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箱庭と精霊の欠片  作者: 日室千種
精霊の箱庭師

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精霊の箱庭師

 しん、と透き通った空気が、黄金色の陽光に暖められている。

 砂色の四角い箱が背丈を変えていくつも立ち並び、時に段違いに繋がったり、直角に交差したり、迷路のように繋がって、ひときわ高い城壁の中を埋め尽くし、斜めからの光に濃い陰影を抱いている。

 風が吹き、四角い屋上で色鮮やかな布類を干している女の髪を乱し、背の高い木にかろうじて残っていた茶色い葉を、危うく揺らめかせた。既にその木の根元は、目に美しい赤や黄の葉が絨毯のようだ。

 木の傍ら、公共の井戸には、数人の女性がたむろしている。その周りを子供たちが走り回っている。

 うちの一人が覗き込んでいるのは水路だ。小型の船が行き来するほどの広さ。小舟が橋桁に水飛沫を浴びせる。橋は三色の三角旗で飾られ、猫がそれを構っている。

 水路脇にぽつんと置かれた、半ばまで割れた植木鉢からは、にょきにょきと伸びたサボテン。ひとつ、ふたつとてっぺんに咲く黄色い花。その花が挨拶をするように寄りかかるのは、ひとつだけ目立つ、真っ白な背の高い建物だ。

 装飾のない四角い窓が並んでいる。屋上には、白地に赤い十字の旗。厳かで尊い、なくてはならないその場所。喜びも悲しみも、等しく包み込むその建物の、ひとつの窓。

 ちょんととまった小鳥もまた、白い。

 真っ黒な瞳で窓の中を見て、首を傾げ、そしてそっと、咥えていた贈り物を窓辺に落とした——。







 窓辺に、ほんの爪の先ほどしかない緑の葉を残し、ピンセットの先端が震えないように利き手を押さえて、そっと手を引く。そして、ピンセットを静かに作業机に戻し、手伝ってもらいながら特注の硝子の板を蓋代わりに慎重に乗せれば、その世界は完結した。

 言い表せない感慨が押し寄せて、肺から空気がどっと抜ける。心得た侍女たちが、お茶の用意をしてくれる空気を感じながら、部屋の片隅に寄せられたテーブルセットのソファにすがりつき、よろよろと腰をかけた。

 空気と一緒に、気力だとか気合いだとか、とにかく芯になるものが溶け出てしまったようだった。体を起こしていられずに、深く沈み込む。

 ぐにゃぐにゃと、自分が酷く不確かになった、そんな瞬間だった。

 突然、部屋の扉が開かれた。もしかすると、開く直前にノックがあったのかもしれないが、それも返答を待たないのであれば、形骸でしかない。

 父が、こんな昼間から戻ったのだろうか、とそれほどの無作法が唯一許されるであろう当主を思い浮かべ、ぼんやりと視線を巡らせたミリアンネは、一拍遅れて硬直した。心臓だけは、壊れそうなほどに飛び上がって跳ね続けている。

 戸口に立っていたのは、貴族の若い男性だ。

 見覚えはないが、とても見目が良い。

 艶のある金色の髪も、着こなしている黒のフロックコートも、靴のつま先まで、質も品も良い。特にその、すこし黄金がかった、空色の目は。

 欲しい色だわ、とミリアンネはとっくりと観察した。

 惜しむらくは、どう見ても上流の貴公子であるのに、礼儀をわきまえていないという点だろうか。

 傍若無人にもレディの部屋に片足を踏み込んだまま、今しがた封をしたばかりの作品を、驚嘆と言っていい眼差しで見つめ、立ち尽くしている。

 そろそろ、なにがしか、言い訳が欲しいところね。

 と、未だ落ち着かない自分の心音は聞かないふりをして、ミリアンネがさりげなく立ち上がったとき。


「セーヴィル辺境伯閣下、困ります」

 廊下からようやく副執事の苦言が聞こえ、我に返った侍女たちが、さっとミリアンネの前に立ち塞がった。

 だが、光の射しそめた空の青は、侍女たちの隙間から素早くミリアンネを捕らえ、そのまま、決して逃さないとばかりに見据えて来た。

「サリンガー侯爵令嬢、ミリアンネ殿に、テラリウムのことで尋ねたいことがあって伺った。事前の約束もなく、非礼は承知しているが、日時にも限りがある。体調がとても悪いのでなければ、半刻ほど時間をもらえまいか」

 副執事が強硬に止められないのもなるほど、と名を聞いて思う。

 辺境伯、なかでもセーヴィル辺境伯は、国境防衛の要として高い地位にあり、サリンガー侯爵家とも並ぶ名家だ。

 その当主が、たかだか何の実権も持たない娘に、明確に頭を下げることなど、そうそうないことだ。

 だが辺境伯は綺麗に腰と膝を折り、手は恭しく胸に当てている。

 その整った顔がまっすぐこちらを向いて、断るわけはないよな、という圧力をかけているからではなく、そもミリアンネが独断で断ってよい場面ではない。

 ぐったりと気を抜ききっていたとはいえ、ティールームでお茶を飲もうとしていたのも目撃されている。


「すぐに参りますので、応接室でお待ちくださいますか。今、人前に出られる用意がございませんので」

 至極真っ当なことを言ったはずだが、若い辺境伯は首を傾げた。

 何の用意がいる? 今のままで何の問題もなさそうだが。

 気持ちが透けて見える。

 どういう意味だろう、と考えさせられる。着飾っても大して変わらないと言うのか。もしかして、辺境伯領には妙齢の女性がいないのだろうか。有り得ない。

 だが疑問を浮かべた辺境伯が地雷を踏む前に、副執事がその背後からさらに促した。それに渋々だが身を返し、鋭い一瞥を残しつつも、嵐が遠ざかった。

 慌てる侍女たち。不行き届きを詫びる執事。強盗が入ったかのような、大騒ぎである。

 けれど、この際急ぐことはないわ、とミリアンネは思った。きっちりと身を整えるまで、あの辺境伯にはせいぜい待ってもらおう。女には準備が必要だと、はっきり示した方がいい。





 それでも湯浴みは断念し、髪を結い直し、薄化粧を丁寧に施し、来客時用のドレスに着替え、アクセサリーと手袋を付けて扇を手に持ち、ようやく、ミリアンネは応接室に向かった。

 初めからそこに案内したはずなのだ。だが、紹介状も事前の連絡もなく、保護者たる侯爵夫妻の不在時の訪問ということで、執事が取り次ぎを渋ってみせたのを警戒してか、執事の後を追って来てあの暴挙となったらしい。

