◆序章:幾多の日々を越え、その深奥に◆
闇と静寂だけが満ちている場所だった。
それは、記憶の奥底――誰にも触れられたことのない、封印された“過去”。
無機質な命令が、頭蓋の奥で響く。
魔力の収束、標的の指定、そして――射出。
「……ナハト・シンフォニア」
黒き楽譜のような魔法陣が空中に浮かび上がり、そこから音もなく闇刃が舞う。
無数の敵兵が、声を上げる暇もなく貫かれ、崩れ落ちていく。
闇刃は冷酷に人の形を切り裂き続け、誰ひとり逃がさない。
叫びが上がり、金属が擦れ、血の匂いが遅れて届く。
魔法を放った少女は身じろぎすらしない。闇刃が役目を終わるのを見つめ続けるだけ。
与えられた命令は”人属”への侵略、戦線の押し上げ、戦域の制圧。
勝利すら生ぬるい、殺戮の上に立つ殲滅を作り上げる。
感情などなかった。
戦場で彼女に求められたのは、『神』のための“美しい死の演奏”――ただそれだけ。
轟音、破砕音、悲鳴、すべてを奏で『神』へ届くように響かせる。
そのたびに主である魔哭神へ、人属の悲鳴を届け、苦悶の表情を見せることで愉悦を捧げる。
それが、黒衣を纏った少女の為すべきこと、存在の証明であった。
静かに戦場に立つ銀髪の少女は空虚だった。
命令に従うままの日々、感情はとうに消え、意志すらも闇に葬る。
味方すらおらずに、常に孤独——ゆえに孤高。
――それが、かつて『魔王』と呼ばれた少女のすべてだった。
◇ ◇ ◇
「……もういい。もう終わったのだ」
静かに目を開けた。
森林付近の館の寝室。カーテンの隙間から朝日が差し込み、白いシーツを淡く染めていた。
銀髪碧眼の少女――エクリナは、まどろみの底からゆっくりと意識を浮かび上がらせる。
あれから三年が経過しても時折見てしまう夢。
既に決着した過去。新たな道を選び、甘受している現在。
それでも戦場の夢を見るたびにうなされ、髪は乱れ、汗をかく。
とうに変わったはずなのに、過去の残滓はまだ逃がしてはくれなかった。
ベッドからそっと身を起こし、冷えた床へ裸足を降ろす。
そして、洗面器に張った水で顔を洗い、目を覚ます。
姿見の前へ歩み、薄いネグリジェをするりと脱ぎ去った。
用意しておいた紺色のワンピース型メイド服を広げ、皺を整えてから袖を通し、白いリネンのエプロンを身に付ける。
無様な寝癖を梳かし、優雅な銀糸へ整え、お気に入りの月と王冠があしらわれた髪飾りを前髪へ留める。
最後にヘッドドレスを頭に添える。
鏡の中には、見慣れた――『いつも』の自分が立っていた。
「これでよし、うむ、今日の我も万全だな」
さきほどまで胸を締めつけていた戦場の残響を、息とともに静かに吐き出す。
あれは過去であり、今は違うという儀式を行う。
「今日の目覚めの茶は……やはりミントがよいな」
初めての紅茶が気に入り、今では紅茶を日に何度も入れるまでになってしまったエクリナ。
なるべく毎回種類を変えて、飽きないようにしていた。
「ふふ。さて、朝食の準備に取りかかるとしようか」
小さく背伸びをして、部屋を出るエクリナ。
今日も世界が目を覚まして間もない。
館の回廊は静かで、皆寝静まっている。
音を立てぬよう、エクリナは静かに歩く。かけがえの無い主のため、家族のために朝食を作るため。
厨房へ向かうエクリナは微笑む。この何気ない日常が今の彼女が護りたいすべて。
世界を滅ぼしかけ、神を討ったその手で、”家族のいる日常”を護ることが今の使命であり、存在証明となっていた。
さきほどまで闇と静寂に満ちていた“戦場”は、いまや薄いまどろみの底へ沈んでいた。
彼女のメイド服は、戦場の血に染まることもなく、ただ主の朝を演出するためにある。
――たとえこの身が『魔王』のままだとしても。
今は、我が主のために仕える“ひとりのメイド”であるのだから。




