第三十二話 霧隠れの里
「王妃様、こっちこっち」
「こっちの方がとてもきれいに見えるの」
「とってもながめがいいんだよ」
子供達に手を引かれ、果竪は共に走る。
この、『霧隠れの谷』の土地を。
ーーその谷が、里神達から『霧隠の谷』と呼ばれるようになったのはいつからなのか。
ただ、気づけば、蓮璋達はそう呼んでいたという。
全てを覆う真っ白な深い霧が、まるでその存在を隠すように谷の周囲を囲むその特徴から。
そして何よりも、自分達を恐ろしい敵の目から覆い隠してくれる頼もしい存在として、敬意を込めて呼んできたのだ。
その谷に作られた隠れ里。
果竪は子供達に案内されながら見て回る中で、心底感心を覚えていた。
谷は、巨大なほぼ垂直の岩壁に周囲をぐるりと丸く取り囲まれていた。
その内側は広大な円形の土地で、小高い丘もあれば、森や川、泉などもある自然豊かな場所だった。
傾斜の場所もあれば平地もあり、更には天然の要塞のような岩場も存在し、実に起伏に富んでいた。
水域が豊かで湧き水も多く、中央を分断する様に大きな川が流れている。
その川は、そのまま地面の下を潜り地下を進み、遠くの外に流れているらしい――というのは、この隠れ里の者の話であり、実際にそうなのかは誰も知らない。
森は広く、動物達も居り、果樹も多かった。
その果樹の一部は神工的に増やされ、この土地に作られた果樹園の木々として今も多くの実りを里神達に与えていた。
まるで楽園――というのは大げさかもしれないが、それでも慎ましく暮らすならば、現在の隠れ里の民達に対する自然の恵みは十分だろう。
また、果樹以外にも食糧確保として農地が開墾されており、幾つかの作物が作られていた。
だが――いくら岩壁の内側の土地が広いとは言え、貴重な果樹のある森を切り開かないようにして作られた畑には限りがある。
また、川や泉に魚は居るが、油断すればすぐに取り尽くしてしまう程の数。
それを、養殖で増やしつつ、限られた土地と地形を存分に活用しつつ二十年もの間をここで生活してきた隠れ里の民達の努力に、果竪は頭が下がる勢いだった。
ここは一つの街。
それも現時点では、自給自足のシステムがしっかりとした陸の孤島だ。
だが、問題もある。
おそらく、その自給自足のシステムがきちんと機能できるのも、今の隠れ里の神数ーー三百名がギリギリな筈。
それは言い換えれば、これ以上子供を増やせないという事だ。
子を身ごもったとしても、その子をこの世に送り出す事が出来ないという意味でもある。
現在居る者達を生かす為にはーー。
そんな民達は、天然の要塞である岩場を利用して住まいを作っていた。
岩壁住居――岩場は所々に穴が開いており、そこに扉を付けて家としている場所が多く、材木で作られた家もあるにはあるが、その原材料は貴重な森を切り開くものとして二、三件ほどしかない。
また自給自足では燃料が問題になるが、燃料にもなる燃える石――「油石」の欠片が細々と採れる為、それを利用しているらしい。
隠れ里は、北側は岩壁住居区、南側は農地と川、東側には森と果樹園があり、西側は傾斜が高い丘が連なる――という配置になっていた。
その丘の頂点まで上り、更に民達が立てた見張り台の天辺に立てば、かろうじて外の様子が見える。
霧に囲まれた、岩壁の外が。
真っ白で何も見えないそこは、まるで雲海の中に紛れ込んだような光景だった。
ただ、岩壁の天井部分に当たる空だけがぽっかりと晴れ渡り、夜には星が見える。
そこだけが、霧のない場所だ。
本当に不思議な場所だった。
それこそ、岩壁に囲まれながらも「緑の谷」の名に相応しい自然豊かな土地を、霧隠れの谷と呼ぶ由来となっていると言われるのも納得出来る。
そしてその谷こそが、傷つき追われてきた者達の安息の地たる揺りかごそのものなのだ。
だが、その生活を維持し守り続けているのはその逃げ延びてきた者達。
蓮璋達に他ならない。
隠れ里の配置図を仕上げていた果竪は、ふと顔を上げた。
いつの間にか日は傾き、夕日が隠れ里に降り注いでいた。
それに果竪は疑問を覚えた。
太陽は時間によって動く。
周囲を白い霧の壁に囲まれ、ただ真上の空だけがぽっかりと空いている。
そこに太陽が見えるのは、ごく僅かな時間のみ。
当然だ、太陽は動いているのだから。
しかし、今のこの時間は白い霧の向こうに隠れたにも関わらず、太陽の光は障害物をものともせずにその暖かな光を隠れ里へと向けていた。
