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放課後になって緋空ちゃんを迎えに行くと、ハルちゃんは近所のおばちゃんのようなテンションになっていた。
「それにしても緋空ちゃん? 良い子ね、聞き分けいいし」
ハァ〜と恍惚の表情で語る。
たしかまだ20代だったはずだけど、親戚の子でも褒めるようだった。
「将来的にあんな子供が欲しいわぁ……」
「先生結婚してるんですか」
そう言うと、保健室の空気が静まった。
比喩抜きにリアルに空気が冷えた気がする。
そして、人でも殺しそうな視線がこちらに向いた。
「星影、次その話したら保健室出禁」
「そ、それは怖いなぁ〜……」
両手をヒラヒラさせて機嫌を取り戻そうとしても、先生の焦点は合わずブツブツと言葉を漏らし続けてる。
「まだ時間はあるし……」
違う扉を開いてしまったかもしれない。
「はぁ〜! でも本当に可愛かった。なんかこう……堪らなくなっちゃう感じがいいのよね」
ブツブツと言ったかと思えば、今度はダラ〜っとソファにもたれて、思い詰めた表情をしながら空中に言葉を放っている。
あの馬淵先生、もといハルちゃんをここまで籠絡するなんて……。
いや、そんなこと考えてる場合じゃない。
とにかく早く聞かなきゃいけないことがあるんだ。
恐る恐る僕は尋ねる。
緋空ちゃんが何故か保健室から姿を消していることについて。
「それで……聞きたいんですが、緋空ちゃん、なんでいないんですか?」
「あー、それね。美術部の子達と一緒に美術室にいるよ」
「えっ? なんで?」
「お絵描きして待ってるって言ってたから私も見てたのだけど、緋空ちゃん凄い上手なの。それ見た美術部の子が放課後に誘ったから見に行ってるわ」
なにそれ……。
もうなんか「こんな緩い人だったんだ」って言うショックと親近感が同時に来てる。
「いや、勝手にそんな……」
「でも本当に上手なのよ? 見たことある?」
「いや……ないですけど」
絵が好き……ということすら知らない。
そういえば昨日の今日とはいえ、緋空ちゃんの好きなものを僕は知らなかったことに気付く。
カレーは……好きそうだったんだけど。
「私は芸術とかよく分からないけど、見学ってことで預けたの。顧問の先生にも伝えてる。とにかく、美術室にいるから迎えに行ってあげて。ほら、ランドセル」
ソファに置きっぱなしの赤いランドセルを指差す。
馬淵先生……いやハルちゃんってかなり適当なんだな……。
佐藤さんから僕へ、僕からハルちゃんへ、ハルちゃんから美術部へ。
ゲーム機だったら絶対迷子になってる又貸しリレーをされる緋空ちゃんが少し不憫に思えてきた。
早く緋空ちゃんを迎えに行かなきゃ。
お母さんのような気分で、学生カバンとは逆の手にランドセルを手に取った。
「……というか僕、緋空ちゃんがいないのに先生の話聞かされてたんですけど」
「だってあの子の可愛さを布教する人いないんだもん」
「彼氏とかに話せば……」
その瞬間、ハルちゃんの視線が過去最大に鋭くなった。
「あー機嫌が悪くなってきた」
「む、迎えに行ってきまーす……!」
こんな地雷原みたいな人が養護教諭でいいの……!?
