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羊の島  作者: 羽田矢国
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 逃げることは予想していた。

 東京に連れてきたときから。

 どこかで期待もしていた。

 七課の課長という立場上、捜索の指揮を取らなくてはならないが、捕まってほしくはなかった。管理責任を問われるのはわかっている。いっそ免職でも構わない。

 もう顔も見たくない。

 茶色の瞳が、自分に謝罪を要求する。

 甘い声が、懺悔を迫る。

 戻ってくるな。

 ・・・化け物。



 まだ若い女将は、高柳の秘書と同じ匂いがした。

「いらっしゃい。島田さんは奥のお座敷でお待ちですよ」

 どこをどう走ったのかよく分からなかったが、着いた先は数寄屋造りの料亭だった。水の撒かれた庭を抜け、玄関を入ると、花色の和服を淑やかに着こなした美人が出迎えたので、佐藤は少々面食らった。

 車中で、島田の家ももしかしたら会社の者に見張られているかもしれないから、知り合いのところで待ち合わせている、と片瀬が言ってはいたが、長髪に、カジュアルすぎる服装の片瀬とこの店は、どうも結びつかなかった。

「今日は無理言うてしもて」

「コーさんの頼みですもの。どうせこの時間はお座敷空いてるから気にしないで」

 女将は片瀬の手を握り、指を弄びながら囁いた。

 その仕種を見て、なんとなく佐藤にも「知り合い」の意味するところが分かった。


「コーさん、って」

「おん?・・俺、名前、弘次郎ゆうねん。他に適当な場所が見付からんでなあ」

 庭園とガラス戸で仕切られた檜の廊下を歩きながら、片瀬は決まり悪そうに言った。


 廊下の突き当たり、8畳ほどの座敷に、島田は居心地悪そうに座っていた。

「連れて来たで」

「・・・島田さん」

 片瀬の後ろから顔を出した佐藤の姿を認めるなり、島田は膝立ちになって身を乗り出した。

「佐藤さん。・・・いったいどうしたんですか。昨日も・・・」

「申し訳ありません。・・今からお話ししますから・・・」

「ま、積もる話は二人でせえや」

 廊下に立ちすくむ佐藤の背中を叩いて部屋の中へ押し込むと、片瀬は障子を閉めてどこかへ行ってしまった。

「昨夜は、社の者に捕まってしまって・・・」

「どうして」

「あなたに会おうとしたからです」

「俺に・・・」

「僕が喋ると思ったんでしょう」

「何を」

「全部。全部です」

 佐藤が何を言おうとしているのか島田には分からなかった。聞きたいのは昨日会えなかった理由。そしていまここにいる理由。自分の会社から逃げて。


 あなたは正しかったんです、と佐藤は言った。

 眼鏡はかけていなかったが、そうすると瞳の色が際立って見えた。

「滝沢製薬が融資を受けて最終的な開発をしようとしたのは、魚島にあったんです」

 二人の間には、改めて女将が運んできた冷茶と和菓子が置かれている。

「羊たちと」

 佐藤は冷茶を一口飲んで、続けた。

「・・・僕です」


「僕と、魚島の羊たちはある病気に感染しています」

 病気、と聞いて島田は少し身構えた。

「滅多に移りません。感染力は極めて低いんです。・・・治療法はありませんが」

 気を悪くした様子もなく佐藤は淡々と言った。

「戦前、滝沢製薬の研究員が、福井県の若狭沖で採集した大型の深海魚に、特異な性質を持ったウィルスがいることを発見しました。感染力は言ったとおり弱いものの、酸には強く、経口感染する可能性があります。そしてウィルスの最大の特徴は、宿主の延命です」

「延命・・・?」

「魚島の羊たちの中には寿命の三倍生きているものもいます。・・・滝沢製薬は、これを人間に応用することを考え、戦後になって、若狭湾沿岸の小浜に専門の研究所を構えました」

 黙って話を聞いている島田の顔に、不信の色が浮かんでいた。

「・・信じてくださらなくて結構です」

「いや、そうじゃなくて、・・何て言うかあんまり突飛すぎて・・・」

「そうでしょうね。僕もそう思います」

 佐藤は話の方向を変えた。

「若狭小浜、と聞いて何か思い当たるものはありませんか」

「・・さあ」

「若狭には、人魚の伝説があるんです」

「・・・八百比久尼・・か」

「よくご存じで。人魚を食べて不老長寿を手にした話です」

「それもそのウィルスの仕業だと?」

「・・わかりません。ただ、始めの宿主である深海魚は、日本中の海に生息しているんですが、ウィルスを持っているのは若狭湾のものだけなんです。最近になって三陸沖でもウィルスを持った例が発見されましたが・・何かの拍子で上がった大型の深海魚を、人魚だと思って食べた人達がいたとしたら?」

「魚島にも尼さんの伝説があったな」

 尼僧が村を追われた訳は、何十年経っても年を取らなかったから。

 彼女を島に幽閉した村人の罪悪感が、年月の中で徐々に彼女を化け物に仕立て上げていった。

 船を沈める魔物として。

 だから閉じ込めても構わない・・・。

 沖を行く船を、彼女はどんな思いで眺めていただろう。彼女を拒絶した世界の住人を。

 彼岸のようなあの島で。


「狂犬病のウイルスの中には、宿主を仮死状態にした後、再び蘇生させるものがいます。感染によって弱った宿主の体を、なるべく長く使うためではないかと言われていますが、この性質がより強烈になったものではないかと・・・ちょっと、いいですか」

