◆第1話:メイドの日課◆
魔王——現在メイド中。
世界に恐れられた少女は、ある日を境に忽然と姿を消した。
神の御心に従って戦い、意志を得て逃走し、仲間を集め軍を率いる。
世界の滅びを望み、その野望を打ち砕かれ、最後は神へ牙を剥いた――魔王。
歴史に残らぬまま、神の討伐という偉業を成し遂げた魔王は威光なぞを求めず、表舞台から立ち去った。
そして今――
銀髪の少女は郊外の静かな館で、メイド服を着て給仕に励んでいる。
「ふふ……今日も我が主のために、完璧な朝を演出しようではないか」
銀糸の髪を耳へかけ、エクリナは物音ひとつ立てぬ手つきで朝食を整える。
目玉焼き、菜園で採れた野菜のスープ、焼き立てのパン――そして香ばしく焼いた塩漬け豚を一枚。
火は最小、香りは最大。指先の角度に至るまで計算されている。
無駄がない所作は見目美しい。
支度を終えると、エクリナの姿はふっと掻き消えた。
転移の魔法で向かう先は、主が待つ部屋。
扉の前で一拍。
ノック三つ――間も完璧。
扉を開け、エクリナは主が眠るベッドに近づく。
「……お目覚めの時間であるぞ、セディオス。我の丹精を込めた朝食、用意できておる」
目覚めの挨拶を優しく掛ける。
「おはよう、エクリナ。今、起きるよ」
エクリナの頬を優しくなで、微笑みながら挨拶を返す。
落ち着いた声の男は館の主、セディオスである。
それも、もはや日課のやり取りだった。彼女はその手を愛おしそうに撫でて応える。
手早く着替えを手伝い、扉を開けて先導する。
「参るぞ、セディオス。食卓は整っておる」
部屋を出て、今日の予定を話しながら歩く二人。
主とメイドの見た目ではあるが、その距離は主従というより家族であった。
互いに笑顔で話し、その時間を味わっているかのようにも見えた。
廊下の先、食堂では湯気が先に挨拶をしていた。
食卓には、赤毛の少女ルゼリア、蒼髪の娘ライナ、金髪の童女ティセラが既に座っており、セディオスとエクリナを待っていた。
二人も席に着く。
「さあ、朝食を楽しもうぞ」
エクリナの声に続き、「いただきます!」と五人の声が重なる。
思い思いに料理に手を付け、食事が始まる。
「この塩漬け豚、いい塩梅の焼き加減ですね」とルゼリアが微笑む。
「王様、次は甘いのも食べたいな!」とライナが身を乗り出す。
「ライナは本当にお菓子が好きですね」とティセラが横目でからかうように言う。
賑やかに談笑しながら、朝食の感想や日程を伝えていく。
エクリナは、この皆で食事を取る瞬間が一番好きだった。
自身の手で準備した料理を家族が美味しそうに食べる。ただそれだけの出来事。
今日という、一日の始まりを噛みしめ、ここが現実であると安堵できる時間。
家族が笑い、己も笑う。
それが、エクリナが手にした世界であった。
朝食後の団欒が終わると、家族はそれぞれの一日を始める。
エクリナはそれを見送ると、手際よく片づけを行う。
転移魔法で食器を洗い場へ送り、卓を拭き上げると、自身も厨房へ移る。
皿を洗い、布で拭きあげていく。一点の曇りもない完璧な仕上がり。
その後は館の空気を磨く。
はたきの軌跡は一直線、花瓶の角度は微細にまでこだわる。ひとつひとつが“芸術”となる。
回廊の窓も美しく煌めき、埃一つない。
こうして午前のうちに、館の掃除を完了させるのだった。
◇
昼を過ぎた頃――
傾いた陽がテーブルに金の枠線を描く。
エクリナは毎日の茶会の準備をしていた。
「午後の紅茶はルフナと決めていたのだ。セディオスの好みに、完璧に合わせてみせよう」
ポットを温め、カップを温める。
スコーンとサンドウィッチ、自作のハチミツケーキを配し、最後に紅茶。
盆にのせ、準備万端。
ふわりと甘い香りが立つ――ちょうどその時。
空気が――紙を裂くように擦れた。
「はあ……またか」
エクリナはため息をひとつ吐く。視線だけを窓の向こうへ向ける。
館の裏手、木漏れ日の底に黒ずくめの影。
館を守る結界を割き、外壁を伝って中庭へ降りようとしていた。
郊外に佇むこの館には、元は大層な魔法使いが住んでいたらしく、その名残を狙って定期的に盗賊が来襲していた。
「賊め。我らの営みの邪魔はさせぬぞ」
近づかない。歩かない――ただ、手をかざす。
影が音もなく伸び、男の足首に触れた瞬間、黒い手が這い出て口をふさぐ。
そのまま影はゆっくりと、悲鳴ごと飲み込み始める。
「……黙して消えよ」
黒い顎が閉じると、闇が渦巻き、男の輪郭が滲む。
盗賊は、そこに「いた」痕跡だけを残して消えた。風が一枚、葉を飛ばしていた。
被害はなし――紅茶だけが、わずかに冷めた。
「ふん。我の楽しみを侵すなど、罪深いな」
ほどなくして――
エクリナは何事もなかった顔で主の部屋に入る。
「セディオス、すまない、少し遅れてしまった。だが温度はギリギリ許容範囲だ」
「物騒な“用事”は片づいたのか?」
何食わぬ顔のエクリナへ、セディオスは念のために問いかける。
「問題なしだ。我は完璧だからな」
メイドは卓へ茶器と菓子を準備しながら答えた。
香りが立つ紅茶が静かに注がれ、カップの内側で光が震える。
ひと口啜り、セディオスは目を細める。
「やっぱり、君の淹れるルフナが一番だ」
「当然だ。我が主の好みを間違えるはずはない」
互いに微笑み合う。
ハチミツケーキと紅茶の相性、焼き時間、今日の空の色。
他愛もない話題が続く。
けれど、エクリナにとっては世界でいちばん大事な時間だ。
もう、世界の命運など知ったことではない。
――魔王は世界に干渉したくない。ただ、主と一日でも多く共に居たいだけだった。
窓の向こうで鳥が二声鳴く。館は静かに、午後を深めていった。




