第二十九話 祝賀の夜・前世の再現
王宮の祝賀広場には、シャンデリアの光が降り注いでいた。
七つの灯火を抱いた水晶の枝が、天井のフレスコ画を黄金に染めて、揺れている。床には磨き上げられた大理石の市松模様。その上に、貴婦人たちのドレスが花のように咲き、紳士たちの礼装が黒い影絵のように立ち並ぶ。楽団の弦の音が、ざわめきの底を、絹のように撫でていた。
──前世のあの夜と、まったく、同じ光景。
私は、深く、息を吸った。
そして、夫アルフレート様の手を取り、王宮の中央へ、進み出た。
王陛下、王太后陛下、王太子殿下が、玉座に並んでおられた。私とアルフレート様の隣には、ヴィルヘルム公爵と、父アーデンフェルト侯爵が、立っていた。
「グリュンヴァルト公爵子息、アルフレート卿」
王陛下のお声が、広場に響いた。
「汝、近衛騎士団二百を率い、ベリヴァルト残党を、雪原の谷間にて、撃退。我が国境に、二度目の平和を、もたらした。──汝の功績を、王国の歴史に、永遠に刻む」
民衆の歓声が、広場を、揺るがした。
アルフレート様が、王陛下の前で、片膝をついた。
「畏れ多きお言葉、ありがたく拝受いたします」
そして、私のほうへ、視線を向けた。
「そして、シャルロット公爵夫人」
王陛下のお声が、私を、お呼びになった。
私は、深く、礼をした。
「あなたの集めた敵の情報と、あなたの戦略の助言が、近衛騎士団の勝利に、極めて、深く、貢献した。あなたにも、王立紫薔薇章の二度目の授与を、申し付ける」
民衆の歓声が、また、広場を、揺るがした。
私は、王陛下の前で、深く、礼をした。
「畏れ多きお言葉、ありがたく」
王陛下が、頷かれた。
「祝杯を、運べ」
王宮の侍従たちが、銀の盆に乗せた葡萄酒の杯を、王陛下、王太后陛下、王太子殿下、そして、私たち夫婦と父祖たちに、運んでくる。
その時──。
私の視線の隅で、義姉イザベラの姿が、貴族の列の中に、揺らいだ。
姉は、深紅のドレスを纏って、私のほうへ、視線を、注いでいた。
その傍らに、継母レーゲンシアが、紫色のドレスで立っていた。継母も、私のほうへ、瞳を、向けていた。
──二人とも、最後の凶行の瞬間を、待っている。
私は、扇を翳して、姉と継母に、ほんの少し、微笑んでみせた。
そして、視線を、王太后陛下のほうへ、向けた。
王太后陛下のお傍に控えていた、若い侍女エマ・カーティスが、紅玉色の祝杯を、銀の盆に乗せて、私のほうへ、ゆっくりと、近づいてきた。
──来た。
私は、深く、息を、吸った。
エマ・カーティスは、私の前で、片膝をついた。
「奥方様。王太后陛下より、特別の祝杯を、賜りました」
「ありがとうございます」
私は、紅玉色の祝杯を、受け取った。
紅玉色の液体が、シャンデリアの光を反射して、毒々しいほど、美しく、輝いていた。
──まさに、前世の、あの夜の杯。
私は、それを、両手で、捧げ持った。
そして、王陛下、王太后陛下に向かって、深く、礼をした。
「陛下、王太后陛下、ありがたく拝受いたします」
私は、口元を、ほんの少し、緩めた。
そして、私は、その杯に、口を、つけなかった。
代わりに、その杯を、王陛下に、向けた。
「陛下、僭越ながら、本日のこの祝賀の場で、ひとつ、ご奏上したき儀が、ございます」
広場の楽団が、止んだ。
貴族たちの視線が、私に、集中した。
王陛下が、深く頷かれた。
「シャルロット公爵夫人、申せ」
「ありがとうございます」
私は、ゆっくりと、王陛下のほうへ、進み出た。
「この紅玉色の祝杯」
私は、杯を、高く、掲げた。
「王太后陛下より、賜ったとして、私の前に、運ばれました。けれど、この杯には、毒物が、混入しております」
広場が、しんと、静まり返った。
「マリエッタ・ロスバーン、前へ」
私は、声を、高く、上げた。
王太后陛下のお傍から、マリエッタが、進み出てきた。
