ヤマト
奈良盆地の大和。
記紀を読むと神武天皇が日向の地を船で出発して、瀬戸内海を東進し、難波に至る道程が記載されています。
ここで当地の勢力の激しい反撃を受け、長兄の五瀬命が矢傷を受けて退却します。
長兄の助言に従い、紀伊半島を南下して、東方へ向かいました。
次兄と末兄も紀伊半島を回り込む間に波間に消え、神武天皇は熊野から奈良盆地へ進攻し、ここを平定します。
恐らく、日向では南の隼人の勢いが強くなり、安全性に不安を抱いて東進に至ったと推察できます。
その後の大和朝廷が畿内、吉備、丹波、北陸、東海を制圧してから九州北部、東北を従えてゆく過程を見れば、四国は元々の支配下にあったのでしょう。
そして九州南部の隼人を従えてからは宮中の警護に用いるなど、便宜を図っている様子もあります。
このヤマトに対して山城という地名があります。
山城を古くは山背、山代と記述していたようですが、桓武天皇が平安京に入京した際に「山が自ずと城郭のようだ」と表現し、山城と改名したそうです。
山背、「やませ」とも読めます。
古語では「えと」「せも」が「兄弟姉妹」を表現しました。
今でも「干支」を「えと」と読むのは、五行の兄弟に由来します。
この「えと」「せも」で関係を推測すると、ヤマトは「山弟」、対する「山背」は「山姉」になります。つまりヤマトは弟の国で、山背は姉の国になります。
ただ古語の難しいところは現代と意味合いが異なる場合があることです。
例えば甥姪を現代では、兄弟姉妹の子を、男は甥、女は姪と表記しますが、古代では男女関係なく兄弟の子を甥、姉妹の子を姪と表記する場合もあります。
古語の「妹」が血縁関係や年齢の上下を無視した「愛しい女性」であったように、「兄」も「愛しい男性」を意味する場合もありました。
こうした言葉の意味合いから推測すると、山背の国は女系で繋がる親しい国であった可能性も否定できません。
古代は、想像が尽きません。