 セーヴィル辺境伯の評判は、社交界ではかなり良いものだったのに、とミリアンネは訝しむ。だがもしかすると、高い爵位、独身の身の上、国王陛下の覚えのめでたさ、そして先ほど目の当たりにした姿の良さ、とくれば、多少傍若無人な人柄だとしても、問題にもならず、人の口に登らないのかもしれない。

 適齢期のご令嬢方およびその親が虎視眈々と狙うにも関わらず、辺境伯の姿を夜会で姿を見かけることは稀らしい。一昨年デビューしたミリアンネも、彼とは今日が初対面だ。

 応接間に歩きながら、いろいろと情報を確認していると、まだ遠い突き当たりの扉が開いて、辺境伯が出て来た。待ちきれなかったようだ。

 何か途方もない期待を寄せられているような気がして、乙女らしくときめくこともできない。

「大変お待たせいたしました。お話をうかがいます」

 相手に合わせるつもりで、こちらも略式に声をかければ、穴があくほど見つめられた。

 少し、怯む。

 だが、どうやらそこで、かろうじて何かを思い出したらしい。辺境伯はミリアンネの手を取り、手袋越しにそっと額をあてた。

「レディに、先ほどは大変失礼をした。私は、クラーク・セーヴィル。——どうか、ご助力願いたい」

「ミリアンネ・サリンガーです。こちらこそ、お会いできて光栄に存じます」

 ようやくの、まともな初対面の挨拶ができた。この際、ここが廊下であることには、目を瞑ることにしよう。





 応接間に入ると、もうひとり客人がいて、ミリアンネは目を瞬いた。副執事がそっと、お連れ様です、と耳打ちする。

 こちらも貴族的な容姿の立派な男性だったが、さっと隣に来たセーヴィル辺境伯をちらりと見て、困り顔だ。ミリアンネとしては、とても共感できる表情だ。こちらの男性はいたって常識的に、礼儀正しく名乗り、挨拶をした。

 デイヴン・アンダート伯爵。近頃、確かに耳にしたと思う名前だったが、本人とは初対面だ。彼とのつながりを思い出す前に、見てもらいたいものがあると、両手で抱きしめられるほどのテラリウムを、執事の手を借りて、丁重にテーブルに出した。

 伯爵の説明によれば、このテラリウムは、伯爵の夫人が手に入れてきて、夫婦が過ごす居室に置いてあるものらしい。そして、世間で精霊の箱庭と呼ばれるテラリウムが流行していると知って、その作り手としてミリアンネに辿り着いた……ということしかわからなかった。

 そこでひたりと口をつぐんでしまったアンダート伯爵に、本気で首を傾げていると、黙っていた辺境伯がずばりと切り込んだ。

「望み合って結婚したはずなのに、夫婦として仲睦まじくすることはおろか、目も合わせてくれないと嘆いているんだよ、こいつは」

「クラーク!」


 大慌てのアンダート伯爵も気の毒だが、はあ、と相づちを打つしかできない。

 まだ結婚もしておらず、婚約者も恋人もいないミリアンネに、なぜ夫婦問題の相談が持ちかけられているのか。さっぱりわからない。

「疑心暗鬼になったこの男に、夫婦の居室に置くためにしては、少々不吉な中身だと思わないか、と友人ゆえに相談を受けたのだ。結果、実際に魔力が感じられたので、一応確かめたくてな。女々しい内容だが、箱庭についての相談だ。聞いてやってほしい」

 そしてこの辺境伯は、友人の力になろうとしているのか、叩きのめしたいと思っているのか、さっぱりわからない。


「う、その、確かに。クラークの言う通り、恥ずかしながら夫婦間に問題を抱えていまして。もちろん、仮に貴方の作品だったとして、これ自体に難癖をつける意図はありません。ただ、クラークに見てもらったら、魔力が込められているという。私の目には素人作品のように思われるのですが、何か特別なものかもしれないと思うと、自信はなくなります。

 これがどういったものか、見てはもらえないでしょうか。ほかに、私には打つ手がないのです……」

 さらに聞けば、アンダート伯爵は、姉の夫である義兄と貴族学院の同期生で、仲が良いそうだ。義兄に取り持ってもらい、穏便にミリアンネに面会を申し込もうとしていたが、セーヴィル辺境伯に、自分が王都に出て来ている間に片をつけろと、無理矢理引っ張って来られたそうだ。

 それが、日時が限られている、ということだろう。


 しかし、ミリアンネは困惑した。

 一言断って、テラリウムを手に取ってしげしげと見つめる。

 ガラスの器は、サリンガー侯爵領特産のものだ。だが、それは今は広く流通しているので、重要ではない。器の中には小芝が敷き詰められ、ところどころに花。苦労した跡の見える、天板に脚を付けただけのテーブルに、粘土感が溢れている軽食が乗っている。人形は三つ、いや、よん、ご、ろく、六体。男性は立って、手にはグラスらしきものを持ち、足下に戯れ付く四人の小さな子供と赤ん坊たちに微笑みかけているようだ。テーブル横には女性がいて、家族、らしい。

 のどかな光景。けれど女性は、何かを探しているのか、心ここに在らずというか。

 不吉というのは言い過ぎとしても、確かに、一家の幸福の有様としては、少しズレている、のだろうか。

 何が困ったと言えば、ミリアンネには、まるで覚えがないのだ。このテラリウムに。

 となると、他人の作品をどう分析していいのか、さっぱりわからない。

 とりあえず、子供がたくさんいるな、くらいだろうか。

「不躾ですけれど、お子様は……」

「いません。欲しいとは思っていますが」

「昼も夜も、同じ屋敷にいながら会えなくては、子供も産まれない」

 あけすけな、友人代表の物言いに、アンダート伯爵はうっと言葉に詰まり、俯いた。

 そこから、何だか湿っぽい声で、アクセサリーを贈っても、花を贈っても、受け取りはしても目も会わさずに逃げて行くという妻の話をしてくる。

 ミリアンネは相づちを打ちながら、試みに、テラリウムの封をいじってみた。


 解けた。


 ミリアンネは専門の勉強をしたことはないので、魔法の構築原理やら解析やら、難しいことはわからない。世の中の大半の人がそうで、魔力の行使はおまじないと変わりがない。封をする時も、封印封印〜と念じて蓋をするという、完成した時の儀式のようなもので、しかし不思議と、それで他の人には開封できなくなってしまうのだ。それはきっと、他の人の封についても同じで

