第三十二話 エピローグ ── 公爵領の朝
春が、来た。
グリュンヴァルト公爵領の北の丘の屋敷では、朝の光が、若葉の薄い緑を、金色に、染めていた。窓の外では、樫の森が、芽吹きの息吹を上げ、鳥たちが、互いを呼び合う声で、空を満たしていた。
私は、産婆の手の中で、自分の子の、最初の泣き声を、聞いた。
「奥方様、お元気な男のお子様でございます」
ヘルガが、優しく、私に、子を、預けた。
私の腕の中で、小さな、温かい命が、力強く、息をしていた。淡い銀灰色の髪。閉じた瞳。けれど、私の指を、しっかりと、握り締めて、離さない、小さな手。
「アルフレート様」
「シャル」
夫が、私の傍らで、跪いた。
彼の瞳には、涙が、溢れていた。
「我が子だ」
「はい」
私は、頷いた。
「私たちの、子でございます」
アルフレート様は、子の頭に、そっと、唇を、当てた。
「ルカン」
彼は、囁いた。
「ルカン・フォン・グリュンヴァルト。──私たちの、長男だ」
その朝、グリュンヴァルト公爵邸では、皆が、私たちの新しい家族を、祝ってくれた。
クラリス様が、私の枕元で、嬉しそうに、頬を、紅潮させた。
「お義姉様、ルカンは、本当に、可愛らしい! 私、たくさん、お遊びするわ!」
「クラリス、ありがとう」
私は、笑った。
ヴィルヘルム公爵が、深く頷きながら、孫の頬を、撫でた。
「我が孫よ、よくぞ、生まれてきてくれた」
公爵夫人は、両手で、口を、覆って、泣いていた。
父アーデンフェルト侯爵──いえ、もはや侯爵ではない、テオドール卿──も、私の枕元に、立って、深く、頭を、下げた。
「シャル、エレオノーラの孫だ。──エレオノーラも、お喜びだろう」
「お父様、ありがとうございます」
私は、父の手を、握った。
応接間の隅では、母の旧臣たちが、皆、一緒に、目を、潤ませていた。
クルツ、アンナ、ヘルガ、ベアトリス、ロザンナ、ハインツ。
そして、入口のところで、マリエッタ、ヤン、バルト卿が、それぞれの礼装で、深く、頭を下げていた。
──皆さん。
私は、心の中で、彼らに、感謝を、捧げた。
皆さんがいなければ、私は、ここまで、来られませんでした。
そして、その夜。
王宮から、一通の、簡素な書状が、届いた。差出人は、エミールではなく、彼のかつての学友、トビアス・カーンだった。
「シャルロット公爵夫人
ご出産、心より、お祝い申し上げます。
心苦しいご報告を、お許しください。エミール・ラントシュタイン殿が、病に、倒れられました。
数ヶ月前より、原因不明の熱と、発疹を、患っておられましたが、先日、王立医学院の診断により、緋斑病であることが、確認されました。──発症してしまった以上、もう、手の施しようが、ないとのことでございます。
婚約者であられたヴィオラ嬢との、ご縁談は、彼自身の申し出により、取り止めと、なりました。「私は、もう、誰かの、これからの人生に、加わる資格が、ない」と、彼は、静かに、おっしゃっておられました。
シャルロット様への、伝言を、預かっております。
『私は、前世という言葉の、意味を知らない。けれど、あなたが、私に、多くのものを、与え続け、私が、その多くを、当然のように、受け取ってきたことだけは、分かる気が、いたします。──私は、私の人生を、誰かに、支えられてばかりだった。最後まで、自分の足で、立つことは、できなかったようです。シャルロット様、どうか、お幸せに』
──トビアス・カーン」
私は、手紙を、静かに、読み終えた。
「アルフレート様」
「うん?」
「エミール様は……もう、お助けできない、病に、かかられたそうです」
アルフレート様は、私の手を、そっと、握った。
「シャル、君が、悲しむことでは、ない」
「はい」
私は、頷いた。
けれど、胸の奥に、何かが、静かに、沈んでいくのを、感じた。
──エミール様。
私は、心の中で、彼の名を、呼んだ。
あなたは、最後まで、自分の力で、立つ方法を、学ばれなかった。
それでも、最後の最後に、初めて、それに、ご自分で、気づかれたのですね。
私は、それを、あなたの、せめてもの、救いだと、思うことにいたします。
私は、手紙を、暖炉の火に、そっと、かざした。
けれど、燃やしはしなかった。
ただ、しばらく、炎の揺らめきを、見つめていた。
数日後、グリュンヴァルト公爵領の領民たちが、ルカンの誕生を祝って、屋敷の門前に、白い花を、たくさん、捧げに来てくれた。
「公爵夫人様、おめでとうございます」
「慈愛の聖女様、お祝いを」
「ルカン様の、輝かしいご将来を、お祈り申し上げます」
私は、屋敷の門前に立って、領民たち一人ひとりに、深く、頭を下げた。
──私は、本当に、幸せでした。
前世では、王宮の祝宴で、義姉に毒杯を飲まされて、命を、落としました。
二度目の人生では、私は、自分の手で、自分の人生を、選びました。アルフレート様という、生涯の伴侶を、選びました。私は、母の旧臣たちと共に、新しい家族を、築きました。
私は、未来知識で、不幸になるはずだった人々を、救いました。クラリスを、流行り病から救いました。マリエッタを、無実の罪から救いました。ヤンを、戦地での死から救いました。トビアスを、汚職と絶望から救いました。バルト卿を、偽造の文書から救いました。そして、孤児院の子供たちを、飢饉から救いました。
その人々が、最後に、私を、お母様の真実への扉を、開く力に、なってくれました。
そして、私は、お母様の名誉を、王国に、お返しすることが、できました。
その夜、アルフレート様が、私とルカンの、寝台の傍らに、座った。
「シャル」
「はい」
「私たちは、本当の意味で、新しい人生を、始めたな」
「はい、アルフレート様」
私は、ルカンの小さな額に、そっと、口づけを、落とした。
「お母様、私は、お母様の娘として、生きてまいります」
「そして、ルカンを、お母様のような、優しく、強い子に、育ててまいります」
ルカンが、寝息を立てて、私の腕の中で、すやすやと、眠っていた。
窓の外では、グリュンヴァルト公爵領の、樫の森が、春の風に、優しく、揺れていた。
私の人生の、本当の続きが、始まっていた。
そして、その続きは、私の手で、私の選択で、私の愛する人々と共に、紡がれていく、新しい物語であった。
──終わり。
* * *
「親愛なるお母様
ルカン・フォン・グリュンヴァルトが、本日、無事に、生まれてまいりました。
私は、お母様の銀の髪飾りを、ルカンの寝台の脇に、置きました。お母様の慈しみが、ルカンを、ずっと、お守りくださると、信じております。
私は、お母様の娘として、これからも、生きてまいります。私の選択を、お母様が、お見守りくださっていること、私は、毎日、感じております。
お母様、ありがとうございました。
そして、お父様も、私たちのお側で、ご健勝にお過ごしでございます。お父様の最後の人生は、ルカンと共に、新しい笑顔の中で、紡がれてまいります。
お母様、私は、幸せでございます。
──お母様の娘 シャルロット」




