◆第1話:メイドの日課◆
――その魔王、現在メイド中。
世界に恐れられた少女は、ある日を境に忽然と姿を消した。
神の御心に従い戦い、意思を得て仲間を集い、滅びを望み、野望を砕かれ、最後は神へ牙を剥いた――魔王。
◇ ◇ ◇
そして今。
少女は郊外の静かな館で、白レースのエプロンを結んでいる。
「ふふ……今日も我が主のために、完璧な朝を演出しようではないか」
銀糸の髪を耳にかけ、エクリナは音の出ない手つきで朝食を整える。
目玉焼き、菜園のスープ、焼き立てのパン――そして香ばしく焼いた塩漬け豚をひとかけ。
火は最小、香りは最大。指先の角度まで最短経路。無駄がない。美しい。
支度を終えると、扉の前で一拍。ノック三つ――間も完璧。
「……お目覚めの時間であるぞ、セディオス。我の心を込めた朝食、できたぞ」
「今、起きるよ」――扉の向こうで笑うのは、壮年の男・セディオスだ。
エクリナは一礼し、扉を開けて先導する。
「参るぞ、セディオス。食卓は整っておる」
廊下の先、ダイニングでは湯気が先に挨拶をしていた。
食後。彼女はひと息で片づけ、館の空気を磨く。
はたきは一直線、花瓶の角度は小数点以下。ひとつひとつが“芸術”。
◇
……時間は飛ぶように過ぎ、午後三時。
傾いた陽がテーブルに金の枠線を描く。
「今日の紅茶はルフナと決めていたのだ。セディオスの好みに、完璧に合わせてみせよう」
ポットを温め、カップを温め、言葉は温めない。
スコーンとサンドウィッチ、自作の蜂蜜ケーキを配し、最後に紅茶。
ふわりと甘い香り――ちょうどその時。
……空気が、擦れた。
――またか。
エクリナはため息を一つ。視線だけ、窓の向こうへ。
館の裏手、木漏れ日の底に黒ずくめの影。
「賊め。我らの営みの邪魔はさせぬぞ」
立ち上がらない。歩かない。ただ、手をかざす。
床板の影が音もなく伸び、男の足首に触れた瞬間、世界がひと目ぶん暗くなる。
「我が暗黒、囁くが如く――黙して消えよ」
微細な魔法陣が瞳孔の奥で開き、重みが裏返る。
影が巻き、輪郭が滲み、男は“いた痕跡”だけを残して消えた。風が一枚、葉をめくる。
被害、なし。紅茶、ややマイナス一度。
「……ふん。冷める方が罪深いな」
数分後。
エクリナは何事もなかった顔で戻る。
「セディオス、少し遅れた。だが温度はギリギリ許容だ」
「物騒な“用事”は片づいた?」
「問題なし。我、完璧。」
紅茶は静かに注がれ、カップの内側で光が震える。
ひと口。彼は目を細める。
「やっぱり、君の淹れるルフナが好きだ」
「当然だ。我が主の好みを間違えるはずはない」
蜂蜜ケーキと紅茶の相性、焼き時間、今日の空の色。
他愛もない話題が続く。けれど、エクリナにとっては世界でいちばん大事な時間だ。
――魔王は世界を救わない。ただ、主の一日を救うのだ。
窓の向こうで鳥が二声。館は静かに、午後を深めていく。




