後編
エリアスがスライル子爵令嬢と二人きりで食事をした件と、これまでの彼の困った『優しさ』について、私から父に伝えると、父はすぐに相手のヴァルニエ伯爵家に問い合わせてくれた。
すると、即座にエリアスのご両親から、私と父に会って話したいと連絡が来た。
向こうから、我が家を訪ねたいと言われたので了承する。
話し合いの席には両親が揃って来ると言うので、我が家も父と母が同席することになった。
「本当に申し訳ありません」
来て早々、まず、父親であるヴァルニエ伯爵から頭を下げられる。母親も、エリアスも、強張った表情で共に頭を下げていた。
「できれば、ここだけの話にしていただきたいのですが……」
伯爵が声を潜めてそう言う。
周囲に立つ使用人たちを不安げに見つめるので、父が命じて部屋から下がらせた。
人払いが済むと、改めてヴァルニエ伯爵が潜めた声で話し出す。
「息子は、実は女性の頼みを断れない男なのです」
深刻そうに言われた言葉が、初めは理解できなかった。
思わず、父や母と顔を見合わせる。
ヴァルニエ伯爵の話はこうだった。
まだエリアスがほんの小さな時に、貴族家の子供たちを集めた催しがあった。
王都に住む貴族家の子供たちを仲良くしようという趣旨のもので、親戚などの伝手があるものたちで十組ほどの家族が集まったのだという。
親や祖父母たちといった大人がお茶会を楽しむ傍ら、子供たちは子供たち同士で遊ぶことになった。
歳の近い子供たちは、それぞれ駆けっこや鬼ごっこ、おままごとなどに興じていたという。
そこで、鬼ごっこをしていたエリアスがおままごとをしていた令嬢から、こちらに入って一緒に遊ばないかと声をかけられたそうだ。
幼い子供の頃のエリアスは今よりももっと髪の色が明るく輝くような金髪で、新緑のような緑の瞳をしていたから、見た目の良さもあって王子様のように見えたのだろう。
令嬢はただ、気に入った男の子と遊びたいだけだった。
男の子たちとこのまま鬼ごっこを続けたかったエリアスは、それをすぐに「嫌だ」と言って断った。
令嬢は爵位が上の侯爵家の娘だったが、まだ小さなエリアスにはそんな理屈はわからなかったのだろう。
これまで周りから何でも許されてきた令嬢は、エリアスに冷たく断られて泣いたそうだ。
それは子供同士の、些細な諍いだった。
けれども、祖父はそれを見た瞬間にエリアスを怒鳴りつけ、頬を強く叩き、頭を無理やり掴んで下げさせて侯爵令嬢に詫びさせた。
そして、今すぐに令嬢の言う通りにままごとをしろと、エリアスに強く命じたのだと言う。
「女性の頼みの一つも聞けないなんて、貴族令息として失敗作だ」
そんな一言と共に。
「それ以来、息子は女性の頼みを断ろうとすると、動悸と息切れの発作が起きるようになってしまい……特に、泣かれそうになるともう、その頼みを断ることができないのです」
「このような事情を隠したまま婚約を申し込んで、本当に申し訳ありませんでした」
ヴァルニエ伯爵に続いて、母親も揃ってまた頭を下げてきた。
「息子にはもう一度よく言い聞かせますので、どうかもう少しだけ猶予を下さい。決して悪気はないのです」
「それは、これからは他の人からの頼みを断れるようにする、ということですか?」
私が訊くと、伯爵は一瞬息を呑んだ。
エリアスを見ると、顔色が悪く、黙って唇を噛み締めている。
「そうできるように……指導します」
「……努力します」
どちらも、少し煮え切らない態度だった。
そう簡単に、すぐには変えられないと、そういうことなのだろう。
「ヴァルニエ伯爵令息が、女性の頼みを断れない理由はわかりました。けれども、娘がそれに付き合う必要はあるのでしょうか? 彼が女性の頼みを断れるようになるまで、娘にずっと我慢を続けろと?」
父が言うと、あちらの家の三名は全員黙り込んで下を向く。
できないことをできる、とは言わないあたり、誠実ではあるのかもしれない。
けれども、誠実であれば、理由があれば婚約者を後回しにしても良いと言うことではないのだ。
「期限を決めましょう。それまでにエリアス君が、優先順位をきちんと理解できるようになるのならそれで良い。もちろん、その間にまた何か大きな問題を起こせば、その場でこの婚約は解消します。——それでよろしいですかな?」
私のほうを見ながら、父が言う。私は小さく頷いた。
彼らも頷く。
こうして、三ヶ月の猶予が彼に与えられた。
私が我慢をするのも、どんなに長くてもあと三ヶ月だけだ。
そう思えば、少し気持ちが楽になった。
「授業で令嬢とダンスを踊るのは構いません。我が家の領地教育に影響がない範囲で、勉強会を続けるのも」