 それが、何の抵抗もなく解けた。封印は、確かにあったようなのに。ということは、封は、ミリアンネがしたものなのだろう。

 だが、やはり中身には覚えがない。赤ん坊の人形を触ったこともないと、言い切れる。けれど、かすかに、何かが記憶にあった。

 先ほどから聞き流している、アンダート伯爵夫人の挙動不審について、過去にもどこかで聞いたような気がする。

 一生懸命に作っただろう作品なのに、どうせ喜ばれないと決めつけていた誰かだ。

 アンダート伯爵の名乗りを聞いて、もやもやとひっかかった記憶と同じところ。

 あ、とミリアンネは顔を上げた。

「アンダート伯爵夫人のお名前は、なんとおっしゃいますの?」

 相手も、あ、という顔をした。

「これは失礼しました。妻は、ヴィヴィアン。ヴィヴィアン・アンダートと申します」


 ヴィヴィアンは、貴族女性には珍しくない名だ。手かがりとはならず、ミリアンネは首を傾げた。

 そこへ、辺境伯が追加した。

「旧姓はウィキュール。ヴィヴィアン・ウィキュール。子爵家の長女だ。貴方の姉君と同じく王妃陛下の侍女だったそうだ」

「ウィキュール子爵令嬢……ヴィタ様ですね? まあ……姉が大変お世話になっております。ええ、ヴィタ様。思い出しました」

 一ヶ月ほど前、姉のサロンへと、テラリウム初心者の貴婦人らの講師として引っ張られて行ったのだ。姉がヴィタ、と愛称で呼ぶアンダート伯爵夫人は、そこに参加していた。要は。

「このテラリウム、仕上げと封はお手伝いしましたけれど、ほとんどはヴィタ様が手ずからお作りになったものです」


 その事実に、アンダート伯爵はさらに項垂れ、セーヴィル辺境伯は残念だったな、とその肩をおざなりに叩いた。

「夫人自らその構図とは。望み合っていると思っているのは、デイヴンだけなのだろう。勘違いだったのか、心変わりかはさておき、仕方ない。親族の提案も受け入れざるを得まい。むしろ、その方が夫人は幸せかもしれんぞ」

 フルボッコである。

 傷害や失踪なんかに発展したら困るので、やめてほしい。

 ミリアンネから見ると、そのうちなんとかなるんじゃない?としか思えない。けれど、社交界に出てまだ二年目の小娘が、歳上で、立派と誉め称えられる紳士たちに、何を言えるものか。

 そうは思ったが、黙殺するのも心苦しく、結局は口を開いてしまう。

「でも、ヴィタ様、とても一生懸命これを作っておられて、旦那様と一緒に過ごす部屋に飾る予定だと、恥ずかしそうにおっしゃっていたのですけど」

 ヴィが……。と呟くアンダート伯爵は、少し気を持ち直したようだ。

 すぐの解決策となるかはわからないが、姉にも相談することを勧めておく。直接でなくとも、義兄経由でもいいではないか、と。

「ああ、そう、そうですね。きっと力になってくれる」

 言いながらも、その表情は冴えない。どうしたことかとその隣を見れば、辺境伯は少し眉を上げてから、答えをくれた。

「いつまで経っても馴染まない夫婦に、白い結婚の疑いが持たれている。それならば、別れて相性のいい妻をもらい直せと、うるさい隠居がいるんだ」

 若くはあるが、成人した伯爵家当主に向かって、ずいぶんと余計な世話を焼く人間がいたものだ。

「その隠居の孫娘が、デイヴンに惚れているらしい。完全な横やりだが、公爵家前当主が声高に言うとなると、同調する人間も少なくはなくてな」


 地にめり込みそうなほど重たいため息をついたアンダート伯爵に、ミリアンネはもう一度、テラリウムを目の高さに掲げてみた。

 確かに素材は、ミリアンネが用意したものだ。けれど、精霊の営みは、ほとんど感じられない。自分が作る時と同じように、指導をしたにも関わらず、だ。その違いの理由は、ミリアンネにもわからない。

「その中身を手直しして、幸運のテラリウムに作り替えることはできるのか?」

「え、これを? そんなもったいないことをしてしまうのですか?」

 ミリアンネが驚くと、男性二人も驚いた。


 アンダート伯爵の目から見ても、妻の作品は拙さが目立つ。貴婦人たちの間で大人気であるというテラリウムの作り手であるミリアンネから見れば、子供の工作のようなものではないのか、と訝しんだのである。

 特に辺境伯は不可解な顔をしていた。先ほど押し掛けて行った部屋で、見事な箱庭を目撃して、その差を目の当たりにしていたからだ。


「確かに、技量が及ばず苦労されている箇所は見受けられますが、これはヴィタ様が初めて粘土に触れ、初めて木片を切断して糊付して……。この男性の髪の色だって、確か二回塗り直しされて。そこまでの想いが込められた世界に、私が手を入れてしまうと、世界は壊れてしまいます」

 せっかくなのに、もったいないですよ。と諭すが、アンダート伯は浮かない表情だ。

 仕方がない。

 ミリアンネはふと視線を巡らせ、応接間に飾ってあった小振りのテラリウムを持って来た。

 封を開け、球のような苔の固まりを取り出す。したたるように緑の濃い苔玉からは、繊細な茎が数本伸び、控えめな白い花が付いている。その先端には、うっかりすれば見過ごしそうな、胡椒の実ほどの大きさの、黄色い蝶がとまっていた。

 苔玉からは水が滲み、ミリアンネの日に焼けない細い手をつたった。侍女が慌てて手巾を持って来てその手を拭き、ドレスが汚れないように膝を覆った。

「ありがとう」

 労って、その苔玉を、伯爵夫人のテラリウムの端の端に、そっと押し込んだ。ほんのわずか、彩りがよくなったくらいで、全体の印象には何の変化もない。

 手を拭って、封をし直すと、ミリアンネは外から苔玉を眺めた。


「数日待てば、もっとずっと馴染むでしょう。……もし湿度が高すぎて、瓶の曇りがとれない場合は、蓋部分の空気穴をあけて、湿気を出して下さい」

 え、と虚をつかれた様子のアンダート伯爵だが、テラリウムは生き物だ。日の光を浴びて植物が水を出し、その水分を根からまた吸収する。水分が多くても少なくても問題が出るが、夫人のテラリウムは健やかだ。おそらく、伯爵夫人が常に気にかけているのだろう、とミリアンネは思ったが、推測なので、黙っておいた。

