アックア・デッラ・マリア薬局
(ラベンダーと薔薇、それと蜜蝋……)
記憶と寸分違わない香りに、私は深呼吸する。
高めの天井から吊るされたシャンデリア。
聖堂の告解室を思わせる、黒光りするオーク材のカウンター。
そして、市松模様の床----。
『……全然変わってないわね』
小さな薬局に、私達は立っていた。
『ここお店屋さん? 誰もいないよ……?』
『教会直営の薬局の一つです。従業員は全員帰宅させています』
ここは、アックア・デッラ・マリア薬局という名前の、教会直営の古い薬局だ。
まだ魔女狩りの嵐が吹き荒れていた頃に建てられたというだけあって、石造りの建物の内部は時が止まったかのような雰囲気が残されている。
そして、この薬局は、魔女の出撃用通路の出口としても使用されていた。
『お薬屋さんなのにいい匂いがするね』
メリッサが不思議そうな顔で店内を見回している。
『薬の他にも石鹸や香油、香水も売ってるからね……ずっと昔は、あの温室で栽培した毒草で惚れ薬なんかも作って儲けてたみたいだけど』
答えながら私は棚に目を走らせた。
ずらりと並んだ小瓶のラベルには、見覚えのある水瓶と魚の紋章が描かれている。埃は被っていない。 カウンターの角に置いてあるのは折り畳んだ新聞。確か毎日配達されるものだ。
(天候不順と、こっちは探し人の広告か……いつの時代も変わらないのね)
まだインクの匂いがするという事は、新しいものなのだろう。
という事は、偽装で使用しているだけではなく、商売の方もそれなりに続いているようだ。
『本日は作戦のため封鎖していますが、いつもは観光客には人気の店なんですよ』
『えぇー、じゃあ今度はやってる時に連れて来てよぉ』
教会直営の薬局というのは私の父の領内にもあったくらいで、さほど珍しいものではない。
中世の修道士達が教会の経営のために始めたのが起源だが、実際には法王庁の情報網の拠点の一つとして隠密行動の隠れ蓑にも使われている。
例に漏れず、市国内のこの店舗は、特に重要な拠点として法王庁と地下通路で直結している。
観光客は決して知らない裏の顔、という訳だ。
(ま、そう考えれば本当に昔と何も変わらないわね)
教会直営薬局の薬は貴族王族の御用達でもあり、ありがたい薬としてよく売れていたが、その原料が魔女達の暮らす温室で栽培されたものだと知る者はいなかったはずだ。
同じ薬でも、富裕層は薬局から買い、貧困層は魔女から買う。
違いはそれだけだ。
知らない事こそこの上ない喜び、とかいう諺のお手本のような例である。