前編
将来伯爵家を継ぐ私、マルティーヌ・ローデリアに婚約を申し込んできたエリアス・ヴァルニエ伯爵令息は、学園でとにかく女性に優しいという評判だった。
エリアスは金に近い明るい茶色の髪に、新緑のような鮮やかな緑色の瞳をした美男子だ。学園での成績も良く、教師の覚えもめでたい。
顔の美醜や爵位に関わらず、パートナーがいなくて困っているとエスコートを申し出てくれたり、パーティーで喧嘩別れしてパートナーに先に帰られてしまったという令嬢がいれば、自分の乗る馬車を譲って先に家まで送り届けてくれたり、勉強が苦手な令嬢から相談を受けると、同じような理由で困っている人たちを集めて勉強会を開いたりと、とにかく評判が良い。
女性とよく関わってはいるが、その中に特定の相手はいないようだったため、婚約は結ばれた。
私は茶色の髪にグレーの瞳といった、取り立てて目立つところのない地味な色合いの娘だったが、親には大事に育てられていた。
それだけ気遣いができる相手なら、きっと婚約者のことはもっと大事にしてくれるだろうという、親の期待があったのは間違いない。
実際、エリアスは私に優しかった。
「君を将来支えるために、僕も領地経営を学んでおきたい。ローデリア家の領地について僕も君のお父上から学ぶことはできるだろうか」
そう言って、父から我が家の家業について学ぶことを厭わなかった。父は理想的な婿だなと機嫌よく笑った。
「これを。君は派手な薔薇や豪華な百合よりも、小さくて可憐な花が好きだったよね」
月に一度の交流のためのお茶会では、私好みの小さな花束を持ってきてくれた。ほんの些細な言葉も忘れていないのだと、感激してしまった。
学園ではクラスが違っていたが、昼食はよく一緒にとった。ダンスのリードも上手で、エスコートは完璧だった。
二度目のお茶会で、彼が少し言いづらそうに切り出してきた。
「ダンスの授業で、今回も何人かの令嬢たちから相手を頼まれているんだが、許してくれるだろうか?」
「カドウィン先生からの頼みでしょう? 仕方ないわ。あなたはリードが上手いから、踊りやすいものね」
リードが上手いと評判のエリアスは、教師からもよく、慣れていない令嬢の相手として指名されていた。私は婚約者とはいえエリアスを完全に独占するつもりはなかったので、了承する。
「そう言ってくれると助かるよ」
エリアスはホッとしたように微笑んだ。
「クラスの勉強会もこのまま続けて良いだろうか? 恒例のお茶会や君との予定には被らないように工夫する」
「あなたが中心で始まったものですものね。ええ、私のほうの予定に関わらないのなら、続けても構いません。それにしても、エリアス様は本当に、よく皆さんの頼みを聞いていますわね。感心しますわ」
「……頼まれると断れない性分でね」
私が感心してそう言うと、エリアスは苦笑しながら照れた様子で紅茶を飲んだ。
思えば、この頃は私とエリアスが婚約したばかりで、周りのほうが遠慮していたのだろう。
エリアスの『優しさ』が問題になってきたのは、婚約してから半年ほど経ってからのことだった。
「次のパーティーで、君とのファーストダンスが終わったら、ルドウィン子爵令嬢とパルミナ伯爵令嬢とダンスを踊る約束をしてしまった。下手だから人前で踊るのが怖いと言って、リードが上手くて授業で上手に踊れた僕と踊りたいらしい」
「ダンスが終わった後は、我が家と繋がりのある家の方へ紹介する予定でしたのに」
「そうだったのか! すまない。けれど、もう約束してしまったんだ。次からは気をつける」
これまでも、パーティーではダンスが苦手な令嬢から頼まれてよく踊っていたから、その延長で今回も引き受けてしまったそうだ。
その時はフリーだったけれど、今は私と婚約したのだから、勝手に予定を入れられるのは困るというのに。
でも、エリアスが申し訳なさそうに頭を下げてきたので、今回は仕方がないと譲ることにする。
確かに、一度約束したことを断るのは外聞が悪い。そんなことをさせたら、まるで私が醜い嫉妬をしてダンスをやめさせたように見えるだろうし。
「次からはきちんと先に、私に聞いてくださいね」
今回は、そう言うにとどめた。私は別に、婚約者だからと言ってエリアスをがんじがらめにしたいわけではない。
ただ、婚約者になった以上は、互いに払うべき礼儀と、周りとの距離感が必要だと思っただけだった。
