第七話
ルーヴル百貨店の磨き上げられた床を、メグは迷いのない足取りで進んだ。彼女は陳列された手袋やネクタイを退屈そうに、それでいて確かな審美眼を持つ者に見える手つきで確かめていく。
「いらっしゃいませ、マダム。本日はどのようなお品をお探しで?」
「……ええ。主人のために、少し特別な贈り物を探しているの。でも、彼は好みにうるさくて困ってしまうわ」
メグは革製の手袋を手に取り、その質感を確かめるふりをしながら、驚くほど自然な動作で数フランのチップを店員の手に握らせた。下品な賄賂ではなく「貴方の時間を少し頂戴するわね」という、優雅な合図として。
「最近、主人が国家事業の投資話に夢中で困っているの。代表のド・ラ・モット様という方は、お洒落に拘りがある方のようですけれど……ここでもお見かけになるかしら? 主人があの方と同じようなセンスのものを欲しがっていて」
景気の良い言葉に、店員の顔が一瞬で特別なお得意様への親愛に満ちたものに変わった。
「ああ、ド・ラ・モット様でございますか! 先日もイギリス製の最高級ウールで、三着もスーツを新調されましたよ」
「あら、あの方は現金を持ち歩かない主義だと聞いたけれど……」
「いいえ、マダム。あの方は国家事業の特別予算だと言って、見たこともないような新しい債券で支払われようとしたのです。ですが、結局は別の紳士……ご友人と名乗る方が、後で現金を届けに参りました」
メグの指先がピタリと止まった。どうやら、ド・ラ・モットは頭の切れる男ではないらしい。偽造債券を使おうとして、財布役は後始末に追われている。
「そうなの……。実はね、主人がド・ラ・モット様に会いにいくとよく出て行くのですけれど、私にはどこへ向かうのかさえ教えてくれないの。妻としては、少しばかり心配で……。あの方は、どちらに邸宅を構えていらっしゃるのかしら?」
夫の身勝手に振り回される、淑やかで害のない貴婦人。その完璧な演技に店員はすっかり同情の眼差しを向け、声を潜めて囁いた。
「あの方はヴァンドーム広場のホテル・エルゼのスイートに滞在されていますよ。何でも邸宅の改修が終わるまでの間、あえてホテルをお使いだそうで……」
「まあ、エルゼに。やっぱり、一流のお方は選ぶ場所も一流なのね」
店員は「全くでございますね」と、共感の笑みを浮かべた。メグは満足げに頷くと、最高級のシルクのネクタイを一本指差し包ませる。
フィリップから預かった革財布をためらいもなく開き、見送りを受けて百貨店を出ると、手にした華やかな包みを抱き直した。このルーヴル百貨店のロゴが入った包みこそが、今や彼女が貴婦人であることの何よりの証明である。
次に向かったのは、ヴァンドーム広場にそびえ立つホテル・エルゼ。エントランスを抜けると、重厚な大理石の床と、鼻をくすぐる高価な香油の匂いに圧倒されそうになる。しかしメグは臆することなく、少し疲れを見せた買い物帰りの貴婦人を演じながらロビーを横切った。
狙うはフロントの脇で宿泊客の郵便物を仕分けている若手のボーイだ。メグは手荷物を抱え、わざと足元をふらつかせた。
「きゃ……!」
短い悲鳴とともに、メグの体はボーイの腕の中に倒れ込み、抱えていた包みと郵便物が床に散らばった。
「申し訳ございません、マダム! お怪我はございませんか?」
慌てふためくボーイが膝をついて荷物を拾い集める、わずか数秒。メグの視線はワゴンの上に広げられたままの宿泊台帳へと、獲物を狙う鷹のように突き刺さった。スイートルームの十名の名前。上段から順に、流れるように文字を脳に刻み込んだ。
「いいえ、私の不注意だったわ。……ごめんなさい、お仕事のお邪魔を」
