19話 『雪の日に 六』
ミーシャさんの真っ白な首に、小さなナイフが添えられていた。
ナイフの切っ先は、肌には触れていない。一センチほど上で止められている。
俺は、子爵の糸目を睨み付け、同時に魔素の塊を叩きつけながら言った。
「……ミーシャさんを離して下さい。殺しますよ?」
ブワリと、子爵の額に脂汗が浮かんだのが分かった。
瞬く間に玉を作り、額の形に沿って顔を滴り落ちる。
「は、ははっ……冗談ですよ。そう怒らずとも……」
言いながら、子爵はミーシャさんの首元からナイフをどけた。
とりあえず、魔素を叩きつけるのは止めてやる。ただ、子爵の糸目を睨み付けることは止めない。
子爵は、俺が魔素を収めると同時に、あからさまにホッとした表情を浮かべていた。
俺の視線には恐怖を感じないらしく、最初の時と同じ薄っぺらい笑顔を浮かべている。
子爵の右隣に座っている、おっとりとした女性が、懐から手巾を取り出した。子爵はそれを受け取って、額の汗を拭った。
そんなことには構わず、俺は汗を拭いている最中の子爵に話しかける。
「あまり面白くない冗談ですね。で、さっさとしてくれませんか? 私も暇じゃないもので」
子爵はゆっくりと手巾を畳み、それを机の上に置いた。次いで、値踏みするような目を俺に向けてきた。
「聖官様はつまらないお方のようですね。では、端的に申し上げましょうか。反乱を知らせる赤の狼煙ですが……あれは、嘘です」
「……嘘?」
俺が聞き返すと、子爵はもったいぶったように言った。
「いえ、嘘……というと語弊がありますね。反乱が起きたこと自体は事実ですから。……ただ、民が私に対して起こしたのではなく、私が陛下に対して起こしたわけですが」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ」
子爵が目を開いた。糸のような目が、三日月程に膨らんだ。
「赤の狼煙は通常、民の暴動や反乱が発生した際に領主が上げ、周辺の領地の手助けを求める為の物です。――ただ、今日に限っては意味が違う」
言って、子爵は左手を肩まで持ち上げた。
人差し指だけをピンッと立てていて……ちょうどその指が、窓の向こうの、真っ赤な狼煙を差しているように見えた。
「この狼煙は、宣言です。我が領は、もう陛下には付いていけない。反旗を翻す、という意味のね」
「……王都からも、幾つか狼煙が見えました。ひょっとして、その全てが?」
全てが……単なる民の暴動ではなく、領主を中心とした組織的な蜂起だったのか?
信じられない思いで子爵を見つめていると、子爵は楽しそうに笑みを溢した。
「そうです。今日の蜂起は……元々の計画よりは延期になりましたが、大方は計画通りだと聞いています。我々は今日、陛下を弑す予定です」
俺は椅子から立ち上がった。
そのまま、扉へと走り行こうとした時――
「アルさん」
呼び止められた。
柔らかな、優しい声。
俺の足は、止まっていた。
「アルさん、お願いです。もう少しだけ、お話を聞いてくれませんか?」
振り返ると、ミーシャさんがいた。
セイレーン子爵の隣に、ミーシャさんはいた。
胸が焼けるような、涙が出そうな、自分でもよく分からない気持ちを抱きながら……俺は、ミーシャさんを見つめていた。
口を開いたのは、子爵だった。
「聖官様は、どこに行こうとしているのですか?」
「……王都です。私は、陛下を護らなければならないですから」
「聖官様は、それでいいのですか?」
薄い笑顔を浮かべながら、子爵が言ってきた。
訳の分からない事を言う子爵に、そして、子爵なんかとのんびりと語っている自分に苛立ちながら、俺は答える。
「何がですか」
「本当に……アル聖官は、それでいいのですか?」
「だから、何がですか!」
俺が怒鳴ると、子爵は酷薄な笑みを浮かべた。
「陛下を護って……それから、どうするのですか?」
意味が分からなくて、俺は眉を寄せた。
子爵は、楽しそうに続ける。
「先ほど、私はミーシャの首にナイフを突き付けたわけですが……そんなことをせずとも、ミーシャの首元には、既にナイフがあるのですよ。しかもこちらは、半ばまで食い込んでいます。……聖官様には、見えませんか?」
「……何を、言いたいんですか」
「私の口から言わねば、分かりませんか?」
俺が黙っていると――突然、子爵の顔から笑みが消えた。
次いで、子爵は淡々とした声音で言った。
「私は……私たちは、謀反を起こしました。陛下を弑するために、多くの人が立ち上がった。私のような小領主から、伯爵の立場にいる者まで。今、王国のあらゆる場所で蜂起しています。
もしも、聖官様たちの力によって、無事にこの謀反が食い止められ、陛下が生き残ったなら……その後、私たちはどうなりますか?」
「どうっ、て……」
俺が答えるよりも先に、子爵は力強い声で言った。
「死罪です」
短い言葉が、部屋の中に響き渡った。
……そう、死罪だ。
陛下は直轄領と王都以外には裁判権を持っていない。しかし、謀反に限っては、王国内ならどこでも裁くことができる。
そして……その場合は、必ず死罪。これは、陛下が変なことを始めるよりも前、ずっと昔から決まっていることだ。
そんなこと、こいつに言われるまでも無く知っている。
俺は……知っていたはずだ。
子爵が、糸のように細い目で、俺のことをじっと見ている。
――それでいいのですか?