パーティーでは約束通り、エリアスは私とのファーストダンスの後に、ルドウィン子爵令嬢とパルミナ伯爵令嬢と、それぞれ一曲ずつダンスを踊った。
二人はどちらも踊り終わった後に、私へもお礼を言ってくれたから、決して悪い人たちではない。
けれども、今回そんな姿を見られたことで、これまでは婚約者がいるからと遠慮していた令嬢たちが、また彼に頼み事をしてくるようになるとは、その時は思ってもいなかった。
「え? クレマン伯爵令嬢のエスコートを? あなたが?」
「君が出ないパーティーの話だ。兄上も結婚して奥方がいて、お父上も都合がつかないと言うので引き受けた」
「私と言う婚約者がいるのに、他の令嬢をエスコートするなんて……信じられない」
私が驚いてそう口走ると、エリアスはきょとんとした顔をする。
「君との予定には関わらない話じゃないか。それに、何か聞かれたらきちんと君が婚約者だと説明する。これまでもしてきたことだ。問題はないだろう?」
「あなた、それ本気で言っているの?」
「え、何が問題なんだ? 僕が何か間違っていると言うの? だって彼女は、このままだとひとりぼっちでパーティーに参加しなくてはならないと、泣きながら頼んできたから……。困ってる令嬢をそのまま放ってはおけないよ」
まるで私が物分かりが悪いようにエリアスが言い募る。どのみち、一度引き受けてしまったことを反故にはできない。
私は少し考えてから、エリアスに伝えた。
「私が父に頼んで、婚約者のいない男性を紹介するようにクレマン伯爵家に伝えます。あなたは断って」
「そんな! 彼女は見知っている僕だから、安心して頼めると言っていたのに?」
「彼女の評判にも関わる大事なことよ? 未婚の女性が婚約者のいる男性にエスコートされるなんて、不貞を疑われても仕方のないことだわ」
クレマン伯爵令嬢も、いったい何を考えているのだろう。自分の評判を落とすような真似をするなんて。
確かにエリアスは見た目も良いし、エスコートに慣れているから頼みやすいのだろうけれど、それにしたって。
「大袈裟すぎるよ。僕のエスコートはそんな大層なものではないと、みんな知っている。頼まれれば、これまでだって誰とでもしてきたことなんだから」
「私と婚約した今は、違います。婚約した人間が他の人をエスコートするというのは、家族でもない限り別の意味を持つと思われるのよ?」
「君が穿って見ているのではないの? それとも、不安にさせた? 大丈夫、僕には君が一番だ」
「そうではなくて」
私が女として嫉妬しているか、自分の立場を不安に思ったかのように扱われる。
そうではないのに。彼に伝わらないのがもどかしくて、私は頭を振った。
「婚約をしたら、他の異性の方とは距離を保つのが礼儀だと話しています」
「頼まれたからしているだけで、彼女たちを好ましく思っているわけじゃない。特別なのは君だけだ」
「女性からの頼みを断れないということ?」
私が言うと、エリアスはギクリとした様子で顔を強張らせた。何度か深呼吸をして、それから真剣な顔で言う。
「……困っている女性を助けるのは、悪いことではないだろう? 紳士の嗜みだ」
「距離が問題だと言っています」
「ちゃんと君を優先している。君との予定を崩すようなことはしていない」
堂々巡りだった。
伝えたいことが、彼に届かない。
彼に悪気がないことだけは分かったけれど、だからと言ってそのままにしておいて良い問題ではないと思った。
「とにかく、これからは他の人からのエスコートの依頼は断ってちょうだい。婚約者として、当然の配慮です」
私がそう言うと、エリアスは困ったように眉を下げた。
「……努力は、する」
「努力するとかしないとかではなくて、断ってほしいと言っています。これからは婚約者がいるから無理だ、と、そう私を言い訳にすれば良いだけです。クレマン伯爵家には、父から話をしてもらいます。良いですね?」
「わかった」
その件は、それでなんとか決着した。
クレマン伯爵は、娘が婚約者のいる男子生徒にエスコートをお願いした事実に驚いていたし、我が家が紹介した少し年上の子爵令息を気に入ってくれたようで、そのまま婚約することになったと感謝された。
それからは、エリアスはエスコートは「婚約者がいるから」と、断れるようになったらしい。