暖炉の火の如き橙色の光が、緑生い茂る草原を鮮やかに彩る。
まるで真っ赤に燃えている様なそこを、数人の大神達が併せて十数頭の牛や羊を放牧させているのが見えた。
白と黒模様のその牛は、この隠れ里近くの山道を通った商神達の商品だったものだという。
しかし彼らは周囲を根城にしていた山賊に襲われて皆殺しにされた。
殆どの商品はその時奪われたが、逃げ出した牛と羊の一部だけはウロウロと山奥を彷徨いており、それらをここまで連れ帰ってきたという事だった。
それも、最初は牛と羊がそれぞれ三頭ずつ。
そこから増やし、今では牛と羊はそれぞれ六頭ずつに増えたらしい。
その牛達がもたらすミルクと羊毛が、民達の貴重な資源となっており、里神達はまるで家族のように牛達を世話してきた。
毎日欠かさず行われる放牧。
ゆっくりと、本当にゆっくりと動いていくのが見える。
それがまた夕日の光の効果なのか、酷く幻想的に見えて仕方ない。
気づけば果竪は大きな感嘆の溜め息をもらしていた。
「本当に、ここはすごいね」
ここに来るしかなかった。
ここで生きていくしかなかった。
けれど、それでもここまで生活を安定させ、果竪の心に美しさを刻み込むこの光景に心からの賞賛が口をついて出た。
「ありがとうございます」
それに答えたのは、子供達の声ではなかった。
「蓮璋……」
夕日に照らされた蓮璋が柔らかに微笑んでいる。
見れば、周囲に子供達は居ない。
「みんなは?」
「先に帰しました。もうすぐ夕食の支度があるので」
ここでは、子供達も働くという。
といっても、それは外でも同じ事だから大して違いはない。
よく遊び、よく学びーーそれが子供の大切な仕事。
でも、田舎に行けばやっぱり労働力が足りなくて子供達の手が必要になる場所も多い。
それでも、昔に比べれば断然マシだった。
学校に行き、学び、友達と遊ぶ時間は確かに確保されているのだから。
そして、倒れるまで酷使されるという事も殆どなくなっていた。
自給自足を基本とする隠れ里でも、大神達が空いている時間に勉強を教えているという。
ただし本などの教材はないから、大神達が知っている知識を口伝したり、地面に書いて教えるのだ。
仕事の合間に、遊びの合間に子供達はそれを紙が水を吸い込むかの如く吸収していく。
その殆どは学校で教える様な高等なものではなく、最低限の読み書きの他には生きていく為の知識ぐらいだが、それが一番大事ではないかと果竪は思っている。
特に、蓮璋は貴族という出身から高い教育を受けており、よく子供達に勉強を教えているのだと聞いた。
だから、子供達からは「蓮璋お兄ちゃん」の他に「先生」と呼ばれているらしい。
「また明日と言ってましたよ、みんな」
子供達の伝言を蓮璋が口にする。
景色に魅入っていた王妃の後ろで、そっと遅いから家に帰るように伝えた蓮璋に子供達は珍しく不満を言った。
まだ、王妃様と一緒に居たいのに
子供達は王妃を心から慕っている。
それこそ、もっともっと一緒に居たいと願ってやまない程に。
また遊べますからーー
そう言って、子供達を説得した蓮璋に彼らは言ったのだ。
ーーまた明日ね
そう、また明日。
蓮璋は果竪を促し、二人は連れだって見張り台から降りた。
風が、二人の居る丘を吹き抜ける。
生い茂る草が一斉に揺れる光景を見た後、果竪は遙か遠く――丘の麓を駆ける子供達の姿を見つけた。
迎えに来た親達が、子供達を抱き締めている。
その姿に、ぽつりと言葉が出た。
「ってか、遅くまで子供達を連れ回してごめんね」
王妃の言葉に、蓮璋は柔らかく微笑む。
「いえ、それよりも疲れたのではないですか? 朝から色々と回られていたようですし。隠れ里といっても、この土地はそれなりに広いですから」
「そうだね~……っていっても、凪国の王宮には敵わないかな」
凪国の王宮の広大さは、それこそ炎水界でも一、二を争う程である。
蓮璋は軽く目を見張ったが、すぐにゆっくりと頷いた。
「そうですね」
「でも、本当にすごいよね。ここの自給自足のシステムは」
果竪の言葉に蓮璋は苦笑した。
そして改めて思う。
彼女はやはり王妃なのだ。
この国の賢君と名高い凪王の正妃。
統治者の妻として、まず口から出るのが自給自足システムの賞賛という事実に、蓮璋は彼女が普通の少女とは違うと思い知らされる。
「きっと明睡達も驚くだろうな~、あ、明睡ってのはこの国の宰相でね」
王妃は時に笑いながら、時に困りながら、時に怒りながら説明していく。
