◆序章:三環の断章より ―リゼル視点― ◆
魔哭神の居城。
数多ある部屋の一室に──静寂に包まれた薄闇の書庫。
羊皮紙の匂いと、鉄のような冷気。火はある。だが、暖かさだけがない。
棚から抜き出された一冊の古文書に、紺色の三つ編みがふわりとかぶさる。
その人物は、少年とも少女ともつかぬ声で、静かに読み始めた。
【人属に伝わる創世譚──『三環の断章』より】
いにしえの大地に、神が環を描きしとき、
この世に住まう者らは、二つにして一つであった。
東に人属、西に亜人。
それぞれ異なる理を持ちながらも、互いに道を通わせ、言葉を交わし、手を取り合っていたという。
天よりも高き蒼穹にて五神は沈黙しつつも、時には自然現象を、時には神託をもって、地上の者らを導くにとどめていた。
因果神は世界の運命を無作為に下し、生命神は世界の生命を造り、自然神は世界に恵みを与え――
理力神は世界に進化への道を授け、曜冥神は世界に目覚めと眠りを定めた。
世界の理を決めた五神は、古の時代より等しく崇め奉られる。
されど、ある時。
ひとりの神が“眼差し”を変じた。
その名は、自然神『ヴァルザ』。
火・水・風・大地の神域により、世界に恵みを与え成長を促した父神。
時に優しく、時に厳しく、世界へ、そして生物へ平穏と激動を与え続けていた。
だが、その慈悲は――ある日、ひとつの感情で裏返った。
世界の父は、美しき感情を憎悪と悦楽へ転じた。
嗤いとともに神座を離れ、地に堕ちたり。
かくして生まれたは、『魔哭神』なる異端。
神は分断せり。
人属と亜人属の間に“黒き環”を穿ち、
狂気の軍勢をもって、二つの環を血と嘆きで裂いた。
かくして世界は三つに別れたり。
魔哭神の“神環”、
人属の“人環”、
亜人属の“亜環”。
以来、この地は『三環大陸トリスクレオン』と呼ばれることとなった。
この翌年に世界は年号を変える。
かつては神に育てられ神を崇めていた『神歴』と呼ばれた時代は、魔哭神へと堕ちたヴァルザの支配をきっかけに削除された。
紡がれた三百五十年の歴史は空白の記録となる。
次年号は『環歴』と呼ばれ、理性ある生物が切り開く時代だと覚悟を決め、神を敵と定め、信仰を捨てる。
今では、この断章は正史から削られた“異端の神話”として、ひそやかに写本だけが受け継がれているにすぎない。
◇
古文書の格調は、ここではただの“外套”にすぎない。
「……ふふ、これが人属に伝わる“神話”だそうですよ」
三つ編みを弄びながら、リゼルは静かに口元を歪めた。
その手元には、もう一冊の書――否、魔哭神ヴァルザ自身が記した手記があった。
子供がお気に入りの絵本を読むように、何かを心に刻むように、リゼルは改めて読み始めた。
【魔哭神ヴァルザの手記──抜粋】
今は使われていない日付――ヴァルザが戦果と研究を記すために刻んだ、独自の符号で書かれていた。
■▲の刻――
吾は地上に堕ちた。さあ、見せてくれ。甘美なる「感情」を。
●▼の刻――
人の街を自らの手で潰した。千人ほどの命、三日ほど楽しめた。
ひと時であったが、初めての愉悦にしては悪くなかろう。
〇◆の刻――
季節が変わるころ人・亜人の集団と交戦した。
魔法の他、妙な物体を使ってきた……あれはなんだ?
■■の刻――
“魔導術具”と呼ばれるものを接収した。稚拙ではあるが、技術の発展性は悪くない。
吾ならばもっと……。
▽⨂の刻――
魔法と術具の研究は面白いが、侵攻と両立せねばならぬ。
よって、“命の創造”を試してみようではないか。
▲●の刻――
あやつの真似事をしてやろう、かつて『生命神』が人・亜人の種を蒔いたように……
あの時はあやつ自身の因子を薄めて使っていたか……であれば吾は因子を濃くしてみようではないか。
⬢□の刻――
魔法素養を有する生命体をいくつか生み出した。
亜種として定めるならば、『神造生命体』であろうか。手駒として実験するか。
人や亜人は集団で戦うことを覚えたようだ。
ならば神の軍勢を造って遊んでやろう。
⬠◎の刻――
将級、上級、中級、下級……兵は階級別に知性を変動させるか。
兵に意思など要らぬ、指示系統を重視しよう。
自動製造の魔導術具も、もう少し増やして戦線を拡大してやろう。
▣△の刻――
良い戦果が出ているな。特に闇魔法を操る『玩具』はいい動きをする。
月の光を宿すような髪を持つ、特に良質な玩具だ。
名を与えよう。『エクリナ』と――。
小さな本を優しく閉じる。
まるで大切な宝物のように、リゼルはその表紙を撫でた。
「……やっぱり、面白いなぁ、ヴァルザ様の手記は。貴方は何を拒絶し、そして何を選んだんですか?」
「ねえ……エクリナ?」
返事がないと知りながら、問いは口から零れた。
誰もいない神の書斎で、リゼルはそっと問いかける。
静かな囁きが、書斎の薄闇に溶けて消えていった。