まさかこの可憐な夫人が、今の一瞬で名簿を盗み取ったとは、ボーイも遠くから見守っていたフロント係も夢にも思わないだろう。
メグは淑やかに会釈をしてエントランスを出ると、待たせていた馬車に飛び乗った。扉が閉まった瞬間、彼女はドレスの裾を握りしめ、覚えたての十名の名前を呪文のように何度も繰り返した。
◆
「お土産よ、ネクタイ。あんたのお金で買ったから、せいぜい似合うようになってちょうだい」
「……随分と高い手土産だな。それで、収穫は?」
屋敷に着くやいなや、メグは書斎のドアを蹴破るような勢いで飛び込んだ。高級シルクのネクタイをフィリップの机に放り投げると、驚いて顔を上げた彼の前からペンを奪い取る。
「ホテル・エルゼのスイート、全十名の名簿よ。いい、あんたは私の言う名前に心当たりがあるか答えて。まずはルナール伯爵、アーサー・H・ウィリアムズ、フォンテーン男爵……」
「ルナール伯爵は金鉱事業の有力者だ。エルゼの常連だよ。ウィリアムズはイギリスの綿織物商、フォンテーンは南の旧家だ。どちらも金払いの良さで知られている」
メグは次々と名前を読み上げ、フィリップがその人物像を補完していく。イタリアの外交官、ロシアの貴族、アメリカの鉱山王……。豪華な顔ぶれが並ぶ中、メグの指が七番目の名前でぴたりと止まった。
「これは? エドモン・ヴィドック」
「……ヴィドック? 聞かない名だな」
「他の客は皆、宿泊費はツケか小切手で支払ったって記録があった。でもこのヴィドックだけは、滞在費を一週間分ずつ、常に現金で前払いしているの」
フィリップはその名前を凝視し、手元の紳士録をめくった。
「……やはり載っていない。他の九人は実在しているが、エドモン・ヴィドックなんて名の紳士は、このパリの社交界には存在しない」
「それじゃ、これがジャン・ド・ラ・モットの正体ってわけ? ……でも変だと思わない? 詐欺師が足のつく本名でエルゼに泊まるなんて」
「エルゼのような一流ホテルは、紹介制や身分証の提示を厳しく求めてくる。正体不明の“ジャン・ド・ラ・モット”という幽霊では、スイートの鍵は受け取れなかったんだろう」
メグは百貨店での出来事を思い出し、椅子を引いて身を乗り出す。
「やっぱりあいつ、どこか抜けてるのよ。百貨店でもね、見たこともない新しい債券……偽造債券でしょうね、あれを叩きつけたんですって。店員が怪しんで受け取りを拒んだら、後から別の紳士が慌てて現金を持って火消しに来たって」
「……なるほど。筆跡を模写するインクの選択を誤り、偽造債券を使い、さらにはホテルの宿帳に足跡を残す。間抜けな小悪党に誰かが分不相応な衣装と財布を与えたというわけか」
フィリップは立ち上がると、壁際に置かれた黒塗りの電話の受話器を取り上げた。
「どうするの? 警察にその名前を照会させる?」
「いや。公式な記録に触れれば、背後にいる財布役にこちらの動きが察知される。……僕の友人に、登録簿に詳しい男がいてね」
彼は迷いなく交換手に短い番号を告げる。ジリリ、と低く唸る電話機に向かって、逆らいがたい威圧感を持って話し始めた。
「僕だ。フィリップ・ロダンだ。大至急、洗ってほしい名前がある。エドモン・ヴィドック。……ああ、一時間だ。一時間以内に奴の本当の履歴書をすべて吐き出させろ。報酬は……君が今飲んでいる酒よりは上等なものを約束しよう」
受話器を置いたフィリップはメグの方へ向き直り、この上なく性格の悪そうな、不敵な笑みを浮かべた。
「メグ、奴の仮面を剥ぎ取る準備をしよう。正体がわかれば、次にルーヴル百貨店で新しいシャツを買いに来た瞬間のエドモンに、最高の特別検問をプレゼントしてやれる」
「……あんた、ときどき本当に生粋の悪人みたいな顔するわね」




