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意識してみればそれは明らかだった。
声をかけて頂いても修学を気にかけて頂けても、やはり頭を撫でてもらうことは一度もない。
それどころか背中や肩に触れられることすらない。
こんなに近くにいるのに、まるで見えない壁に隔てられているかのようだ。ズキリと胸が軋み、首にかけた勾玉を着物の上から握り締める。
避けられて、いる。
そう感じるようになったのは、淡稀様が不機嫌そうに出掛けられたあの日。あの、雨の中で抱き締められた次の日から。…思い出すと頭が動かなくなるから考えないようにしていたけれど。
あのとき、明らかにいつもの淡稀様と様子が違っていて。雨の中で佇む淡稀様はなんだか、苦しそうに見えた。
出掛け先で何かあったのだろうか。でもわたしには知る術もなく、訊ねることすらできない。だっていつも通りに振る舞う淡稀様の姿が、それを望んでいないと分かるから。
それとも気付かないうちに何か、淡稀様の気に障ることをしてしまったのか。自分の至らなさは日々痛感しているし、淡稀様はお優しいから、わたしに言わずにいてくれているのかもしれない。
だとするならばすぐにでも謝りたい。浅ましくも許しを乞いたい。けれど、淡稀様はそれ以外では本当にいつも通りで。何を謝ればいいのかが分からなくて、余計に困り果ててしてしまう。
理由を知りたい。でも淡稀様に聞けるわけがない。
“わたしに触れてくれなくなったのは、なにか気に障ることをしてしまったからですか”
なんて。
想像だけで顔から火が出そうになる。思い上がりも甚だしい言葉だ。
違和感の正体に気付いてから、よりぐるぐると思い悩むようになって。当然だけど答えなんて出るはずもなく。
眠れなくなるくらい悩んで考えて、ついに料理中に指を切るという失敗までしでかしてしまった。
切ったのは指先のほんの少し。が、顔を真っ青にした詩音様に手厚く手当てされた結果、左手全体が包帯に覆われている。情けなさに落ち込むわたしに詩音様は軒下でお茶を淹れ、休憩を促してくれた。
「翠様、最近しっかり眠られておられませんね」
「い、いえ、そんなことは……」
「あら、わたくしの目は誤魔化せませんよ?」
す、と白い指先がわたしの目の下をなぞる。
もしかしてそんなにひどい顔をしていただろうか。
自分のことでいっぱいいっぱいになってそんなことにも気付かないなんて。恥ずかしさと申し訳なさで消えてしまいたくなる。
「申し訳ありません、大変見苦しいものを……」
「何をおっしゃるんですか。翠様はいつでもお可愛らしいです」
勧めてくれるお皿の上にはおまんじゅうが2つ。
淡稀様がお土産に下さったものだ。
一口かじるとあんこの甘さがじんわりと舌に広がり、自然と肩の力が抜けていく。
「何かお悩みですか?」
「あ……」
「翠様が言いたくないのなら無理には聞きません。ですが、誰かに話すだけで心が軽くなることもあります」
「…………」
そう、なのだろうか。聞いてもらうことで何かが変わることもあるのだろうか。
左手の包帯に目を落とす。このまま悩み続けてもまた失敗を繰り返してしまうかもしれない。迷惑はかけたくない。
寝不足と詩音様の眼差しにも後押しされ、いつもの自分なら決して口にしなかっただろう悩みを吐き出した。
……のだが。
「言われてみれば最近そういった姿を見かけませんでしたね」
「……」
「わずかな接触すらないのは考えてしまいますよね」
「………」
「淡稀様も翠様のお心を乱すようなことをして、まったく困った方です」
は、恥ずかしい……!
頭の中でずっと悩んでいたことだったけれども、詩音様の口から聞くとなんとも恥ずかしくて居たたまれない気持ちが沸騰してくる。
どうして相談しようなんて思い切ってしまったのか。少し前の自分を平手打ちしたい。
「翠様は寂しいんですね」
「え…」
「今まで当たり前にあった触れ合いが無くなって、戸惑って悩んでいるのは……それを寂しいと感じているからではないですか?」
浮かぶのは淡稀様の笑顔と名を呼んでくれる声。
それから、わたしの頭を優しく撫でてくれる大きな手。
あの感触が心地よかった。たまらなく嬉しかった。だから不意にそれを消えたとき、不安で仕方なくて。
…そうか、わたしはーー
「…………さびしかった、んですね……」
声をかけて頂いても、贈り物をいただいても、淡稀様が遠くに感じられて。その距離がどうしようもなく心細くて。
知らなかった。寂しいって、こんな気持ちなんだ。
「また頭を撫でてもらいたいですか?」
「……っ」
言葉に詰まってとっさに首を振ろうとすると、そっと手を握られた。
顔を上げると詩音様と目が合う。優しいけれど真っ直ぐな意思を宿す眼差し。怖がらないで、と手の温かさが伝えてくれる。
唇の開閉を繰り返しても、何一つ音にはならない。震える口を結んで、固く目をつぶって。耳の奥で速い鼓動を聞きながら縦に一度だけ、首を振る。
詩音様が柔らかく笑ったのを、空気を通して感じた。
「翠様、一緒に作戦を立てましょう」
「さくせん…」
「はい。主が何をお考えかはわたくしには分かりませんが、きっと解決策はあります」
「ですが、わたしが淡稀様を怒らせてしまったのかもしれなくて……」
「有り得ませんわ」
きっぱりと告げられた言葉に、目をぱちぱちさせる。
「その証拠に、淡稀様は以前よりも邸にいらっしゃる時間が増えているではないですか。仮に、万が一にでも翠様に何か気に食わないことがあるとするのなら、共に過ごそうとはしません。その辺は存外分かりやすい方です」
「そう、でしょうか……」
「そこはわたくしが保障致します!」
力強い返答にほっと胸を撫で下ろす。詩音様がそこまでおっしゃってくれるなら、おそらく大丈夫なのだろう。ずいぶんと心が軽くなった気がした。
わたしなんかのちっぽけな悩みを聞いて、一緒に考えてくれる。当たり前のように隣にいてくれる存在にこんなにも救われている。
「本当は淡稀様を縛り上げて理由を吐かせる方が手っ取り早い気もしますが…」
「し、詩音様」
「翠様が困らせるのは本末転倒なのでそれは最後の手段といたしましょう」
「…ふふ」
わたしが重く捉えすぎないようにわざと軽い口調を織り交ぜてくれる詩音様に自然と笑みがもれる。
聞いてもらえて嬉しい。話して、よかった。