けれども、他の『お願い』はやはり断れないのだった。
「スライル子爵令嬢だ。彼女が、僕たちと昼食を一緒にとりたいって」
学園のランチタイムに、エリアスは少し癖のある金髪に青い瞳をした一人の令嬢を伴って食堂へやってきた。婚約者との食事に割り込むなんて、普通なら考えられないことだった。
「今日、仲がいい友人が休んでいて……一人で食事など寂しすぎます」
私が黙ったままじっと見つめると、スライル子爵令嬢は瞳を伏せてそう告げる。
エリアスの袖口を、片手がすがるように摘んでいた。
「それなら私の友人も呼びましょう。それから、席はあなたの隣ではなく向かいに。私がエリアス様の隣に座ります」
私がそう言うと、スライル子爵令嬢は途端に非難するようにこちらを見る。
婚約者との間に割り込んでおいて、態度が大きい。爵位の差もあるのに、ずいぶんと『良い性格』のようだ。
話は、もちろん弾まなかった。
彼女が何かとエリアスに話しかけて、でもエリアスはそれに返事はするけれど、私のことも無視しなかったため、話題がなかなか広がらない。
最後のほうは、全員ほとんど口を聞かずに食べ終わった。
「さあ、食事は済んだからこれでもう良いよね」
エリアスがホッとした様子でスライル子爵令嬢に笑いかける。
スライル子爵令嬢は、納得がいかない様子ながらも、私たちにじっと見つめられて、仕方ないというように席を立って去っていった。
「彼女とは親しいのですか?」
「まさか! ただのクラスメイトだよ」
私が訊くと、すかさず否定される。
そんなただのクラスメイトを、婚約者との食事の場に連れてきてしまうのか。
私は少し失望する。
彼の評判の良さに必ず添えられていた『優しさ』というのは、美徳ではなく、もしかして何か問題を孕んでいるのではないかと気が付き始めていた。
その日は、放課後に我が家で領地経営を共に学ぶ予定だった。
神妙な顔をしたエリアスが、昼食の時に話し出す。
「今日の放課後の約束だけど、日にちをずらせないかな」
「何かありましたか?」
「クラスメイトで勉強会の参加者の一人が病気でしばらく休んでいて、勉強会のメンバー数人で見舞いに行くことになったんだ。授業のノートをまとめたものもあったほうが良いと言うので、僕も誘われた」
「まあ、お病気は大丈夫なのですか?」
「うん、なかなか熱が下がらなくて一時期大変だったそうだけど、今は熱も下がって回復期にあるそうだ。ただ、体力がすぐには戻らないそうで、まだすぐには学園に来られないらしい」
「それは心配ですね。ぜひ、行って差し上げて」
私がそう言うと、エリアスは安堵したように息を吐いた。
領地経営の勉強は、一度予定をずらしたところで問題はない。
帰宅した後に私から父に伝えておけば、特にどうということもないだろう。そう思ってのことだった。
ただ、それは一度では終わらなかった。
「え、今日も?」
「昨日、みんなで訪ねたら、ずっと寝たきりで寂しかったと泣かれてしまって……しばらく、交代で毎日訪ねることに決まってしまったんだ」
エリアスは、クラスメイトが勝手に決めてしまったというような口調で、そう説明した。
あくまでも自分は、勉強会のメンバー全員の決定に逆らえなかっただけなのだと。
「君の家には、見舞いが終わってから行くよ。領地経営を学びたい気持ちは変わりない。けれど、その前に少しだけ時間を割かせてほしい」
そう言われると、病気の人に文句を言うようで、私はそれ以上は言えなかった。
そして、それはそのクラスメイトが学園に復帰するまで一ヶ月近く続いた。
そのクラスメイトがエリアスに何かと頼み事をしていた女生徒だったことも、私は後から知ったのだった。
「今日の放課後、ちょっと親戚の相談に乗ることになって……寄れなくなりそうだ」
昼食の席で、またそんなことを言われた。
今度は何なのだろう。私は少しうんざりとしながら、話を促す。
「どういうことですか?」
「三つ年下のうちの親戚の子なんだけれど、友人と最近うまく行ってないそうで、相談に乗ってほしいとお願いされてしまって。僕は昔から友人が多いからと」
少し申し訳なさそうに告げてくる。
婚家の親戚付き合いは、結婚してからも続くことだ。仕方がないと、その場は頷いた。
しかし、それは一度では終わらなかった。
「喧嘩をして、仲直りの仕方がわからないと泣くんだ」
