10-3
背中に感じた衝撃とその言葉を覚えてる。
出会い。
お腹の方まで回った手の感触だけで、競り上がってきた感情が口や鼻からも決壊してしまいそうだった。
「緋空ちゃ……あれっ?」
グイッと身体を捻って緋空ちゃんも向かい合おうと思ったら、彼女は真後ろにぴったりくっついてる
「緋空ちゃん……?」
首を回して肩越しに後ろを見つめると、緋空ちゃん……いや、顔をまだ見てないからおそらくなのだけど。
黒髪と天使の輪っかのような髪の艶しか見えない
彼女はブレザーに顔を埋めてぴったり張り付いていた。
「どうしたの……?」
「あひゃふぃひゃんひふぁいふぁいふぁふぁった……」
「……なんて言ったの?」
なんかおかしな状況に、涙が引っ込んだ。
「あいふぁふぁった」
「……ごめん分からないや」
クスッと笑いが込み上げてきたけれど、そろそろ顔を見せてほしい。
腕を後ろに回して彼女の脇をくすぐってみた。
ビクビクと堪えるように腕が僕の体を締める力が強くなる。
「ほらっ、緋空ちゃ……痛ッ! ちょっ苦しいって!」
引き剥がそうという手の力を無言で耐え続けている。
「よっこい……しょ!」
それでも強引に僕は背中から、女の子を引っぺがす。
そして3ヶ月ぶりに緋空ちゃんの顔を見て、僕の引っ込んだ涙が再び溢れてきた。
彼女の顔はまるで雨に降られたように濡れていた。
今もなお、緋空ちゃんのクリクリとした大きな目から大粒の雫がこぼれ落ちる。
その姿をぼんやりする視界で捉えると、僕の中でも収まっていたはずの感情の洪水はまた顔を伝っていく。
「……彩陽ちゃん」
彼女は静かに笑っていた。
「緋空ちゃん……」
僕もそれ以上は言葉にしなかった。
沈黙で会話をしていたと思う。
会いたかった。絵が素敵だった。元気そうでよかった。最近は曲が作れなかった。
いろんな言葉を伝えていた。
でも結局、我慢できず言葉として口から感情がこぼれ落ちていく。
「あぁ……やっぱり君は僕の天使だ……天国に行くとか、そういうのじゃなくて……」
緋空ちゃんの笑顔が僕を突き動かした、
危ない空っぽな笑顔も、やっと光を蓄え始めた笑顔も、今僕に向けている優しさと慈しみで潤った笑顔も。
全てが僕の心を救う天使の笑顔だ。
「君がいるから、僕は生きていける……」
膝を畳んで溢れる涙を堪えながら、僕も彼女の生きる理由になれるように必死に笑って見せた。
君は絵を描きあげた。
緋空ちゃんの中に希死念慮はもう存在しない。
「僕も頑張るから……」
「うん」
目の前の天使は、その小さい身体いっぱいに僕を受け止めて抱きしめてくれた。
「ごめんね。僕は緋空ちゃんがいないと、曲が作れなかった」
「うん……知ってるよ。少しね、心配しちゃったけど元気でよかった」
「そっか……。そういえば僕のチャンネルも知ってるもんね」
何もしてなかったのをずっと把握されてたか。
離れた場所でも知られてたんだね。
お姉ちゃんたちも天国から見てたのかな。
『彩陽ちゃんはね、気づくのが少し遅いんだよ』
そうだね、彩沙お姉ちゃん。
そばにいなくても、きっと見てくれているんだ。
お姉ちゃんや緋空ちゃんに、ちゃんとしてない姿を見られてたと思うと、どこか背中のあたりがむず痒くなるような、取り返したくなる衝動が全身に回る。
「……ちゃんとしなきゃいけないね」
「ちゃんとしなくていいよ。彩陽ちゃんはセンサイだもんね」
「よく知ってるね、その言葉」
わざとらしく強調するその姿が愛おしい。
彼女の纏う光を弾くような空気に包まれながら、僕は大きく息を吸った。
「でも、緋空ちゃんは違った。頑張ったんだよね。きっと」
その言葉に、少しの沈黙を挟んで目尻の涙を拭って笑う。
「うん、頑張ったんだよ。大切な絵だから、綺麗に描きたかったの」
「この絵だったんだね」
そして、そんな喉で蓄えたものが口から飛び出した。
「描けるようになってよかったね……」
「うん、良かった……!」
「緋空ちゃんが元気で嬉しかった。この絵、見せてくれてありがとう」
「うん、見せるのも少し早くなっちゃった」
「あ、いたいた……ってうわ! どうしたの!」
☆
佐藤さんと緋空ちゃんは、2人で来たらしい
今日で展示が終わるらしく、最後に飾られた絵の前で写真を撮りにきたらしい。
そして受付の人に「あなたの絵にそっくりな赤い髪の女子高生が来ている」と聞いて緋空ちゃんは走ってきたとのことだった。
そして……佐藤さんも遅れてのんびりと見て回ってきたみたい。
「それで泣いてたってことね……緋空、いつまでもしがみついてたらお姉ちゃんに迷惑でしょうが」
「彩陽ちゃんを充電するの」
そんな佐藤さんの問いかけに、ウエストポーチみたいまとわりつく緋空ちゃんは、子供らしく返事をしていた。
