲と恐怖に支配されていた。


「……怖くなって逃げ出すわ。それか本当の飼い主が、自分まで道連れにされる前にそのうるさい口を塞ごうとする」


「黒幕にとってエドモンは替えのきく端役だ。だがその端役が法廷で主犯として祭り上げられれば、焦った黒幕は必ず尻尾を出す。口封じか、あるいは海外への高飛びか。……どちらにせよ、そこが奴らの終着点だ」


 フィリップは二つのグラスに琥珀色の酒を注ぎ、メグに軽く掲げてみせた。窓の外では街灯が並び、獲物を誘い込む蜘蛛の巣のように見える。


「明日は法廷が劇場に変わる。君は家で、そのネズミの嗅覚を研ぎ澄ませて待っていてくれ。獲物が罠にかかる音は、ここからでも聞こえるはずだよ」



 ◆



 フィリップは事務所の革椅子に深く腰掛け、優雅にパイプを燻らしていた。


「完璧だ。エドモンは今頃、自分の影に怯えて震えているだろうよ」


 七日前の公判は、まさにフィリップの独壇場だった。彼がエドモンを稀代の詐欺師として祭り上げたことで、警察は色めき立ち、奴を債券偽造の容疑者として正式にマークし始めた。メグが社交界の茶会や夜会でばら撒いた“投資の裏に潜む怪物の影”という噂も、火に油を注ぐ結果となった。

 今やパリ中の目がエドモンに向いている。捕まるのは時間の問題であり、そうなれば財布役も黙ってはいない。ギュスターヴ・ミレーの無罪放免は、もはや目前に迫っていた。


 しかしその静寂を打ち破るように、事務所の扉が突然壊れんばかりの勢いで叩かれる。


「……何の騒ぎだ」


 フィリップが眉をひそめて扉を開けた瞬間、一人の男が崩れ落ちるように雪崩れ込んできた。

 そこにいたのは、数日間の逃亡生活で泥と汗にまみれ、瞳は血走ったくたびれた男──かつてホテル・エルゼのスイートで国家事業の代表を気取っていた、あの自信に満ちた紳士の面影はない。


「フィリップ・ロダン……! 貴様、よくも、よくもあんなでたらめを……!」


 エドモン・ヴィドックは激しく喘ぎながら、執務机にしがみついた。彼の唇は恐怖で震え、向けられたその視線には、怒りよりも切実な絶望が張り付いている。


「でたらめ? 何のことかな。法廷で君の功績を正当に評価してあげただけだよ、エドモン」


 フィリップは微塵も動じることなく、冷徹な眼差しで見下ろした。エドモンは短い悲鳴のような声を漏らし、懐から何かを取り出そうとして手を震わせる。


「主犯だと!? 俺が、あんな……あんな計画を一人で考えられるわけがないだろう! 俺を怪物に仕立て上げれば、あいつが黙っていないことくらい、弁護士なら分かるはずだ! 殺される……警察に捕まる前に、あいつに消されるんだ!」


 男は床に膝をつき、嗚咽を漏らしながらフィリップの靴に縋り付いた。端役者に主役の重圧は耐えきれなかったのだ。


「……そうか。ならば今すぐ、その震える足で警察署へ向かうといい」


「自首しろって? 正気か、外にはあいつの追手が……」


「だから言っているんだ。監獄の格子の内側ほど、今の君にとって安全な隠れ家はない。僕が弁護してやるから、大人しくお縄につけ。死にたくないんだろう?」


 エドモンは喉を鳴らし、震える手で懐から一束の紙を取り出した。それは彼が万が一のときの“保険”として隠し持っていた、正規の書類の原本──ミレー氏の愛用のインクが克明に残った、あの署名の真実の姿だった。


 そして、もう一枚。そこには、事細かにエドモンへ犯行手順を命じた黒幕からの指示書が添えられていた。


「……これ、これを渡す。だから助けてくれ、ロダン……!」


 フィリップは顔をしかめ、指先だけで汚れた書類をひったくると、ランプの光にかざした。書類の末尾には、特定の紋章を模した封蝋の跡。


「……なるほど。端役のくせに、これだけは上等なものを持っていたじゃないか」


 フィリップは書類を閉じると、それをデスクの引き出しの奥深くへと滑り込ませた。部屋に響いた重厚な鍵の音は、エドモン・ヴィドックという男の運命が、完全にフィリップの手に委ねられた音でもあった。


「エドモン。君は今日、人生で初めて最高の役を演じきったよ。もっとも、君にこの大役を振ったドルーリー・レーンの脚本家はさぞお気に召さないだろうがね」

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