「奥方様」
「マリエッタ、王太后陛下が、本日、私への祝杯を、お命じになられたか、ご証言を」
「いいえ、奥方様」
マリエッタは、深く、頭を下げた。
「王太后陛下は、本日、奥方様への、特別の祝杯を、ご準備なさってはおりません。私は、王太后陛下の侍女頭として、王太后陛下のすべての御命を、本日、目撃しております」
「では、エマ・カーティスは、誰の指示で、この紅玉色の祝杯を、運んできたのでしょうか」
「奥方様」
ヴェルナー卿が、進み出てきた。
「エマ・カーティスは、過去三日間、王宮の文官部の内偵下にございました。彼女が、誰の指示で、本日の祝杯を運ぶよう、命じられたか、すべての記録が、ございます」
ヴェルナー卿は、革張りの書類を、王陛下御自らに、お渡しした。
王陛下が、書類を、深く、お読みになった。
そして、御自らの瞳を、上げ、貴族の列を、見渡された。
「アーデンフェルト侯爵夫人、レーゲンシア・キール」
王陛下のお声が、雷のように、広場を、揺るがした。
継母レーゲンシアの顔から、瞬時に、血の気が、引いた。
「貴殿は、本日、王宮の侍女エマ・カーティスを、買収し、シャルロット公爵夫人への、毒杯を、運ばせた。──申し開きを、許す」
継母レーゲンシアは、震える指で、扇を、握り締めた。
「陛下、それは……それは、誤解でございます」
「誤解、と」
王陛下のお声が、低くなった。
「申し上げたきことは、それだけか」
「陛下、私は、決して、奥方様、シャルロット様への、毒杯など……」
「ヤン・エルバッハ、前へ」
私は、声を、上げた。
ヤンが、近衛騎士団の正装で、進み出てきた。
「奥方様」
「ヤン、ベリヴァルト残党、グスタフ・フォン・ホルディンガー子爵を捕縛した際、彼の所持していた書状の中に、奇妙なものがございました。それを、王陛下御自らに、ご報告ください」
「畏まりました、奥方様」
ヤンは、深く頷き、王陛下御自らに、書状を、お渡しした。
「これは、グスタフ・フォン・ホルディンガー子爵の所持していた書状でございます。差出人は、アーデンフェルト侯爵家、継母レーゲンシア・キール夫人。内容は、ベリヴァルト残党への、戦地での近衛騎士団の動きの、極秘情報。──奥方様の戦略を、敵側に流すことで、我が騎士団の勝利を、妨げる目的でございました」
王陛下のお顔が、瞬時に、青く凍られた。
「内通か」
「はい、陛下」
ヤンは、深く頭を下げた。
「奥方様の集めた情報を、お継母様が、密かに敵側へ流していたことが、書状の筆跡と、書状を運んだ商人の証言から、確認されております」
王陛下のお声が、低く、響かれた。
「アーデンフェルト侯爵夫人、レーゲンシア・キール。あなたは、王国の戦時において、敵側に内通し、王国の勝利を、妨げようとした。これは、極めて重い、反逆の罪である」
継母レーゲンシアの目が、一瞬、獣のように、鋭く、光った。
彼女は、身を翻し、傍らの侍従が捧げ持つ盆へ、手を、伸ばした。
「下がりなさい!」
近衛騎士の一人が、素早く、その手首を、掴んだ。盆が傾き、葡萄酒の杯が、大理石の床に、落ちて、砕けた。赤い液体が、血だまりのように、床に、広がっていく。
広場が、どよめいた。
継母レーゲンシアは、両膝を、ついた。
そして、彼女は、瞳を上げて、義姉イザベラを、見た。
「イザベラ、お前が……」
義姉が、深紅のドレスの胸の前で、両手を、握り締めた。
「お母様、私は……」
「お姉様」
私は、義姉のほうを、向いた。
「お姉様も、王陛下御自らに、ご証言なさいますか」
義姉の顔が、白く凍った。
「シャル、私は、何も知らなかったの。全部、お母様が、お一人で……」
「お姉様」
私は、懐から、一枚の書状を、取り出した。
エマ・カーティスへの指示書。買収の金額、祝杯を運ぶ手順――姉自身の、癖のある右肩上がりの筆致で、綴られていた。私は、それを、姉の眼前に、突きつけた。