 アンダート伯爵は、テラリウムを受け取ると大切そうに抱え込んだ。しかし、表情は暗い。背後に闇を背負っているようだ。

 夫人の作ったテラリウムを、夫が甲斐甲斐しく世話をすれば、距離も縮まるのでは……? とも思っていたのだが、どうも状況は、伯爵にとってとことん厳しいようだ。

 腕組みをしてそんな友人を見ていた辺境伯は、ふう、と息をつき、まあ今日はまず帰れ。まだ仕事もあるのだろう、と追い立てた。

 仕事になるのだろうか、こんなに項垂れていて。

 他人事ながら心配して見送ると、今度はそのミリアンネを、辺境伯は見つめていたらしい。ふと顔を上げて、目が合って、それでも目を逸らされることがないので、ミリアンネは思い出したように扇を取り出して、広げてみた。


「何か? セーヴィル辺境伯様」

「……貴女も、あまり社交界に出ないのか?」

「……辺境伯様ほど、珍しがられることはありませんが、社交界に疎いことは事実です」

 社交どころではなかったのだ。根を詰めすぎないように、他の学びごとを疎かにしないように気をつけながらも、最優先にしていたことがあったから。

「なるほど。では、明日、王妃陛下主催の夜会に相伴してもらいたい」

「……?」

 何が「なるほど」で、どうして「では」なのか、まるでわからない。ミリアンネは黙ったまま、首を少しだけ傾げてみせた。

「王妃陛下が、辺境での務めを労うという名目で招いて下さったのだが、面倒で同伴者を見つけていなかった。例の隠居も出席するはずだから、ヴィヴィアン夫人の立場を知るには、いい機会だ」

「そ、れはそうかもしれませんが、夫人のお立場を今以上に知ったとして、私にできることはもうございません」

「そうなのか?」

 心から不思議に思っているように問い返されて、ミリアンネは言葉に詰まってしまった。それにしたり顔をするでもなく、辺境伯は淡々としている。

「さっき、ほんの赤ん坊のようなものだが、何かを入れてやっていただろう。魔法が関わる場合、その効果は想いの強さにある程度影響される。だから、貴女が夫人のことを知るのは、十分意味がある」

 見たままを口に出した、というほどに堂々とした様子に、ミリアンネは少し感心した。

「まあ、魔法にお詳しいんですね。ただ、あれは私の魔力でもなく、精霊と言われるものとも違うと申しますか。……それなら、あなた様がご友人をお助けになったらいいのではないですか?」

「感知はできるが、操るほどの才能がない。それに、あんなにちっぽけな存在を、初めて見た。下手をすると、吹き飛ばしてしまいそうだ。私自身の魔力が、かなり強いので」


 要するに、魔力が高く、魔法に関する知識もあるようなのに、細かい調整が苦手で、大ざっぱすぎて、向いていない、と。

 友人に対するデリカシーのなさを思い出して、さもありなん、と頷いた。

 だが、それとこれとは別の問題である。王妃陛下主催という公式な夜会に、開催前日に参加を決めるなど、できるはずがない。ミリアンネの準備がまず間に合わず、また主催者側へは礼を失する場合もある。というか、非常識だ。

 貴婦人の、夜会への心構えを何だと思っているのか。

 断ろうと口を開いたのに。

「もちろん、お嬢様の準備は問題ございませんとも。お任せください。ミリアンネお嬢様も、たまにはどうぞ、羽を伸ばしにお出かけ下さい」

 いつの間に控えていたのか、老執事の声が、すべてを引き受けていた。

 呆然とする間に、心無しか慌ただしく、一人を残して侍女たちが下がる。明日のための下準備が始まるのだろう。

「実は父君のサリンガー侯爵殿には、王宮での面会の要望を出して、承諾いただいている。夜会に貴女をお借りすることも、お願いしておこう」

 やりたいように振り回して、辺境伯は去って行った。





 そしてそこから、翌日の夕方まで。滅多に着飾らないミリアンネの正装に大はりきりの侍女たちによって、ミリアンネは落ち着いて食事もできないほど忙殺された。

 わかってはいる。これは、夜会シーズン中、どんな急なお誘いにも必要となれば応じられるよう、常に自分を磨き準備を整えておくという、令嬢の嗜みを、ミリアンネが怠っていたからだ。

 だが、ミリアンネは出発前からすでに、ドレスと化粧から自由になって寝台で眠ることしか考えられなくなっていた。なので、迎えに来た辺境伯が、あまりに凛々しく艶やかな貴公子ぶりだったことにも、腹が立った。

 男はいいのだ。黒を基調としてポイントだけ押さえていれば、趣味が悪いだの、流行に疎いだの言われなくていいのだから。一応、ミリアンネの瞳の色に合わせた緑のタイをしているところは、それなりに気を利かせたのだろうか。

 この夜会同伴を許す侯爵からの手紙を渡された執事二人と、満足げな侍女たちは、満面の笑みでミリアンネを送り出した。


 年頃の令嬢を、昨日あれだけの暴挙を見せた男に預けるなど、何かがおかしい。

 馬車でも扇で顔を隠してぶつぶつ言っていると、ひょい、とその扇を取り上げられた。

 ついきつい視線を送ってしまったが、すぐさま畳まれた扇を手渡される。

「誘って悪かったかな? 何か予定があっただろうか」

 そうなら申し訳なかった、と謝られれば、それ以上不満を押し出せなくなった。

「いえ、特に予定は……ありませんでした」

 今まで、少しでも時間があれば没頭して来た作業は、もう必要がないのだ。今夜このように引っ張り出されなかったなら何がしたかった、ということもなかった。

「それなら、よかった」

 そう言って笑った顔を、馬車の灯りが窓から差し込んで照らし出す。

 形良く潔い眉の下で、空色の目が夕焼け色で細められて、口元が緩むと、整った顔立ちはさらに甘い魅力を纏った。

 ミリアンネは、疑念を深めた。

「失礼ですが、セーヴィル伯爵様なら」

「パートナーとして出席するんだ。名前で呼んでほしい。クラークだ。私も、ミリアンネと呼ばせてもらう」

「それは、そうですね。わかりました。クラーク様なら、お声をかければご一緒してくれる方はたくさんいそうですが、今回の夜会は、不参加のご予定でしたの?」

 クラークの顔が、面白そうに歪んだ。すると今度はすこしだけバランスが崩れて、美しいよりも、やんちゃなイメージになった。

「そうかな。少なくとも貴女は渋々、というようだが。まあ、正直面倒で、欠席した方が楽だとは考えていた。今夜も、ミリアンネがあまり夜会に慣れていないなら、噂を少し耳に入れたら、帰る予定だ」