 佐藤は、手を伸ばして島田の手に触れた。佐藤と島田が接触したのははじめてだった。

 空調の温度よりなお低い、ぞっとする冷たさが島田の肌を撫でた。

「・・・体温は一五度ぐらいです。どうして生きていられるのか分からないそうです」

「・・・滝沢は君に人体実験を・・・」

「僕は違います。・・・ウイルスの感染者を探していた滝沢製薬に捕まったというか・・・。それで魚島へ送られたんです。人目につかないようにでしょうね」

 佐藤は、「僕は違う」と言った。違わない者もいるのだ。

「四人、いました」

 目を伏せて、低く囁く。涙を堪えているような声。

「全員、滝沢の研究者で・・、自分から感染していったんです。でも、耐えられずに死んでいきました。二日前に最後の一人が自殺しました。首を吊って・・・」

「・・・死んだ・・・」

「家族も友人もみんな老いていくのに、自分だけが若いまま取り残されるんです。親しいものが全部死んでしまっても、自分だけ生きていかなくてはいけないんです。・・・わかりますか。・・・それなのに周囲はそんな有様を見て「羨ましい」と言うんです」

 佐藤は喉を鳴らして笑った。

「なにが羨ましいもんですか。・・化け物じゃないですか。死人みたいに冷たい体で、他人の二倍も三倍も生きていくことのどこが・・・!」

 言うべき言葉が見つからず、島田が黙ったままでいると、佐藤はすぐに冷静さを取り戻した。

「滝沢製薬の人体実験、被験者の名前は全員覚えています。・・・便宜上、仮名で呼ばれていましたが、本名も知っています。あなたが望むならお教えします」

 佐藤の話が本当なら、超スクープということになる。

「・・・ウィルスの性質は、今のところ羊でしか証明されていませんが。感染者はみんな死んでしまったし、それもせいぜい七十年生きた程度です」

「なにが望みなんですか」

「は?」

「佐藤さんは、なにがしたいんですか。実験の話が本当なら、滝沢製薬はただじゃ済まないんですよ」

「島から・・・」

「え・・・?」

「・・・あの羊の島から出たいと思うようになったんです。二週間前、あなたに会ってから」

 島田はガラスの茶碗を取り上げて口に運んだが、もう中身はぬるくなっていた。

「あそこに送られてから、滝沢の者としか会うことはできませんでした。僕や、被験体のことは開発部の七課という部署が管轄していましたが、そこに所属する者とたまに口を利くくらいで満足していたんです。人目を気にせず暮らせるんですから。・・・でも、社の人間は僕たちが普通でないことを知っています。振る舞いや言動にそれが出るんです。・・・何も知らないあなたと話したとき、僕は、あなたのように僕のことを知らない人達の中で暮らしたいと思ったんです。滝沢製薬が研究を進めていくかぎり、僕は島から出られない。それなら自分で終わりにしてやると思ったんです。密室の中で行われてきたことを陽の下に曝してやると」

 白い頬がわずかに紅潮していた。

「・・・不老不死が幸せなことだとは僕は思いません。滝沢が何をしようが知ったことじゃない。ただ、研究材料としか扱ってもらえないのが不満だったんです」

「じゃあ、扱いが違っていたら・・・?」

「島を出たいと思うことはなかったでしょうね。・・・五十年近く、空と、海と、羊と、暮らしてきて、それはそれで楽しかったですから」

 五十年。三陸の漁師が魚島の桟橋で見たのは佐藤本人だったのだ。その父親が目撃したのもまた・・・。

「こんなに長く一カ所で暮らしたのははじめてです。二度とないかもしれませんね。それだけは残念です」

「・・・何年」

「はい?」

「何年、生きてきたんですか」

 佐藤は首をかしげて少し考える仕種を見せた。

「・・・忘れました」

 それが本当らしかった。

「話を聞いてもらえて気が済みました。記事に書くなり何なりご自由に。・・・もちろん信じてもらえなくても結構です」

 座卓に手をついて、立ち上がる。

「・・・どこへ行くんです」

「さあ。・・・わかりません。どこへ行くか・・・」


 佐藤は障子に手を掛け、それから何か思い出したように島田のほうを振り返って、柔らかく微笑んだ。桜の花が綻ぶように。

「・・・さよなら」



 「何やあ。佐藤さん帰ってもうたの」

「帰ったと言うか・・・」

 佐藤がいなくなってしばらく経ってから、片瀬が部屋の障子を開けて中を覗き込んだ。座敷には放心したように座り込む島田が一人。

「そんで、面白い話、聞けたん」

「・・・んー」

「元気ないなあ。どないしたん」

「・・・そのうち話すよ。・・・とりあえず原稿上げなきゃな」

「せやな。・・・ここの女将が今日の晩飯おごってくれるて。何やわからんけど元気出しや。あ・・・!」

「どうした」

「電話代返してもろてない」

「・・・馬鹿・・・」




 二・三日後、事務所に届いた郵便物のなかに、島田宛ての白い封筒があった。 差出人のないその中身は、滝沢製薬の研究員の名前がいくつか書かれた便箋一枚。

 間もなく、滝沢製薬と関連機関を巻き込んだ一大スキャンダルが世間を賑わす。島田と片瀬が、研究者のリストをTV局や大手出版社に売り込んだ結果だ。自分達で調査に回るより、効率がいい、という島田の意見による。




 次の夏も、島田はあの島へ行くつもりだ。

 主人のいなくなった緑の島へ。

 煉瓦の道を辿っていけば。


 きっと羊だけが待っている。






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