大慌てで僕は保健室を飛び出した。
⭐︎
ガラリと扉を開けて覗き込むと、絵の具の乾いた匂いが鼻を突き刺した。
「すいませーん」
その言葉で、少しざわついた美術室が静まった。
描き途中のキャンバスの前で丸椅子に座る緋空ちゃんを囲んで、楽しそうに話していた美術部員の視線がこちらに集まる。
「あっ彩陽ちゃん!」
首に来校証をぶら下げた緋空ちゃんが、唯一明るい視線をこちらに向けていた。
「高校生の美術室? って凄いね! いっぱいあるの!」
「そうなんだ……って、なにしてたの?」
「絵を見せてもらってたの!」
視線で「入っていいですか」と伝えると、部員の1人が首をコクコクと縦に振った。
中に入ると絵の具の匂いに加えて木の独特な匂いまで混ざったものが、さらに鼻を強く刺激した。
美術の匂いって感じだ。
「あの、すいません、見てもらって……」
申し訳なく伝えると1学年上の先輩は少し訝しげにこちらを見て、気まずい時間が流れる。
視線が僕の髪と顔を行ったり来たりしている。
「大丈夫。あなたの関係者だったんだね」
ツンと棘のある声色。
こっちには敵意もないんだから刺々しい雰囲気にしないでくれると嬉しいんだけどな……。
するとその雰囲気を気にせずキャンバスを眺めていた緋空ちゃんが、その先輩のブレザーを軽く引っ張って指を差した。
「うん、あのね? これ、少しズレてるよ」
「えっ……ん? どうズレてるの?」
絵に向かって突き出された指を、部員が凝視している。
「ここの光おかしいよ? 太陽がここで、白い鳥がここだから……」
アクリル絵の具で綺麗に彩られた水面から飛び立つ白鳥の絵画。
一見なにもおかしくないその絵画の太陽、白鳥、水面へと指をなぞらせた。
「だからね? ここがね……」
分からなそうにしてる部員の顔を見て、緋空ちゃんはさらに「ここがこう……」と空中で指をなぞる。
言ってる意味は僕にもよく分からない。
反射した光が変だと言ってるのは分かるけど……何が変なんだろ。
絵を描いた部長も顎に手を当てて、鳥のように首を前に後ろに動かしながら目を細めて絵を眺めている。
すると……少しして目を丸く見開いた。
「たしかに……! 反射光の入り方がおかしいかも。光源がここだからここにも……ここも! 光が入り方がおかしいから、少し形が歪んでる」
何かズレを見抜いた部長に答えるように、他の部員も「そうかも……」と口々に発する。
そして、緋空ちゃんを見た。
「気づいたらすごい違和感……あなた一瞬でこれに気づいたの?」
「うん、形がね? 少し違って見えたの」
部長の視線は、ぐるりと緋空ちゃんを撫でた。
唾を飲むように喉を動かすと、今度は思いついたように美術室の机に目を走らせた。
「ねぇ、ちょっとデッサンできる?」
「でっさん?」
「鉛筆だけで……そうだ、これをスケッチしてみて、ほら、こんな感じで影とかも全部鉛筆で描くの」
部長が鉛筆とノートを手渡し、そして美術室の長く大きい机の上に中学の授業でも定番のリンゴを乗せた。
そして緋空ちゃんはなんとなく理解したようで、キャンバス前から机に向かい直して、ノートに早速描き始めた。
迷いなく鉛筆は動く、白紙のページの上にどんどんリンゴの形が白黒で浮かび上がる。
僕も周囲の人間も、それに釘付けにさせられた。
「出来た!」
明らかにレベルが違った。
中学の美術にもデッサンはあった。
僕は苦手だったけど、絵が上手い子なんかは器用に描けてたのを覚えてる。
ただ……緋空ちゃんのそれはそんなレベルを超えていて丁寧で、小学生の絵とは思えないほど精密で綺麗だった。
白黒写真のように立体感を持ったリンゴの絵がそこにある。
「どう? 彩陽ちゃん」
「いや……こんなすぐ出来るんだね」
絵が上手い人って凄いなーって感じで美術部の人たちに顔をやると、全員目を見開いてこちらを見る。
「……ねぇ、この子なにもの?」
静かなトーンで部長がこちらを見る。
「いや、僕が預かってるだけで……」
「預かってる? 親戚ってこと?」
「いや違うけど……」
「……? どういうこと? まぁいいわ、ねぇ緋空ちゃん、今日ウチに来ない? ウチ美術教室とかやってて、画材もいっぱいあるし……そうだ! なんならウチで預かっても————」
「えっ、ちょっと……!」
勝手に誘う部長さんを制止しようとすると、そうするまでもなく緋空ちゃんは首を振った。
「ううん、彩陽ちゃんのところがいい」
「でも……」
「ねぇ彩陽ちゃん疲れた。おんぶして」
食い下がる部長から、顔をこちらに向けて両手をこちらに伸ばした。
「えぇ……僕ランドセルも持ってるし重いんだけど」
「いいでしょ? 私ね、疲れて死にそうなの。今なら本当に死ねちゃうかもしれな……」
「あーはいはい! うん、そうだね。僕がおんぶしてあげよう!」
何かとんでもないことを言う気配を感じて、すぐさま屈んで背中を見せると緋空ちゃんが僕の背中にしがみついた。
「はい! それじゃあしっかり捕まってね! それじゃ部長さん失礼しますね!」
そして胸にランドセル、背中に緋空ちゃんを抱えてそそくさと美術室を出た。