「そうですか。お知り合いの方々にごあいさつなどは」

「いらない」

「ダンスも……?」

「したいのか?」

 真剣に尋ねられて、ミリアンネは遠慮なく首を振った。身体を動かすのは、苦手だ。

 

 結論として、クラークは、非常によくできたパートナーだった。

 会場では片時もミリアンネから目を離さず、主催である王妃陛下への挨拶でも適切にフォローをしてくれた。陛下の隣で目を丸くしてこちらを見ていた姉にも、一言挨拶をする如才なさ。そして、目的を達したら、日付の変わる前に、屋敷まで送り届けてくれた。

 久しぶりの夜会に身体も心も疲れていたが、化粧と衣装を落とし、身繕いをして寝台に横たわると、奇妙に目が冴えた。


 夜会でのヴィヴィアン・アンダート伯爵夫人の評判は、それは気の毒なものだった。おそらくは、その噂を聞くために人選をして会話をしたからこそ、凝縮されたのだろうけれど。

 例のご隠居のかわいい孫娘を夫人が嫌っていて、意地悪のために、好いてもいないアンダート伯爵と結婚したのだ、とまで言われているとは。

 もちろん、ミリアンネにも真実はわからない。わからないが、それは本人にしか分かるはずのないこと。軽はずみに憶測を口にしていいはずはない。さらにいえば、結婚とは家同士の契約でもあり、噂は両家を貶めるものともとれる。侮辱ととられかねない噂を流して平然としていられるのは、ご隠居の権力ゆえだろう。

 単なる横やり、と思っていたが、そう簡単ではなさそうだ。

 とはいえ、ミリアンネにできることなど、限られている。

 そっと、人差し指を口元にあてて、昨日送り出した小さな光に、お願いをした。


「小さな精霊さん、お願いね」


 祈りが届きますように、と目を閉じて、そのまま夢の中へ滑りこんだ。






 そして翌日、ミリアンネは、何故か再びクラークの訪問を受けていた。

 土産だと渡された、美しいミニタイルやビジューは、有り難くいただく。美しく、かつ素材になりそうなものは、なんであれ大好物である。

 特に何かを作る予定がなくとも。

「三日後に、もう一度夜会につき合ってほしい。一曲くらいは踊りたいので、今日は一緒に練習でもと思うのだが」

 それにまたしても、ミリアンネより先に執事が返事をして、いきなりのダンス教室が夜まで行われた。思いがけない展開。ゆえに、足を数回思い切り踏んでしまったのは、許してもらいたい。 

 礼儀として晩餐に誘うと、それは図々しいから、と帰っていく。

 そしてまた翌日、貴重な品種のミニバラの苗を持って、訪れる。


「クラーク様、お仕事は、よろしいのですか?」

 つい尋ねてしまうのも仕方ない、とミリアンネは思う。父侯爵も、義兄も、日の出から深夜まで城で勤めている。勤めのない貴族だって、領地の経営や商売など、当主は暇にしてはいないはずだ。

 だがクラークは、虚をつかれた顔をした。

「そうだな、今は休暇中だから。……仕事は、早朝に急ぎで領地から送って来られたものくらいで、既に終わったから、大丈夫だ」

 今度は、ミリアンネがぽかんとした。

「そ、それなら……いえ、その、ではごゆっくりされてください」

「ああ、ありがとう」

 そういえば、辺境伯領は豊かで広大だ。さらに、国防の拠点でもある。おそらくは領地では目が回るほど忙しいのだろう。今は夜会シーズンを理由に王都に、いわば休暇滞在中なのだ。

 そんな貴重な休みなら、もっと有意義に過ごせばいいのに、と言いそうになって、口を閉じた自分に、ミリアンネは首を傾げる。

「今日はチェスでも? 出かけるのが面倒でなければ、植物園に行こうか?」

 またも、ミリアンネは使用人一同に押し出されるように、クラークの馬車に乗った。侍女たちの強い勧めで、朝から外出もできる服装をしていたので、今日は準備に時間はかからない。

 植物園は大変楽しく、クラークが意外に植物に造詣が深いことがわかり、土産にさらにいくつかの苗を買ってもらい、すこぶる満足して、夕食前に送り届けられた。

 別れ際に、耳元に、触れるか触れないかのキスをもらって。


 翌日も、クラークはやって来た。質のいい細ノコと、やすりを手土産に。

 何だろう。実は、似た趣味でも持っているのだろうか。

 その日は特に何をするでも出かけるでもなく、辺境伯領に暮らす母君のことや、ミリアンネの家族の話をして、早々に帰って行った。

 さすがにもう飽きてきたのかな、と思えば、執事が明日の夜会用にとアクセサリーセットを頂いたと見せてきた。

 そんなそぶりは少しもなかったのに、と驚く。執事が、代理とはいえ受け取ったのだから、すぐさま礼状を送る。

 ここに至って、何だかおかしいな、と思った。

 もはや、出会いのきっかけであるアンダート伯爵の話は出なくなっていた。初めの頃はちょくちょく気になっていた、大雑把な言動も、不思議と気付かなくなった。贈り物をもらって、夜会に相伴して、キスをされて。これは、もしかして、そういうお付き合い、なのか?

 どうも、納得できない。

 何も明確に告げられてはいないのだから、当然だ。

 それでも、どこかふんわりと温かくなって、幸せな眠りについた。

 夢の中で、蝶がひらひら、舞っていた気がする。


 翌日、迎えにきたクラークは、今度は軍礼装だった。際立つ凛々しさ。ミリアンネの胸が、ドクドクと音を立てた。

 着飾ったミリアンネに少し目を細めたクラークは、今夜の会は、友人が多いのだ、と言った。

「どうやら、昨夜、デイヴンに良いことがあったらしい。今日は出席できないそうだが、貴女に礼を、と言っていた。——さすが、精霊の箱庭師」

「箱庭師? それはなんです? ああ、でも、そういえば、そんな夢を見た、かしら」




 見知らぬ屋敷の玄関前、馬から下りたところのアンダート伯爵を誘うように、光を撒き散らしながら飛ぶ蝶の夢を。

 ヒラヒラと庭に回り込み、灯りのともる部屋の下まで。

 付いてきたアンダート伯爵は、見張りの犬と警備とを黙らせ、その窓の下に立った。中からの光で、細身の女性が俯いているのが照らし出されている。その影を認めて、やおらアンダート伯爵は上着を脱ぐと、階下のテラスの柱に取り付いてするすると登り、その窓にそっと身を寄せた。

