標本箱の中で
花弁の幻が視界から消えても、私はまだ身を固くしたままだった。
(今のは、気のせい? それとも、まさかモルガナが……?)
ラボの研究員達が一様に目にしたと思われる『花弁』は、モルガナが見せた幻覚だと考えられている。
それはただの幻覚ではない。
モルガナによって脳波の異常活性が始まり、彼ら自身の『世界』が侵食されていく、兆しだ。
視界に現れる『花弁』の数が増えるに従い、研究員達の認識していた『世界』は秩序を失い、輪郭を溶かし、意味を無くしていったと考えられている。
魔女の使役する蝙蝠や羽虫などの中にはこの視覚異常で生じた『花弁』の亜種も含まれているのではないかとアンソニーは言う。
再現実験(それが何の動物を使用したのかは黒塗りのまま記録されている)でも、モルガナの歌を聞かされた実験動物は突然歩行ができなくなり、そのまま昏倒した。
ある個体はケージの中を物凄い勢いで駆け回り続け、最後に血の混じった泡を吹いて昏倒した。
もしも私が見たのが彼女の『花弁』であれば、無事なはずはない。
私は気を取り直す。
(そうだ、だってモルガナは……もう……)
見えるはずはない。
事故発生直後に緊急作動した安全装置により、モルガナは一瞬でラボごと超高分子フェノール樹脂に閉じ込められているのだ。
まだ生存していたラボの研究員全員と共に、標本箱に磔にされた蝶のように----今度こそ、永久に。
モルガナは、今も法王庁の地下の硬い樹脂の中で眠り続けている。
----大勢を取り込んだ彼女の世界の中で、微睡んでいる。