緋空、と呼び捨てて呼びかけるあたりに距離の近さを感じる。
何かをされていたらどうしようと思っていたけど、意外と健全な親子のようだった。
僕の警戒は……間違っていたのかな。
なにより緋空ちゃんの絵と本人に会えた喜びについ泣いてしまった。
そんな姿を佐藤さんに見られて、なんかとても気まずい。
「まぁでも星影ちゃんが落ち着いたならよかった」
「はい……すいません、あの……」
「ん? なに?」
「すいません、会うつもりなかったんですけど……」
「えっ? 何が?」
サングラスを襟元にかけた佐藤さんは目をまん丸にしてこちらを見た。
以前揉めた気まずさを一切感じさせない視線にこちらも少し拍子抜けした。
「いや、会っちゃダメなんじゃ……」
「そんなこと誰が言ったの? 連絡してこないから何かあったかと思ったけど、そういうこと?」
はぁ……と背中を折り曲げて溜め息を佐藤さんが吐いた。
なんだなんだと、呆れたように首をポキポキ鳴らしてこちらを見た。
「なるほど……まぁこっちも忙しくて確認できなかったから心配かけたね」
心配そうに目を細めた彼を見て、僕の中で張り詰めた緊張が少しだけ抜けていった。
「なんだ……別に悪い人じゃなかったんだ……」
「私もね? そう思ってたけど、おじさんそんな悪い人じゃなかった」
「そんなウケ悪いの……? 俺……」
少し残念そうな視線を向けながら肩を落として見せた。
はぁ……と呆れ溜め息は尽きない。
「まぁでも、本当にやるとはね。これ引き取ったら飾るんだろ?」
「うん! これ彩陽ちゃんにあげる、彩陽ちゃんのお家に飾ろっ!」
「……えっ?」
想像以上に仲が良さそうなのもそうだけど……僕の家なの?
「僕が貰っていいの?」
「うん! 本当はね? サプライズのつもりだったの」
「サプライズ……?」
緋空ちゃんは佐藤さんと目を合わせて、悪巧みをするように笑っていた。
「あのね? また彩陽ちゃんと一緒に住む時に渡そうと思ったの」
「一緒に……?」
どういうことが判断しきれず、佐藤さんを見ると彼もまた穏やかにこちらを見ていた。
「そう。来年度からまた緋空ちゃんを預かってもらおうと思ってね」
「えっ……?」
なんで。と言葉が出てくる前に色んな感情で喉が詰まった。
疑問や嬉しさや驚き。
ただ僕の顔を見てそれをすぐ察したのか、佐藤さんは絵の方に指を差した。
「緋空ちゃん、その絵が一番の賞取ったらまた君の家で暮らしたいって言ったんだよ」
緋空ちゃんの方を見ると、こちらに顔を上げてうんうんと首を縦に振る。
「説得しようにも『それでもダメなら家出する』って言われて流石に折れたよね、俺も。前までは大人しくてダンマリな子だったのに、君の家行ってからとんと変わったもんだ」
「それで取れたの! 1番だよ! 2つ賞もらったのは私だけなの!」
腰にしがみつきながら自慢げにいう緋空ちゃんに僕も少し誇らしくなる。
そんな絵のモチーフに僕を選んでくれて嬉しい。
「それで、いける? 一緒に暮らせそう?」
「いやはい……大丈夫ですよ」
「やったー!」
今度は両手をあげて喜んでいた。
「よかったな緋空」
「うん!」
「あー。ははっ……勝手ですね、本当に」
「嫌だったら俺の家で”健全”に過ごしてもらうから、お願いする分には多少勝手でも問題ないだろう」
わざとらしく健全を強調して言う佐藤さんに、僕は苦笑いが漏れた。
しかし、佐藤さん自身は炭酸が弾けるような笑顔を緋空ちゃんは向けていた。
「それに、賞を取らなくても良いと思ったんだよ。こんなの見せられたらね」
ほら。と講評を指差した
講評:淡い水彩画にも関わらず、人物の捉え方は数ある秀れた作品の中でも一段抜けていました。モデルの2人に実際に会ったらわかってしまうほどに。
そしてそんな2人がタイプの違う笑顔で笑い合っている。
苦笑いする赤い髪の姉とそれを笑って見つめる妹の姿に、これからの日々もきっと幸せだという希望と夢を感じました。
小学生ということを含めずとも、とても精密な日常の切り取り方が素晴らしい一枚でした。
「誰にでも伝わるもんなのさ、どれだけ2人で過ごした日が楽しかったかって。この絵と講評を見たら、2人を引き裂くことはできないよね」
遠い瞳で僕ら越しに絵を眺めていた。
「でも……いいんですか?」
「俺はぶっちゃけ楽しいのが大好きだよ。楽しいメンツで楽しいことをすんのがこの世で1番の正しいわけ。だから君もこの子も楽しく幸せに過ごせる環境にしてあげるのが大人の務めさ」
そう言いながら三つの目がついたスマホを取り出してヒラヒラとさせながら笑う
「じゃあほら、せっかくだし2人で撮ってあげる」
そして僕たちは2人で赤いを目をこすりながら、手を繋いで絵の前で並んでカメラに向かって微笑んだ。