 ふい、と風が吹いて、蝶が吹き上げられた。はたり、と幽やかな音を立てて、ガラス窓にあたる。中の女性が訝しんで窓を開け、その蝶を招き入れた。

『あら、こんな夜に。お前もひとりなの?』

 明瞭に聞こえた声に、アンダート伯爵は身を潜めた。

『中に入っていたら、死んでしまうわ。自由な外へ、戻りなさい』

 言葉を聞いたかのようにひらりとまろび出る蝶。アンダート伯爵は、しかし、妻の言葉に嫌な予感を抱いたのだろう。ぎりぎりと拳を固め、唇を噛み締める。

『蝶は逃がしてやれるのに。旦那様を離してはさしあげられない。どうしたらいいのかしら。どうして私は……』

 たまらずに窓から覗き込んだアンダート伯爵が見たのは。

『旦那様の前に立つと、何も話せなくなってしまう。心が檻に捕われたよう。疎ましがられるのが怖くて……』

 涙に暮れる夫人が、顔を埋めてすがりついていたのは。

 アンダート伯爵が、はっとして、すぐに窓から押し入った。突然現れた夫に、夫人は仰天した。

『な、なぜそのようなところから!』

 と慌ててそっぽを向く。さらにはそのまま部屋から逃亡しようとしたのを、アンダート伯爵は後ろから抱き込んで捕まえた。

『離して下さい』

『嫌だよ。もう、自分を抑えるのはやめにした。たとえ、君自身に拒否されようともね』

『い、いや? だってあの、その、旦那様』

『いままで抱いていたのは、私のガウンだろう?』

 あっと悲鳴を上げた妻に、同じく悲哀のこもった声が、首筋にかけられた。

『もう僕は、僕のガウンなんかにやきもちを焼くのはいやだよ』

『旦那様……離して下さい』

『どうして、ヴィ。はっきり教えて。僕のことが、嫌いなのか?』

『い、いいえ、いいえ、旦那様』

 でも……と夫人の声が弱っていく。

『でも……このままだと、幸せすぎて死んでしまいます……』

 言葉通り、のぼせたように崩れ落ちた夫人に、アンダート伯爵は慌てて——。





 するすると思い出された夢の記憶に、なるほど、とミリアンネは頷いた。

「それはよろしかったですね。仲の良いご夫婦として夜会にでも参加されれば、問題は少しずつ解決するでしょうね」

「そうだな、ありがとうミリアンネ。友人として、礼を言う」

「いえ、なにもたいしたことは」

 恥じらうと、クラークは表情を改めた。

 どきり、とミリアンネの肩が跳ねた。

「私も、今日で休暇は終わりだ。明日からは、領地に戻るため忙しくなる予定だ。遠方ゆえ、気軽に招くことはできないのだが」

 珍しく言いよどむクラークの態度も何も、目に入らないほど、ミリアンネは打ちのめされていた。

 友人の問題が解決した。休暇も終わった。——では、明日からは? もう会えない?

 何の約束もないこの状態に、一人で甘い夢を見ていたことに、凍える心地で気がついた。

「この数日、思いがけず楽しかった。少しは、ましな気晴らしになったかな」

 ほら。気晴らし、だそうだ。

 

「……ええ、私も楽しうございました。領地に戻られても、つつがなきよう」

 ミリアンネは、さっと扇で顔を隠して、それでも無理矢理、笑ってみせた。

 その日の夜会は、雰囲気も砕けたもので過ごしやすく、またアンダート伯爵の友人たち——同時にクラークの友人でもあるようだが——に優しく話しかけられ、本来ならば心地よい時間になったはずだったのに。

 日を跨ぐ前に送り届けてくれる帰りの馬車では、寝たふりをしていて、本当に意識が遠くなり、別れ際も、曖昧にしか覚えていない。


 ぼんやりと、ミリアンネは自分の寝台で目を覚ました。まだ夜は明けきっていない。

 今日は予定はないはず、と、一番くつろげる室内着に自分で着替えて、長年の習性でティールームに向かった。

 この数日使わなかった部屋は、どこかよそよそしい。

 十年あまりをかけて完成させたテラリウムは、静かにそこに在って、それを照らす一条の朝日に浮かぶ塵までも、止まっているかのようだ。

 仔細に見れば、きっと中では風が吹き、水の流れが在り、葉ずれの音もするだろう。精霊たちの営みだ。実際には近くにも寄らなかったが、それは感じられた。制作にかけた手間の分だけ、精霊たちは心地よくなるようだ。

 精霊の箱庭、と名付けるとしたら、これほどふさわしい作品はない。

 けれど、それだけだ。いくつも作ったちいさなテラリウムと同じ。そこは精霊たちの住まう庭でしかない。

 幼い頃に繰り返し見た、今生の記憶では有り得ない不思議な光景を再現したとしても、テラリウムが真実を伝えて来ることはなく、作り手といえどミリアンネがその情景を体験することもできない。

 テラリウムは、願いと祈りを込めた、理想郷だ。

 そして同時に、小さなただの、箱庭。

 手のうちにあるのに、手の届かないその小さな世界を、ずっと離れた椅子に腰掛けて、ぼんやりと見ていた。

 いつか、その世界に吸い込まれるのを待っているかのように、ただおぼろに。



 ふと、クラークが羨ましいと思った。

 辺境の森と草原と風の地に生まれ、泥だらけになって駆け回り育ったと言っていた。国防というよりは、育った土地を守っているのだと。

 彼の中で、彼を形作り、彼を捕らえて離さないもの。今も彼を呼び戻すもの。

 ——自分を置いて領地に戻る彼が、恨めしいのか。

 自問して、どこか違和感を感じる。

 自分のいるべき場所に向けて、晴れやかに誇らしく馬を駆る様子を思い浮かべたとき、胸を占めるのは、羨む気持ちだ。

 揺るぎない故郷を持つ彼が、眩しくも、羨ましい。

 そうか、とミリアンネは、すとん、と落ちるものを感じた。


「私は、故郷を作っていたのね」


 夢の中で垣間みるだけの、実感のない記憶の地に、故郷として命を吹き込みたかったのだ。



 ミリアンネは立ち上がって、部屋の中央に据えられた箱庭をすり抜け、作業机に近づいた。クラークを思うと、自然と手が動く。

 ガラスの器は、シンプルな円筒型の、黒金が底を補強しているものを選んだ。底石を敷き、砕いた墨を敷き詰めた上に、土を乗せ、桜の一株を植えた。その足下を、芝よりも丈の長い、しなやかな稲で埋め尽くした。