私はまず、エリアスにそう伝えた。
これまでは線引きがしっかりしていなかった。
だから、彼は際限なく女生徒たちの頼みを断れずに引き受けていたのだ。
「断る言い訳に、私の名前を出しても構いません」
少しでも断りやすいように、私は多少の嫉妬深いとか独占欲が強いとかの汚名を被るのは仕方ないと、そう割り切った。
彼は青白い顔で、それらに頷く。唇が震えていた。
最初のほう、エリアスはかなり努力をしているようだった。
パーティーでエスコートを頼まれれば「婚約者に悪いから」と断れるようになったし、またしても昼食に同席しようとするスライル子爵令嬢に対しても「婚約者と仲を深めるための場だから」と断れるようになっていた。
けれど、断るたびに彼の顔色は悪く、時には心臓を胸で押さえてしまうのは変わらなかった。
しかも、何かを断るたびに、いちいち私に報告してくる。
「これで良かったんだよね? 僕、ちゃんと断れていたよね? 君のために、頑張ったよ」
青ざめた顔でそう言われるたびに、私は彼に無理をさせているような、重たい気持ちになった。
そして、そんな彼も全部を断れたわけではないのだった。
「クラスメイトが、次の小テストで赤点を取ったら婚約解消されると言って、僕に放課後マンツーマンで勉強を教えて欲しいと泣いて頼んできて……断れなかった。すまない」
「友人から借りた本を汚してしまったという令嬢が、怖いから謝る時に一緒についてきて欲しいと泣かれて……ごめん」
普通の頼みは断れるようになったが、相手に泣かれるとどうしても断れないと言う。
最初のトラウマになったのが、侯爵令嬢に泣かれたことだったから、本人にもどうしようもないことなのだろう。
青ざめ、震えながら告白されて、私はこのままではエリアスが壊れてしまうのではないかと思った。
彼の有り様を捻じ曲げているような、そんな罪悪感まで覚えることになった。
次第に彼が断ることも増えてきて、けれども断りきれないこともあって——その積み重ねで、周りは、完全に学習してしまった。
どうやら涙を見せれば、エリアスは断ることができないのだと。
「エリアス様、もう、あなただけが頼りなの……」
涙ぐんで、スライル子爵令嬢がエリアスにすり寄る。
「お願い、お昼を私と共にして。他のクラスの嫌味な令息に言い寄られていて……私、このままだとどんな目に遭うか。お願い、少しの間だけで良いから、婚約者のふりをして」
ポロリと流れ落ちる涙は、まるで計算されたように頬を滑り落ちる。
エリアスは胸を押さえてしばらく耐えていたが、最後には頷いてしまったという。
「ごめん……少しの間、彼女と昼食をとることになって」
蒼白な顔で言いにきたその背後で、スライル子爵令嬢はにんまりと笑っていた。
父に報告して、スライル子爵家に抗議を入れてもらうことに決める。
スライル子爵令嬢のあの態度は何なのだろう。爵位の差をいつまで経っても理解できないようなのは、さすがに問題だと思うのだけれど。
それに、彼が伯爵家の三男で継ぐ爵位はなく、我が家に婿入り予定なのを、ちゃんと理解できているのかしら?
それを見た他の令嬢たちも、次々と泣き落とし作戦に出た。
パーティーでのダンス。
勉強会での特別待遇。
観劇のチケット。
悩み事の相談。
お見舞いの付き添い。
放課後の街歩き。
私との婚約前なら何の問題もなかった、引き受けることで優しいと評判になった、それらのお願い。
そのたびに彼は青ざめ、震え、断ろうとした。
けれども涙を見せられると駄目だった。
そうして彼の周りには、それを知る令嬢たちが集まるようになった。
どれほど断ろうとしていても、涙を見せられると最後には頷いてしまう。
その頃には、もはや我が家での領地の勉強もままならない有り様だった。
もうこの婚約は継続不可能だと、私も父も理解していた。
「エリアス様ぁ〜、マルティーヌ様が睨んできて怖ぁ〜い」
今日もスライル子爵令嬢がエリアスの腕に張り付いて、こちらをわざとらしく指し示す。
「彼女は僕の婚約者だ。悪くいうのはやめて欲しい」
「私、そんなつもりないのに……ひどぉい」
エリアスがそう言うと、途端に涙ぐんで、くすんくすんと鼻を鳴らし始める。
そうすると、エリアスがこれ以上何も言えなくなるのを熟知しているやり方だった。
彼女の家にはすでに抗議を入れていて、父親はすぐに謝罪の品を持って詫びてきていたと言うのに、肝心の彼女には全く伝わっていないらしい。
このままだと、貴族家の婚約を壊した性悪な娘として、社交界での居場所がなくなるというのに。
