三話目
「アレン様」
メイドの声にずれたカーディガンを肩に引っ張りながら視線を戻す。先ほどまでの焦った様子から一転手を前で合わせたいつもの姿勢のメイドに、首を傾げて続きを促した。
「ここにいる皆はアレン様に毎日穏やかに過ごしていただきたいと思っております。アレン様はお優しいので私たちの事を気遣ってくださいます。ですから、私たちも一生懸命アレン様の日常を造りたいのです」
メイドはそう言って頭を下げれば真っ直ぐと廊下を歩いていった。優しい口調で言っているけど、つまるところ口出しするなって事か。いつものアレン様は優しさが露骨過ぎてたか。失敗失敗。こめかみ部分を掻くようにしてこれからはどうみんなを欺けば露骨じゃないかな、と考えながら再びキッチンを目指す。珍しい来客に、来たばかりなのかコック服のボタンが開いた料理長が笑顔を貼り付けた。
「これはアレン様。いかがいたしましたか」
「雨音で起きてしまって。少し水で飲もうかと思っただけだよ」
「呼んでくだされば伺いましたのに」
「いや、こんな時間に迷惑だろうし、高々水を飲むだけだしね」
コップを自分で取ってサーバーから水を汲む。それを数口飲んで顔を上げる頃には料理長は服のボタンを留め終わっていた。机にはいろんな材料に紛れて卵や小麦粉、ママレードが並べられている。コップを持ったまま眺めている僕に気づいた料理長が僕に声をかけた。声に気づいてそちらを見ると、穏やかに笑っている。コップをそこに置いて大瓶から入れ替えたのか、ラベルのないママレードの瓶に手を伸ばす。
「アフタヌーンティの時にパラチンタをお出しします。オレンジママレードを用意していますが、違う物がよろしいですか?」
「オレンジでいいよ。僕はそれが一番好きだし」
そうですか。と笑顔を見せた料理長に声をかけてキッチンを出る。パラチンタは僕の母が得意だった菓子だ。薄いクレープの様な生地にジャムを挟んだだけのシンプルなもの。昔はこんなに豪勢な暮らしをしていなかったせいもあり、そんなに手間もお金もかからない菓子だったが、僕はこれが大好きだった。先ほど手に取った恐らくは高級なものではなくて、庭になっていたオレンジを使った自家製のものを使用していたので年明けの収穫後によく食べていたような気がする。大きな鍋に薄くスライスしたオレンジの皮などが浮かんでいる光景が脳裏を過ぎって少し心が温かくなった。兄はそのママレードが好きでパンやクラッカーに塗ってよく食べていたけど、僕はパラチンタにしたものこそ至極だと思っ ていたので兄のそれが気に入らなかった。鍋いっぱいに作ったママレードの減りが早いのはそのせいだと思っていたからだと思う。父と兄が教会の用意した別の家に住むようになってはじめての年、ママレードの減りが遅いね、と言った母が悲しそうな表情を浮かべて、減りの遅くなったママレードの瓶を見ていたのを鮮明に覚えている。僕はその分ママレードのパラチンタが食べられるって喜んでいたけど。そういえばあのオレンジの木はどうなったんだろう。枯れてしまったかな。
そんな風に昔のことを思い出しながら戻ってきた自室は主を失ったせいか先ほどよりも少し冷えていて、ものの数十分で外は明るくなり始めていた。雨は降っているが今日は雲が薄いのか、日の光が雲の間に滲んでいる。もう一度寝る気にもなれずデスクランプをつけて、数週間前にもらった資料を出した。