 木の柵を手に持ったり、蜂を手に持ったりもして悩んだが、あえて小物は置かなかった。

 桜も稲も、ミリアンネがテラリウムに命を吹き込むことを追求するあまり、自分で改良して生み出した新品種だ。通常の矮小種より、形が自然で、生命力が強い。そして健やかに保てば、外の季節に応じて花や実をつける。詳しい原理はよくわからないが、おそらく、精霊が入り込みやすいものができたのだろう。

 テラリウムの中は、今は緑ばかり。だが、馴染めば、春に花が咲き、秋には穂が重たく垂れ、喜んだ精霊が吹かせる柔風になびくだろう。

 どうか、お元気で。

 祈りを込めて封をして。

 いつの間にか、日が暮れようとしていた。ミリアンネは力つき、食事もとらないまま、寝台に再び潜り込んだ。


 翌日は、目が貼り合わされたようだった。起きられないまま、午後にクラークの訪問が告げられた。こんな状態で、会えるはずがない。

 領地に発つ前に、初めて出会った部屋で会いたい、と言われたが、あの箱庭を見たいのならば、同席はできないけどご自由に、とやけくそ気味に返事をして、上掛けをかぶってしまった。

 夜起き出して、軽くお腹にものを入れる。よく寝たはずなのに、ぼろぼろだった。

 侍女も、執事も、どことなくこちらの様子をうかがっているが、何を言うわけでもない。

 夜が更けてから、寝静まった屋敷を起こさないように、そっとティールームを見に行った。結わえたリボンに、クラークへ、と書いてあったのに気付いたのだろう。昨日作ったテラリウムが、なくなっていた。


「どうか、お元気で」


 そう言って、ミリアンネは自分の心にも、蓋をしたのだ。






「最近はどう過ごしている、ミリアンネ」

 一週間が過ぎ、珍しく早く帰った侯爵が、夕食の席で娘の様子をうかがった。

「特に変わりはありません。今日は……本を読んでいました、お父様」

「まあ、ミリアンネ。あれは読んでいた、というのではなく、眺めていた、と言うのですよ」

 さすがに母は、ミリアンネが心ここに在らずという状態なのを、正確に見て取っていたようだ。

「作品作りはしないのか?」

 さっと、部屋中の視線が集中した気がした。

「しばらくお休みです。今は発想がわきません。けれど、ちょうど良いので、在庫の植物の見直しと、改良計画の見直しと、ガラスの器の新しい形を職工長どのと打ち合わせしています」

「そうか」

 満足そうな父。安心したような、母や使用人たち。

 そうか、とミリアンネも得心した。

「メリハリは必要だ。ゆっくり次のことを考えたらいい。それでな、ミリアンネ。お前に、急に縁談の申し込みが増えている」

「増えている? どうして急に」

「セーヴィル辺境伯と夜会に出席していたのを見初めて、やら、アンダート伯爵から親身に相談に応じてくれた様子を聞いて、というものだ。お前の作品が目当てそうなものは振るい落としているが、他は心がこもっているのではないかな。……なんだ、その、だからもう気に病むな」

 自分宛の賛辞を親に見られるのも、それを親から伝えられるのも気恥ずかしいが、何より最後が気になった。


「気に病むな、とは……?」

 あ、まずい、という顔をしていたが、もう遅い。聞いてしまったのだから、言ってほしい。

 娘からの、言うまでは許しません、という視線に、侯爵は早々に負けた。

「ゴホンッ、いや、うまくいっているようだったのに、喧嘩でもしたのか、申し込みに来た当日に追い払った、と聞いてな。その後も塞いでいるから、テラリウム作りが気鬱の原因でないのなら、そのことを悔やんでいるのかと」

「申し込みとは、なんですか?」

 父娘が、きょとん、と向き合う。夫人がそれに溜め息をついて。

「父親にも話を通して、初めての夜会の後、三日の間エスコートをして、四日目に正式にお付き合いを申し込む。

 ミリアンネ……最近社交界の女性の間で大流行のロマンスの方式らしいわよ。言いたくはないけれど、あなた、少し引きこもり過ぎではなくて?」

 恋愛遊びとは縁のないはずの夫人の発言に、侯爵が一度頷いてから、急に、どうして知っているんだとか問い詰め始めたが、ミリアンネはそれどころではない。

 夫を押しやった夫人が、もう一度、溜め息をついた。

「まあ、あの方ははるか遠方の方だし、縁がなかったのでしょう。こちらにお申し込みいただいている方の中で、どなたかとお出かけしてみなさいよ」


 そのうち、とかなんとか。適当なことを言って、その場を逃れた。

 ティールームに逃げ込んで、なんとなく勢いで、記憶の箱庭に向き合った。完成させてから、間近で見るのは初めてだ。

 四角いティーテーブルの上面をすべてガラスの台にして、その中に、ひとつひとつ、記憶を舐めるように再現したものだ。物心ついた頃、庭で拾った樹の枝先を地面に立てれば、夢の中の大木とよく似ていると、そう思ったのがきっかけだったはずだ。

 初期に作ったものを、技量が上がってから差し替えた部分も数知れない。そうして納得がいくまで細部にこだわり、作り込んである。

 仮にも侯爵家の娘が、最低限のこと以外は引きこもって、こつこつとこの小さな世界に没頭するのを、家族は誰も咎めなかった。むしろ、材料を手に入れるための適度な手助けを惜しまなかった。


 だからこそ、行き詰まったとき、気が向いたときに、他の小さなテラリウムを作る余裕があったし、その過程で、自分が作る小さな世界に、稀に、小さな精霊が宿ることにも気がついた。

 そのほかの幸運が重なって、ミリアンネのテラリウムは人気となった。人気がもたらした一番嬉しいことは、夜会にわざわざ出かけなくとも、侯爵家の名前が広まることだ。家にも、多少は貢献できて、少しばかり気持ちが楽になった。家族の誰も、ミリアンネが家に貢献するべしと思っていないことは、知っているのだが。

 その家族は、そして屋敷の皆は、ミリアンネがこの箱庭を完成させた後のことを、ひどく心配していたようだ。そういえば、ミリアンネだって、半生をかけた大作を完成させた後、がらんどうになってしまう不安や予感を持っていなかったわけではない。

 けれど。


「実際は、気がつくと、がらんどうの時期が過ぎてしまっていて」


 もしかしてあの日、クラークが来ていなければ、そして連日連れ回してくれなければ、ミリアンネはとても深い虚無にとらわれて、その苦しみに終わりがないと錯覚したままかもしれなかった——。そうと気付いてクラークとの日々を思い返せば、胸が締め付けられた。


 とはいえ、クラークは既に領地への途上だ。休暇が終わって忙しい身の上のこと、馬車の旅団とは離れ、馬を駆って、もう領地の城へと付いているかもしれない。

 もしあの日、クラークの申し込みをちゃんと聞いていたら、と思うも、すでに互いに遠すぎる。

 気が抜けて、その日は早々に寝台に入り。そして、夢を見た。





 走ってくる。

 月明かりにも見間違えはしない。クラークだ。髪は乱れ、息は荒い。遠くからの呼び声に短く応えるものの、ぴりぴりと緊張した様子で、上着を脱ぐと、左腕にぐるぐると巻き付けた。

 草が揺れる。丈高く、膝上まである草が、風に一斉になびく。その流れを乱して、背を低くして疾走する獣が複数、クラークに迫った。

 はっと身構えたクラークが差し出す左腕に、草影から飛び出した狼が食いついた。


やめて!