伯爵家というのは爵位の高さとしては中間だけれど、領地経営が上手く行っている裕福な伯爵家には、それくらいの力はあるのだ。
スライル子爵令嬢には兄がいて家を継ぐわけでもないし、普通に嫁に行く立場のはずなのに、いつまでも婿入り予定のエリアスを狙っていて、いったいどうするつもりなのだろう。
本当に疑問だ。
「スライル子爵令嬢。私はあなたに名前を呼ぶ許可を与えていませんわ。私のことは、どうかローデリア伯爵令嬢と」
「えっ、ひどぉい! エリアス様、こんな傲慢で冷たい方が婚約者なんて可哀想!」
これ見よがしに涙をこぼしてエリアスにしがみつく。泣きそうに眉を下げているのに、愉悦が耐えきれず、その口角が上がっている。
その手を、不意にエリアスが振り払った。
「マルティーヌ嬢は、傲慢なんかじゃない……! 婚約者がいる僕に、いつまでもまとわりついている、君のほうがおかしいんだ!」
その顔は青ざめていたけれど、明確な怒りを伴っていた。
「え……何? 急に怒って……私、泣いているんだよ?」
スライル子爵令嬢が慌てた様子で言い募る。
エリアスは髪を片手でぐしゃぐしゃと掻き回して、目元に落ちた長い前髪の隙間からスライル子爵令嬢を睨みつけていた。
「君はいつも僕が苦手な涙を使って、僕を良いように利用している! 僕は君のことなんて好きじゃないのに……もううんざりだ! 君の家に抗議をさせてもらう!」
そう叫ぶと、エリアスは胸を押さえてその場にうずくまってしまった。
男子生徒が何人か駆け寄り、一人は教室を飛び出して教師を呼びに行った。
教室は、しばらく騒がしいままだった。
スライル子爵令嬢は、何が起きたのか分からないようで、その場にしばらく立ち尽くしていた。
エリアスはその日、そのまま早退して行った。
体調不良とのことで、そのあと彼は一週間ほど学園を休んだ。
我が家は改めてスライル子爵家に抗議をし、その結果、スライル子爵令嬢はその後、父親の意向で残りの学期、学園を休学することになった。
少なくとも、来年同じ学年に進級できないことは確実だ。
これでスライル子爵令嬢は片付いたものの、彼の周りには相変わらず、涙を流せば彼がいうことを聞くと知っている令嬢たちが控えている。
私は決断をしなくてはならなかった。
「本当に済まなかった」
エリアスが頭を下げる。ご両親も頭を下げていた。
翌週のことだ。
「最後の最後に、私のために怒ってくださったこと、嬉しく思いますわ」
彼らがハッとした様子で顔を上げる。
「ですが、これからもあなたを涙で利用しようとする方が現れるでしょう。私はもう、これ以上あなたを守る盾ではいられません」
「……うん。本当に、済まなかった」
「あなたが最後に見せた強さと優しさは、どうか次の方のために使ってあげて下さい」
私が言うと、エリアスは泣き出しそうな顔で頷いた。
いずれ女性の涙を克服できたのなら、彼はきっと優しくて優秀な配偶者になるだろう。
けれども、その相手は今の私ではなかった。
ただ、それだけだった。
彼のことをもっと待ってあげれば良かったのにと、そう言う人もいるかもしれない。
けれども、私には守るべき家があって、継ぐべき爵位がある。
そこに、女性の涙にことさら弱い彼という不安要素を入れるだけの余裕は、私にはなかったのだ。
エリアスのことを、いずれ女性の涙への恐怖を克服して、幸せになれば良いとは思う。
でも、あまりにも我慢の時が長くて、私がこの手で幸せにしたいとまでは思えなかった。
身を震わせ涙ぐみながら借金の申し出をしてくる女性を、断れるか。
縋りつき涙を溢して領地の通行料を値切ってくる女性を、断れるか。
ポロポロ涙を流しながら愛人にしてと迫ってくる女性を、断れるか。
伴侶に対していちいちそんなことを疑いながら、長い人生を共に生きていくのは嫌だった。
「もう、次の相手は断る時の言い訳には使わないようにするよ」
エリアスが青ざめた顔で、しかし決意を込めてそう言う。
それに私は微笑んで頷いてみせた。
私は、次の相手は優しさだけを理由には選ばないようにしようと心に決めた。
その優しさが、どこを向いているのか。
その優しさが、誰のためのものなのか。
まずはそれを知るべきだと、そう胸に刻んだ。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
よろしければ、ブックマークや☆評価などで応援していただけると幸いです。
今回から少し改行など工夫してみました。読みやすくなっていると良いのですが。
また、次の作品でお会いできますように。




