第一章 1,解決済みの事件
『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。
完結まで、毎日3話ずつ投稿する予定です。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
第一章 解決済みの事件
五年前、一つの殺人事件があった。
父親が、自分の子供を殺した事件だった。
子供が学校から帰ってこない。
そう届け出たのは、父親本人だった。
警察は当初、事故や事件に巻き込まれた可能性を考え、通学路や近隣地域を捜索した。しかし捜査が進むにつれ、父親の説明にはいくつかの食い違いが見つかった。
そして数日後。
市街地から離れた山中で、子供の遺体が発見された。
捜査線上に浮かんだのは父親だった。
事情聴取を重ねた末、父親は犯行を認めた。
子供との関係は以前から悪化していた。
事件当日にも口論があり、感情を抑えられなくなった。
殺害後、遺体を車で運び、人目につかない山中に遺棄した。
そして何も知らない父親を装って、子供がいなくなったと届け出た。
やがて父親は、殺人と死体遺棄の罪で起訴された。
裁判でも、犯行そのものが大きく争われることはなかった。
父親は罪を認めた。
判決が下され、刑が確定した。
事件は終わった。
少なくとも、世間にとっては。
ニュースから男の名前が消え、事件を覚えている人も少なくなったころ、服役中だった男が刑務所内で死亡した。
自ら命を絶ったと発表された。
それも短いニュースになっただけだった。
五年前の事件。
すでに刑の確定した殺人犯。
そして、その本人ももうこの世にはいない。
誰が考えても、終わった事件だった。
---
午後のAYA探偵事務所は静かだった。
窓際の机でAYAがノートパソコンを眺めている。
その向かいでは、あかねが湯飲みを両手で包んでいた。
「AYAさん」
「なに?」
「暇ですね」
「平和でいいじゃない」
「探偵事務所としては問題なのでは?」
「事件がない方がいいでしょ」
「それはそうなんですけど……」
あかねが湯飲みを傾けた、そのときだった。
控えめなノックの音がした。
二人が同時に扉を見る。
「どうぞ」
AYAが声をかけると、ゆっくりと扉が開いた。
入ってきたのは、一人の女性だった。
二十代半ばくらいだろうか。
肩に掛けたバッグを両手で握り、少し緊張した様子で立っている。
「あの……こちら、AYA探偵事務所で間違いないでしょうか」
「はい」
AYAはノートパソコンを閉じた。
「ご相談ですか?」
女性はすぐには答えなかった。
何かを決心するように一度息を吸ってから、小さくうなずいた。
「調べてほしい人がいるんです」
「どうぞ、座ってください」
AYAが椅子を勧める。
あかねがお茶を用意して、女性の前に置いた。
「ありがとうございます」
女性は椅子に座ったものの、バッグから手を離そうとはしなかった。
AYAは机の上にノートを開いた。
「まず、お名前を伺っても?」
「水瀬美咲です」
「水瀬美咲さん」
AYAは名前を書き留めた。
「それで、調べてほしい人というのは?」
美咲はバッグから一枚の紙を取り出した。
折り畳まれた紙だった。
何度も開いたのだろう。折り目が白くなっている。
机の上に置かれたそれを、AYAが開く。
古い新聞記事のコピーだった。
見出しを読んだAYAの表情が変わった。
五年前の、あの事件だった。
父親による子供の殺害。
死体遺棄。
逮捕。
起訴。
「この事件……」
あかねも横から記事を見る。
「あ、覚えてます。確か、お父さんが自分の子供を……」
美咲がうなずいた。
「この人について、調べてほしいんです」
AYAは記事から顔を上げた。
「犯人について、ですか?」
「はい」
「でも、この事件は……」
AYAは言葉を選んだ。
「犯人は逮捕されています。本人も犯行を認めて、裁判も終わっていますよね」
「知っています」
「最近、刑務所で亡くなったことも?」
美咲は少し間を置いてから答えた。
「それも知っています」
AYAは美咲を見る。
「では、何を調べるんです?」
「……」
「冤罪だった可能性を調べてほしい、ということですか?」
美咲はすぐに首を横に振った。
「違います」
その答えは、AYAが予想していたよりもはっきりしていた。
「あの人がやったんだと思います」
あかねが美咲を見る。
「裁判の記事も読みました。判決についても調べました。私は法律には詳しくありません。でも、あの人が犯人ではないなんて言うつもりはありません」
「それなら……」
美咲は机の上の記事へ視線を落とした。
「私、この人に会ったことがあるんです」
AYAの手が止まった。
「いつです?」
「ずっと昔です。私が中学生のころ」
美咲はゆっくりと話し始めた。
夏だった。
友人たちと川へ遊びに行った。
前日に雨が降っていたが、川は一見すると穏やかだった。
少し浅いところへ入っただけだった。
そのつもりだった。
しかし、足を取られた。
川底が急に深くなっていた。
流れに身体を持っていかれた。
泳ごうとしても、水を飲むばかりだった。
岸から友人たちの叫ぶ声が聞こえた。
それから先の記憶は、途切れ途切れだった。