そう、聞かれている気がした。
本当に……王都に戻って、陛下のことを護っていいのか?
陛下が生き残ったら、謀反を起こした者たちは全員死罪。
目の前のこいつはどうでも良い。
けど、この子爵が言いたいのは、そういうことではないだろう。
――謀反を起こした者は、死罪。
嫌な感覚が、背筋を駆け上がった。
チラリと、ミーシャさんに目を向けた。
ミーシャさんは、俺を見ていた。
困ったような顔で、何かを言いたいような、けれどもそれを口に出せない、そんな顔をしていた。
――謀反を起こした者は、死罪。
ふと、父上の言葉が、頭に浮かんだ。
『反乱の中心は、私だ』
父上は、そう言っていた。
詳しくは聞けていない。そんな余裕は無かった。
けれど、あの言葉の意味は、何だったんだろうか?
エンリ村にいるはずの父上がセイレーン領にいて、そのセイレーン領の領主は、陛下を弑そうとしている。
父上は言っていた。『反乱の中心は、私だ』、と。
何を意味するのだろうか?
……分からない。
けれど、俺が今為すべきことは……既に、聖女様から命令されている。
陛下を護衛すること。それが、俺が為すべきことだ。
俺は無言で振り返った。
ドアノブに手をかける。
部屋を退出しようとする俺を、誰も止めようとはしなかった。
――
何も考えられなかった。
頭の中は、真っ白だった。
ただ、気づけば俺はシュバルツ子爵領教会に着いていて、その扉を開けていた。
一階のロビーには、人が増えていた。来た時にいた老神官。他に二人、もっと若い神官がソファーに座っていた。
三人はソファーを突き合わせて、何かを話し合っているようだった。
俺が教会に入ってきたのに気付いた瞬間、三人とも椅子から立ち上がって、頭を下げてきた。
その脇を無言で通り過ぎようとすると、神官の一人が話しかけてきた。
「聖官様、セイレーン領は、どのような様子だったでしょうか?」
俺は足を止めた。
神官へと顔を向けることなく、言った。
「セイレーン領の乱は、問題無く鎮圧しました。私は急ぎ、王都に戻ります。聖石室を」
そこまで言うと、別の神官が聖石室の扉を開けてくれた。
扉の向こうで、青色の球体が浮遊しているのが見える。
俺は無言で青色の三角錐に足を踏み入れ、そして、頭上に右手を掲げていた。
転移の際には、向かう場所のことを思い浮かべる必要がある。
聖官が、向かう場所をしっかりと意識しながら、純粋な魔素を放出する。
この三つを満たすことで、転移は実行される。
深く考えるまでもなかった。
無心のままに魔素を右手から放出すると、視界は暗転した。
再び目に映ったのは、同じような聖石室。
ガタリ、と音がした。
見ると、聖石室に設えられている椅子から、一人の神官が立ち上がった音だった。
まだ若い。俺よりも、ちょっとだけ年上の青年。
慌てたように挨拶をして、そのままの勢いで頭を下げてきた。
俺は反応を返さず、無言で聖石室の扉を開けた。
ロビーには、シュバルツ子爵領教会と比べて、たくさんの神官たちがたむろしていた。
一斉に立ち上がり、俺を中心として、波が広がるように頭を下げてくる。
俺はその間を無心で通り抜けた。
二人の神官が小走りで駆ける。俺よりも先に教会の玄関口まで辿り着き、そこの扉を開けた。
同時、人の騒めきが入ってきた。
ぶつかり合う、金属音。
赤い。
……そこには、王都の光景が広がっていた。
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