「それに、瑠夏州にも教えてあげたいな。あそこには、まだまだ貧しい村も多いから」
「瑠夏州ですか……」
瑠夏州ーーこの鶯州の隣に位置する州であり、たぶん凪国の中では一番小さな州とされる場所。
以前は名領主と謳われた領主とその夫人が統治し、現在は彼らの息子である少年領主が州を統べている。
鶯州も、名領主と謳われた先代を亡くしたのは同じ。
けれど、瑠夏州は父の意志を継ぎ必死に努力し、鶯州は父の意思に反した道を突き進む。
同じなのに、全く正反対の道を進む二神に、蓮璋は瑠夏州を羨ましく思った。
「李盟も、ここを知ったら絶対に教えて欲しいって頼むと思うな」
「王妃様……」
「そうしたらね、是非とも教えてあげて欲しいな。あ、その前に蓮璋達の件を解決する方が先だけど」
「……王妃様が教えて差し上げないのですか?」
「へ?私?」
王妃が首を傾げる。
本気で意外な事を聞いた表情をしていた。
しかし、すぐにくすりと苦笑する。
「私は無理、ってか駄目だから」
「王妃様?」
「勉強とかはさ、色々やってるんだけど、元々の頭があんまり良くないから……だから、私が蓮璋達に習う事はあっても、教えるなんてとんでもないよ。むしろ、お金出すので教えて下さいっていう感じだよ」
「そ、そんな事はないです」
一体何を言い出すのだろう。
自分達の身に起きた事を話した時にも、あれほどの頭の回転を見せていたというのに。
しかし、王妃は本気で自分の事を頭が悪いと思っているらしい。
「あ~、もう少し頭が良くなりたい」
「王妃様……」
「そうすれば、更に愛する大根達を広く全世界に普及させられるし、言葉巧みに平和的にだまくらかーーじゃなくて、私の愛しい大根達の良さを分かって貰えるのに」
いや、だまくらかすとか言いましたよね?
しかし、蓮璋は突っ込めず、ただ静かに後ろに下がるしかなかった。
「あれ? 蓮璋、なんでそんなに距離とってるの?」
「い、いえ」
あなたの大根愛に恐れを成しましたーーなんて、言っていいのだろうか……いや、言わない方が良い。
下手に泣かしたら、きっとあの女王様が追い掛けてくる。
今も着々と奴隷、いや、下僕、いや、信者……………じゃなくて、慕う者達を増やしている女王様。
美しく聡明で、誰もが抗う事の出来ない魅力的な少女。
王妃とはまた違った魅力を持つ彼女に、蓮璋は一目で心を奪われた。
奪われたが、流石にあの鞭は恐い。
この前など、村の中でも恐い物知らずーーいや、勇敢なる若者を打ち据えて奴隷にした手際の良さは余りにも素晴らしく、あまりにも恐ろしかった。
というか、王妃の侍女長はそこまで強くなければなれないものなのだろうか。
いや、もしもの時に王妃を守る為には必要なのかもしれない。
特に、明燐はとにかく王妃を溺愛しているし。
蓮璋は明燐の王妃に対する溺愛っぷりを思い出す。
若干、いや、結構王妃にすげなくされていても、明燐は決して諦めない。
ーーおほほほほほ! 果竪、お待ちなさいなっ!
ーーいや、駄目、無理、不可能
笑顔で全力疾走する明燐。
それから全力で逃げる王妃。
その追いかけっこは、既にこの隠れ里の名物ともなっていた。
というか、王妃。
結構な大怪我をしてからそれほど日が経ってないのに、何故走れるのか。
と聞けば、彼女は嫌な顔一つせずに教えてくれた。
ーーそれは、この愛する大根への崇高なる愛と、大根達がその白く艶めかしい裸体から分泌してくれた体液によるもので
その後続いた二時間にわたる大根トークに、蓮璋は心底後悔したのは言うまでも無い。
そして、たった二時間で結構やつれた。
大根は他者の体力を根こそぎ奪う魔性すらも持ち合わせているらしい。
「で、蓮璋も白く艶めかしい裸体で全世界を救う大根の会に入ってくれるよね?!」
「いつの間にそんな話になったんですか?!」
目をキラキラと輝かせて期待する果竪の眼差しに蓮璋は更に距離をとった。
そう、それこそ、後ろすらも確認せずに。
ガランと、足場の石が崩れる。
それが浮き石だったと気づいた時にはもう遅い。
「れーー」
王妃の伸ばした手が、蓮璋の指先に触れる。
だが、蓮璋の体を転倒から救ったのは後ろからの支えだった。
ガシっと力強く支えられ、蓮璋は慌てて振り向こうとした。
「なにをしてますの一体」
「あ、明燐」
王妃はどこまでも普通だった。
けれど、これは何かおかしいだろう。
これは何か間違っているだろう。
どうして、男を支えるのがーー。
蓮璋の中に、明燐=王子様という関係式が浮かんだ。