「気がついたとき、河原に寝ていました」
美咲は自分の手を見つめた。
「知らない男の人が、ずぶ濡れになって私の横にいました」
偶然近くを通りかかった男だった。
川で溺れている少女に気づき、飛び込んだ。
流される少女に追いつき、岸まで引き戻した。
救急車が到着するまで、そばにいた。
名前も聞かなかった。
連絡先も知らなかった。
美咲に残っていたのは、助けてくれた男の顔と、周囲の大人が呼んでいた名字だけだった。
「ずっと覚えていました」
美咲が言った。
「いつか、ちゃんとお礼を言いたいと思っていました」
AYAは黙って聞いている。
「でも、探し方も分からなくて……そのまま何年も経ちました」
そして五年前。
テレビから、その名字が聞こえた。
画面に映った男の顔を見た。
忘れるはずがなかった。
「最初は、同じ人だと思いたくありませんでした」
美咲は小さく笑った。
だが、その笑顔には何の明るさもなかった。
「でも、本人でした」
自分を助けた男が、自分の子供を殺した。
遺体を捨てた。
そして逮捕された。
「裁判が始まってからも、ずっと記事を追っていました」
美咲は言った。
「何か間違いがあるんじゃないかと思った時期もあります。でも……ありませんでした」
犯行を認めた。
証拠もあった。
判決も出た。
「だから、いつか本人に聞いてみたいと思っていました」
AYAが尋ねる。
「手紙を?」
「何度も書こうとしました」
「送らなかった?」
美咲はうなずいた。
「何を書けばいいのか分からなかったんです」
――あのとき助けてくれて、ありがとうございました。
そんな手紙を殺人犯に送っていいのか。
――どうして自分の子供を殺したんですか。
命を救ってもらった自分に、そんなことを尋ねる資格があるのか。
迷っているうちに年月が過ぎた。
そして数週間前。
男が刑務所内で死亡したという記事を見つけた。
「もう、聞けなくなりました」
部屋が静かになった。
時計の秒針だけが聞こえる。
AYAは新聞記事をもう一度見た。
そこに写っているのは、殺人事件の犯人だった。
子供を殺し、その遺体を遺棄した男。
そしてAYAの目の前には、その男に命を救われた水瀬美咲が座っている。
「それで、私のところへ?」
美咲はうなずいた。
AYAは少し考えた。
「水瀬さんは、この人が本当はいい人だったという証拠を探してほしいんですか?」
美咲は首を横に振った。
「違います」
「では、無罪だった可能性を?」
「それも違います」
「なら――」
AYAは美咲をまっすぐ見た。
「何を知りたいんです?」
美咲はしばらく答えなかった。
やがて、バッグを握っていた手を離した。
「私を助けてくれたあの日から、あの人が自分の子供を殺した日まで」
AYAの目がわずかに細くなる。
「何があったのか知りたいんです」
「……」
「警察は、誰が殺したのかを調べました。裁判では、何をしたのかも明らかになりました」
美咲は新聞記事を見る。
「でも、それを何度読んでも分からないんです」
そしてAYAを見た。
「どうして、私を助けてくれた人が――」
声が少しだけ震えた。
「人を殺すところまで行ってしまったんでしょう」
あかねは何も言わなかった。
AYAも、すぐには答えなかった。
やがてAYAは、閉じていたノートパソコンをもう一度開いた。
「つまり――」
指がキーボードの上に置かれる。
「事件を解決してほしいわけではないんですね」
「はい」
「犯人も分かっている」
「はい」
「犯行も分かっている」
「はい」
「それでも、分からないことがある」
美咲はうなずいた。
AYAは五年前の事件の記事を見た。
そして静かに言った。
「分かりました。お引き受けします」
美咲が少し驚いたように顔を上げた。
「本当に?」
「ただし、一つだけ」
AYAは言った。
「本人はもういません。人の心は記録だけで完全に再現できるものではありません。だから、本当の意味ですべてが分かるとは約束できません」
「……はい」
「それでも、残っているものから辿れるところまでは辿ります」
美咲は深く頭を下げた。
「お願いします」
AYAは新しいファイルを開いた。
真っ白な画面に、一行だけ入力する。
**――なぜ、この人は犯人になったのか。**
「まず、事件そのものから全部やり直してみます」
「事件は、もう解決しているんですよね?」
「ええ」
AYAは記事を見ながら答えた。
「だから、犯人を探す必要はありません」
そして、美咲を見る。
「その人が犯人になるまでを、最初から調べます」
美咲は小さくうなずいた。
AYAはノートパソコンへ視線を戻した。
「結果が出たら、お知らせします」
五年前に終わったはずの事件。
犯人はすでに死んでいる。
新しい証拠を探すわけでもない。
真犯人を見つけるわけでもない。
AYAがこれから調べるのは、一人の人間が、なぜそこまで行ってしまったのか。
事件ではなく、その経路だった。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。
続きは明日、3話投稿予定です。
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