◆第26話:湯郷と笑い声◆
翌朝。
宿の朝食を終えた一家は、それぞれの時間を自由に過ごしていた。
「……ふむ、庭の造りもなかなか。木々の手入れも行き届いておるな」
エクリナは縁側に座し、湯上がりの身をそよ風に晒しながら、優雅に緑茶を嗜んでいた。
隣ではセディオスが新聞を広げ、どこか穏やかな表情を見せていた。
「温泉、気に入ったか?」
「うむ。我が選んだわけではないが……評価に値するな」
その言葉に、セディオスは微笑んで湯呑を傾けた。
一方、ライナとルゼリアは再び風呂へと向かっていた。
「お風呂は朝も入らないとっ!」
「……湯あたりしないよう、気をつけてくださいね」
その掛け合いはどこか微笑ましく、仲睦まじい姉妹の空気を漂わせていた。
「……いい空気ですね、エクリナ」
庭から戻ってきたティセラが、そっと呟く。
「うむ、初めての土地だが……これもまたよい」
エクリナは湯上がりの緑茶を一口啜り、穏やかに微笑んだ。
「館に帰ったら、いくつか改装したいですね」
ティセラは一呼吸おいて言葉を続ける。
「皆が気に入った大きなお風呂も欲しいですが……先に街へ買い出し用の空間転移術具を製作すべきかもしれません」
湯けむりに癒された瞳でありながら、その声はいつもの冷静さを宿していた。
「先の様な転移構築で普段用として製作するのだな?」
「はい。私たちの装備が館の保管庫に接続して転移しているように、エクリナの空間転移術式と私の制御方式を組み合わせれば、術具への搭載は十分に可能かと」
「ふむ……ならば、帰宅次第、製作を頼むぞ。我が親友」
エクリナは満足げに頷き、心底楽しそうにそう命じるのだった。
◇
昼になり、『霊泉郷セイリョウ』の街に繰り出す五人。
思い思いに浴衣を着て、ライナとセディオス以外は、その上から羽織を重ねていた。
街では湯けむりが立ち上り、硫黄の香りが強い。
湯けむりの合間を縫うように、木札の看板や紙灯籠が揺れている。
どの店先にも、見慣れぬ器や菓子、香草が並び、通り全体が小さな祭りのようだった。
『珍しいものばかりだな』と、エクリナは周囲を見渡しながら感嘆の声を漏らす。
「ここはユヅランの管轄だからな。いろいろ規制が掛かってるんだ」
と、セディオスは説明する。
「そうなの?」
ライナが不思議そうに聞いた。
「文化の流出を防いでると聞いたな、独自の価値観が強い町なんだ。小さい都市と言うこともあり、優位性を保ちたいんだろう」
「ただ、そもそも独特過ぎるので、近隣都市に広がることもないんだがな」
と、セディオスは肩をすくめた。
「へ~そうなんだ」
ライナは感心する。
「確かに独自の文化ですね、この『浴衣』も着こなしに難儀しましたね」
ルゼリアは自身の浴衣を見て言う。
「布一枚ってあまり無いですからね」
ティセラは補足した。
「いつか、ユヅランにも行ってみたいものだ」
エクリナは言う。
「そうだな。ユヅランには『剣豪』の称号を持つ剣士が少なからずいるんだ、独特の剣技でな取得が中々……」
セディオスが剣について語り始めると、その目がわずかに楽しそうに細められた。
その口調には、かつて戦場を渡り歩いた者ならではの熱がこもっていた。
「これは長くなりそうですね……」
ティセラは半ば呆れて聞いている。
「あ、おいしそうなのがあるよ」
ライナが言う。
「行きましょう」
ルゼリアもそれに乗った。
二人は店に向かう。そこは温泉饅頭の店だった。
「うお!なんかすごい。でもいいにおい」
「これは初めての甘味ですかね?」
ライナとルゼリアは興味深そうに見ていた。
水蒸気に蒸され、籠の中に鎮座するこげ茶色の饅頭たち。
香しい匂いが付近を満たす。
「それを五つ貰おうか」
エクリナは横から銅貨を五枚出した。
「ありがとうございます」と店主は言いながら、小分けにして五つの饅頭を渡した。
「うむ」
エクリナはそれを受け取り、ライナとルゼリアに渡す。
「ありがとう王さま~」
「ありがとうございます」
ライナとルゼリアは礼を言う。
後ろから来たセディオスとティセラにも渡した。
「お、饅頭か。久々だな」
セディオスは躊躇なく齧る。
それを見た四人も同じように齧った。
皆の顔に笑顔があふれる。
「くどくない甘さだな、茶にも合いそうだ」
エクリナは一口一口を味わいながら、お茶会の菓子にできるかと考えていた。
「おいしい!」
「ええ、いいですね」
ライナとルゼリアも喜んでいた。
「珍しい作り方ですね」
ティセラは饅頭屋の蒸し器をしげしげと眺めながら、饅頭を口に運んだ。
五人は、饅頭を片手に歩きながら頬張っていた。
「セディオスは、やはりユヅランにも来たことあるのだな?」
エクリナは隣のセディオスに聞く。
「ん?そうだな。人属領は大体行ったと思うな、前は王都にいたんだがな、色々あって世界を知りたくなったんだよ」
セディオスは言う。
「世界を知るか……確かに知らないことばかりだな」
エクリナは、前にいるライナ・ルゼリア・ティセラの談笑を見てつぶやく。
「知るのはいいものだな。笑顔が増える」
「楽しいことは多いんだ。皆で少しずつ知っていこう」
セディオスはエクリナと同じ歩幅で歩みながら言う。
彼らは、新たな世界を歩いている最中でもあった。
夕暮れまで、セイリョウの温泉街見物は続いた。
◇
夜が更け、宿は深い静寂に包まれていた。
エクリナは一人、縁側で星空を見上げていた。
冷えた空気の中、湯上がりの肌に夜風が心地よい。
「……まったく、贅沢な時間だな……」
静かに呟くその声音には、どこか安らぎが滲んでいた。
こんな時間が、いつまで続くのだろうか――
ふと胸をかすめたそんな不安を、エクリナはすぐに湯気の向こうへ追いやった。
そのとき、エクリナの隣にそっと腰を下ろす影があった。
「こんな時間に、どうした?」
「いや、エクリナが一人で黄昏れていたからな。相手をしに来ただけだ」
セディオスは、小さな酒瓶と、小さな湯呑を二つ持ってきていた。
エクリナは苦笑しながらそれを受け取る。
「……いつものバーボンではないのだな」
「今日は湯けむりと星空に『柚霞』だ。ユヅランの名酒でね。米を蒸して柚子の香りを移し、長期熟成させた静かな酒だ。似合うだろう?」
「ふむ……悪くない選択である」
「こういう時間が、ずっと続けばいいんだがな」
セディオスがぽつりとこぼし、エクリナは湯呑を傾けながら小さく笑った。
酒の注がれた小さな湯呑を傾けたその時、セディオスの表情がわずかに強張る。
「……感じるか? この気配……」
「ああ、来たようだ」
エクリナはそっと席を立ち、夜空を見上げる。
稲妻のような光が、山の向こうに一閃見えた気がした。
空気がぴんと張り詰め、夜の静寂が壊されていく。
「我らが安寧を……穢すつもりか。愚かなる者よ」
その瞳には、もはや湯上がりの柔らかさはない。
漆黒の魔王、その威光が再び灯る。
湯けむりに満ちた夜は、静かに“戦場”の幕開けへと姿を変えつつあった。