「どんな贈り物をすれば良いのかって相談されて」
「おしゃれなカフェを教えてほしいと言われて」
毎回、そう言って困ったように眉を下げる。
けれども、エリアスは一度もそれらを断ることもしなかった。
理由さえ話せば、私が納得して引き下がると思っているようだ。
「そうもたびたび呼び出されては、こちらの予定を立てられませんわ。どなたか、家族の方が相談に乗るわけにはいきませんの?」
私が言うと、困った様子で肩を落として見せる。
「まだ子供だし、泣かれると、どうにも弱くて……家族に言うのは恥ずかしくて、どうしても僕が良いって言うから」
「けれども、それではいつまで経っても終わらないではないですか。いつまで付き合うおつもりなのです?」
「君のことはちゃんと一番に考えている。ただ、彼女は今が一番ナイーブで難しい年頃なんだ。もう少し相談に乗ってやれば、きっと友人と過ごすほうが楽しくなるに違いない。本当に、今だけだから」
エリアスには、私の言う言葉がまるで届かないようだった。何が問題なのかが、根本的にわかっていない。
確かに、外から見ればエリアスは優しい。けれど、その優しさは、私には少し歪んでいるように思えた。
まるで、誰かから頼まれたら、そのすべてを叶えないといけないとでも思っているかのような振る舞い。
断ることを初めから考えてもいないような受け答え。
それは、本当に『優しさ』なのだろうか。
その親戚の子とは、結局翌月いっぱいまで相談に乗っていた。
エリアスは疲れ切った表情で、終わったと報告しにきた。
せめて、すっきりした顔をすれば良いのにと思う。
自分のやりたいようにしたのだから、そんな疲れ果てたような、自分が被害者のような顔をしないでほしいと思うのは、私の我侭なのだろうか?
「マルティーヌ様、ヴァルニエ伯爵令息のことなのですが……」
ある日、少し親しいクラスメイトのルーディア嬢が、私にこっそりと話しかけてきた。
「先週末、街のレストランで他の女性と二人きりで食事をしているのを見かけてしまって」
「詳しく、お聞かせ願えますか?」
私が言うと、ルーディア嬢は小さく頷いた。
「婚約者と予約を入れて食事をしていた時に、お隣の席に座られたの。見覚えがあるから、多分、クラスメイトの女生徒だと思うのだけど……」
相手の特徴を訊くと、癖のある金髪に青い目をした令嬢だったと言う。
前に昼食に割り込んできた、スライル子爵令嬢のようだった。
私は、今回ばかりはさすがに怒っても良いのではないかと思った。
「先週末、スライル子爵令嬢と街のレストランで食事をしていたと聞きました。しかも、二人きりで。婚約者がいる身で、いったいどういうおつもりですか? もしかして、我がローデリア家との婚約を軽く考えていらっしゃるの?」
その週末のお茶会で私が言うと、エリアスは驚いたようにこちらを見つめた。
まさか、知られるとは思ってもみなかったのだろう。
「ち、違う! そんなつもりはなかった! ただ、彼女があの店は伯爵家以上でないと予約が取れないので、一度どうしても行ってみたいと言うから……」
「ただのクラスメイトと仰っていましたよね?」
「そうだ、ただのクラスメイトだ! 決して君を蔑ろにしようだなんて考えていない。先週末は君との用事もなかったから、それなら良いかと思ったんだ」
「婚約者がいる身で、ただのクラスメイトの女性と二人きりで予約制のレストランで食事をするのが、悪いことだとは思わなかったのですか? 本当に?」
私が軽く睨みつけながら言うと、エリアスは顔を青ざめさせて、身を縮こませるようにする。
「誤解だ! 彼女のことは何とも思っていない! ただ、生まれついた家の爵位が理由で、入れない店があるのが辛いと泣かれそうになって……断りきれなかっただけなんだ」
肩を落としてそう言う姿に嘘はないように見える。
スライル子爵令嬢のことは何とも思っていないのが本心だと分かったけれど、それでも許せる話ではない。
「このことは父にも話します。このように何度も、私よりも他人を優先されては困りますわ。婚約がこのまま続けられるかは、家同士で話し合ってもらいます」
私はそう告げて、席を立った。エリアスが引き止めるように私の名前を呼ぶ。けれども、私は振り返らなかった。
この時は、私は彼の事情など何一つ知らなかったのだ。