 草がうねり、鋭い葉先が狼の眼をかすめた。弾かれたように、狼が離れる。

「ミリアンネ……?」

 何故か、ぽつりと呟いたクラークは、身を翻して、一度通り過ぎた木を目指した。桜の大木だ。背後に迫る狼が何頭か、草に足をとられてもんどりうって倒れ込んだ。残るは、二頭。

 その牙が、桜の根元にかがみ込んだクラークの背に襲いかかろうとした時、振り向きざまに振るわれた、硬い落ち枝に、狼たちは鼻面を砕かれ、甲高く鳴いて逃げて行った。





「……で、肝心のクラーク様は、ご無事だったのかしら」

 精霊の夢は、幼い時から今も変わらず、唐突に始まって、唐突に終わる。

 夢に跳ね起きたものの、それ以上どうしようもない。それから丸一日、そわそわと落ち着かなかった。

 貴族の身になにかがあれば、王城へ届け出ることが義務づけられている。もしも悪い知らせが来たなら、父の耳に入らないはずがない。だが、いつものことながら今日も、父の帰りは遅いようだ。

 夕刻には耐えきれなくなり、眠ったら夢の続きを見られるかもしれないと寝支度を整えてみたものの、眠気は全く訪れなかった。

 しかたなく、灯りのないティールームでひっそりと座っていると。


 暗がりのあちこちに、囁き声のような光が灯った。

 ひとつひとつ、色合いが違い、瞬きも違う。

 いつもはそれぞれのテラリウムでひっそりと息づいている精霊たちが、一斉に何かを話しかけて来るようだった。

 精霊が光るところなど、見るのは初めてだ。

 唖然としていたミリアンネは、その光が、記憶の箱庭にもたくさん灯っていることに気がついた。

 大木が光る葉を奏で、水面がさざめく。子供の笑い声と猫のひと鳴き。

 そして、四角い窓の、小さな鳥が、仄かに青く輝いて。足下の四葉のクローバーをつついてから、ピイ、と愛らしく鳴いた。


「……ありがとう」

 そのとき、廊下が騒がしくなった。

 侯爵が帰ったのだろうか。ミリアンネの名を呼ぶ声もする。

 ミリアンネはティールームの扉を開け放った。飛び出したミリアンネを受け止めるように立っていたのは。

「クラーク様。……クラーク様!」

「やはり長期戦は性に合わない。精霊に助けてもらった礼も言いたくて、馬を駆け通して戻ってきた。——明日、とも思ったのだが、デイヴンが、貴女に縁談が殺到していると脅すので」

 殺到なんて大げさな、と思ったのだが、クラークは真剣な面持ちだ。髪も衣服も、あちこちが埃にまみれていて、確かに他家を訪問する格好ではない。顔だけは拭ったのだろう、前髪がわずかに濡れていた。

 ふと、自分はどうだったかと我に返って、ミリアンネは明るい廊下から顔を背けた。

「クラーク様、私、こんな格好で」

「いいんだ。そのままの貴女に一目惚れしたのだから。化粧や扇で素顔を隠すのが嗜みで、貴女の素顔は、家族になれないと見られないのなら、すぐにでも結婚して、毎日側で見ていたいと、そう思った」


 そっと、大きく骨張った手が、ミリアンネの両手をとった。もう片手が、優しく頬を包んで、クラークの方を向かせる。

「夜会から三日は、黙ってエスコートをするものだと友人らが口を揃えたので、待った。どこで、何を見ても——夜会で人の悪口を言うような人間であっても——貴女の目には、良いところが見えるらしいと知って、もっと惹かれた」

 それは特筆すべきことでもない。悪口ばかり聞くわけではない、他の会話もしたわけで、意外とアンダート伯爵のことを真剣に心配しているのかも、とか。貴族の在り方について厳しい考えを持っているんだとか。それぞれ、あったと思う。

 そこまで、褒められることではない。

 だが、クラークにそう言われると、くすぐったくて、嬉しい。


「もう貴女を離したくない、と思ったのに。デイヴンを笑えない。申し込みの日に会ってもらえず、もうそれ以上迫ることはできなかった。だが……あの日、無断で貰い受けたテラリウムは、確かに私のために、貴女が作ってくれたのだと分かったから」

 改めて、とクラークが跪いた。

 交際の申し込みにしては、大仰な、と思っていたら、取られたままだった両手に、温かな唇を押し当てられた。

 これは、もしかして。


「ミリアンネ・サリンガー嬢、私と、結婚して下さい」


 流行に疎いミリアンネでも間違えようもない言葉。ミリアンネは涙があふれるのを止めることができなかった。すっぴんのうえ、涙と鼻まで滲んで、でも両手は使えない。

 レディをここまで追い込むなんて。どうしてくれよう。

 思いながらも、返事は決まっているのだ。


「はい、クラーク様。私も、他愛無いことで勘違いしてしまって。クラーク様のこと、少しでもお助けできてよかった。ご無事でなによりです」

 涙を拭いたかったのだが、クラークは長く手を離してはくれなかった。代わりに、クラークが、その涙を拭った。

 嫁にやるとまでは言っていない、と執事からの緊急の知らせに帰宅した侯爵の涙は、夫人が拭っていたようだ。

 屋敷中が、祝福に包まれる。

 ティールームの精霊たちも、嬉しげに明滅した。

 届かない過去、明かされない記憶の真実、辿り着けない理想郷。けれどそのすべてを詰め込んだ小さなテラリウムたちは、まるで切望していた故郷のように、愛おしく。

 辺境の、透き通るほどに青いという空の色は、きっと記憶にある空と似ているだろうと、箱庭師は幸せに微笑んだ。



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