第二十六話 対峙
対フラッガ戦の練習を始めて、およそ四週間が経過した。
この間、僕は対フラッガ用の武器を磨きながら、基本動作を何度も反復し、自分のものにすることだけに専念していた。
「はぁ……はぁ……!」
アルグジム。
僕は対フラッガ戦を想定したメニューを、ただひたすら反復していた。
「はぁ……はぁ……あーーーーーぁあああッ!!!
クソがッ!!!」
僕はサンドバッグを鬱憤を晴らすように殴り飛ばし、その場へ両膝をつく。
そして拳を何度も床へ叩きつけた。
「うまくいかねえ……!
なんでこんなに下手なんだ、俺は……!!!」
気付けばハチローが歩み寄ってきていた。
「思いの外、真面目にやってるようだな」
「うまくいかねえんだ……!!!
自分ではできてると思ってるのに、鏡を見たら全然そんなことはねえ!!!
やればやるほど、自分の下手さばっかり目についてくる!!!」
ハチローは「へぇ」と笑みを浮かべ、愉快そうに僕を見下ろした。
「しかしお前、鏡を見ながら練習するとはな。
素人とは思えねえ発想だ」
僕はギロリと睨み返した。
「昔、知り合いによく教わってたんだよ。
そいつ格闘技好きでさ。
俺も好きだったから、よく付き合ってた」
「なるほど、それが理由か」
ハチローは一つ頷いた。
「正直、教える側として言わせてもらうが、お前みたいに真面目なヤツは教えがいがある。
そこは素直に感心してる」
僕はぷいとそっぽを向き、そのままあぐらをかいた。
「意味ねえよ。
うまくなんねえんじゃよ」
「心配するな、リガ。
お前の素質は、必ず活きる時がくる」
「素質?」
思わず問い返した、その時だった。
トレーニングルームの扉が勢いよく開く。
「やってるー!?」
元気溌剌。
ハチブンジだった。
僕は深いため息をつく。
「はぁ……」
「なによ、そのため息。
不満?」
「不満だよ。
お前、小言うるせえんだもん」
「小言って何よ!!
アドバイスでしょ!?
経験者からのありがたーいアドバイスなんだから、素人は黙って従いなさいよ!!!」
ここ数日、こんなやり取りばかりだった。
「おい、ハチブンジ……
あまり無理はするなよ?」
ハチローが少し心配そうに声を掛ける。
あんなことがあった後だ。
父親なら当然だろう。
「大丈夫よ!
もうちゃんと回復してきてるんだから!」
「ならいいが……」
なんとなくだが、ハチローさんはハチブンジの勢いに押され、渋々許可を出したんじゃないかと思った。
「苦労してるな、ハチローさん」
僕はやれやれと首を振る。
するとハチブンジが元気いっぱいに拳を突き出してきた。
「ほら!!
何やってるのよ!!!
早く練習しないと!!!
もう試合まで四日しかないのよ!?」
「わかってるよ!!!
うるさいなあもう!!!
今、行き詰まってるんだ!!!
ちょっと考える時間くらいくれ!!!」
思わず感情的に言い返してしまった。
だが、ハチブンジは一歩も引かない。
「関係ない!!!
そんなの家に帰って考えればいいでしょ!!
ここはトレーニングジムよ?
練習が正義なんだから、言い訳すんなっての!!!」
僕の額に青筋が浮かぶ。
その空気を見かねたハチローが口を挟んだ。
「ハチブンジ、いい加減にしなさい!!
リガは今、仕上げの段階に入ってるんだ!!!
余計な雑念を入れたら試合に差し支えるぞ!!!」
「……はい。
ごめんなさい」
割とあっさり引き下がる彼女を見て、僕は思わず吹き出した。
「ぷっ……」
「さて、リガ」
ハチローは僕の方へ向き直る。
「お前の焦る気持ちはわかる。
だが、それはニューボクサーなら誰もが通る道だ。
俺だって現役時代、試合前になっても技が完成しなかったり、不安が募ったりすることは何度もあった」
「ハチローさんも……?」
「ああ。
だが、リングの上では言い訳はできない。
それがこの競技、ニューボクシングだ。
そこで最善を尽くした者だけが、勝利への道を切り開くチャンスを得られる。
行き詰まるのはいい。
だが、諦めるなよ、リガ……!」
僕はその言葉を胸の中で何度も噛み締める。
焦るな。
諦めるな。
その二つだけが、静かに頭の中で響いていた。
「……おうよ」
僕は前手の練習を二時間ほど続けた後、試合を想定したリハーサルを行い、一つひとつ動きを確認した。
そして残り三日間を最終調整に費やし、ついに心から待ち望んだ試合当日を迎えた。
「……」
全身に気が漲る。
これまでにない緊迫感と緊張感が、皮膚をピリピリと刺激していた。
「仕上がったな、リガ」
控え室で静かに座る僕の背後から、ハチローが声を掛ける。
「ハチローさん。
できれば余計なことは喋らないでくれ。
雑念が入る」
「ぶわっはっはっは!!!
まるで一端のニューボクサーみてえだな」
ハチローは豪快に笑いながら、僕の言葉など意にも介さない。
「なに、心配するな。
俺がついてる以上、悪いようにはしねえ。
必ずお前を勝ちに導いてやる」
「頼むよ」
僕は短く答え、再び神経を研ぎ澄ませていく。
まるで一本の刃を研ぐように。
しばらくして、控え室にノックの音が響き渡る。
「失礼する」
ドアが静かに開かれる。
そこに立っていたのは、フードを深く被った一人の男だった。
「……お前は?」
「よう。
無事で安心したぜ、リングチャンピオン」
その声を聞いた瞬間、僕は思い出した。
「なるほど」
そこにいたのは、かつて僕へ忠告しに来た男。
今日の対戦相手――フラッガ、その人だった。
「お前との会話は忘れたが、顔はなんとなく覚えてる。
今日、アンタを返り討ちにするぜ」
僕はフラッガを真っ直ぐ見据えた。
互いの視線がぶつかり合い、控え室の空気が張り詰める。
「ふん……。
これは思いの外、難敵になるかもな。
こうでなくては、タイトルマッチは面白くない」
十秒ほど視線を交わした後、フラッガは踵を返した。
「首を洗って待っていろ。
今日の俺は、今までとは違う……!
必ずものにしてやるからな……その王座を!」
そう言い残し、控え室を後にする。
「……」
僕は静かに拳を握った。
勝つ。
それだけは、揺るぎなく心の中にあった。