「では、これは、どなたの、お手ですか」
義姉の瞳が、書状の上を、泳いだ。唇が、開いて、閉じて、また、開いた。
けれど、言葉は、出てこなかった。
視線が、広場を、一巡した。継母を見て、王陛下を見て、最後に、扇を握る私の手を、見た。──逃げ場は、どこにも、なかった。
義姉の肩から、力が、抜けた。
「……ええ、そうよ」
低く、吐き捨てるような、声だった。
「お母様の指示だったわ。でも、実行したのは、私。手駒を用意して、侍女を買収して、エミール様の試験にも、細工をした。──全部、この手で、やったことよ」
継母レーゲンシアの顔が、瞬時に、絶望に、染まった。
「イザベラ、お前……」
「お母様」
義姉は、初めて、母を、正面から、見据えた。
「私、もう、疲れたの。お母様の言うとおりにすれば、いつか、シャルより幸せになれると、ずっと、信じてきた。──でも、違ったわ。お母様の言うとおりにしても、私には、何も、残らなかった」
義姉の瞳が、ふと、広場の端に、控える、一人の男へ、向いた。
エミールだった。証言のために、静かに、控えていた。
「――そうだわ、エミール様」
義姉の声が、急に、甲高く、裏返った。
「私だけが、悪いんじゃ、ないわ! この人だって! 王立学院のお勉強もそっちのけで、うちの洗濯女中と、乳繰り合っていたのよ! 清廉潔白な証人の、お顔をして!」
広場が、大きく、ざわめいた。
貴族たちの視線が、一斉に、エミールへ、集まった。
エミールの顔が、見る間に、赤く、染まった。
「イザベラ……!」
「エミール様」
私は、静かに、彼のほうへ、向き直った。
「事実で、ございますか」
エミールは、しばらく、俯いていた。
そして、深く、頭を、下げた。
「……事実で、ございます。私は、妻に対して、誠実では、ございませんでした。この場を、借りて、お詫び申し上げます」
広場に、失笑とも、ため息とも、つかない、低いざわめきが、広がった。
王陛下は、しばらく、エミールを、見据えておられた。
「エミール・ラントシュタイン。貴殿の私生活の不誠実は、貴殿自身の恥として、貴殿が、生涯、背負うがよい。──だが、貴殿が、本日ここに証言に立った、その事実そのものは、揺るがぬ」
「畏れ多きお言葉、ありがたく……」
エミールの声は、消え入りそうだった。
私は、扇の陰で、小さく、息を、吐いた。
──お姉様。
あなたは、最後の最後まで、誰かを、道連れにしなければ、気が、済まないのですね。
広場に、深い、深い、沈黙が、落ちた。
私は、扇を、ゆっくりと、閉じた。
──お姉様。
私は、心の中で、姉の名を、呼んだ。
あなたは、最後の最後に、お母様を、売りましたね。
それが、あなたの、本当の正体でした。
王陛下のお声が、広場に、響かれた。
「アーデンフェルト侯爵夫人、レーゲンシア・キール。そして、その共犯、レーゲンシアの実子、イザベラ・キール。──両者を、即時、王宮の地下牢へ、収監せよ」
近衛騎士団の精鋭が、広場の四方から、進み出てきた。
継母と義姉の周りを、銀色の鎧の壁が、取り囲んだ。
「陛下、お待ちを……」
継母レーゲンシアが、両手を、伸ばした。
「私には、まだ、申し上げたい儀が……」
王陛下が、深く、お頷きになられた。
「エレオノーラ侯爵夫人の、毒殺の件か」
継母レーゲンシアの顔が、永遠に、凍った。
「そう、その件も、本日、すべて、明らかにする」
王陛下のお声が、響かれた。
「ガルベルト・フォン・シュタイナー、前へ」
王宮の祝賀広場の、長い回廊の彼方から、白髪の老紳士が、現れた。
ガルベルト先生は、革張りの大きな冊子を、両腕で、抱えていた。
「陛下、お久しぶりにございます」
老医師の声が、広場に、低く、響いた。
「奥様、エレオノーラ侯爵夫人の、最後の声を、本日、お届け申し上げます」




