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-1話 『王の鳥籠 一』

 長め(8500字)




 ――レイネが死んだ。


 ようやく慣れてきた国王の仕事をこなしている最中に、宰相を通して伝えられた。


 宰相は、調査隊からの報告書を広げて、息苦しそうに、途切れ途切れに語っている。


 その様子を、私は無感動に見つめていた。


 改めて見てみると……宰相は昔と比べて、一段と肥えたと思う。昔から小太りではあったが、私の眼前の宰相は、気色の悪いほどに……度を越えている。


 首の周りにデップリと(まと)わりつく贅肉(ぜいにく)は、宰相が声を発するに応じて微小に震え、肉と肉の隙間には汗が光っている。


 この宰相――名を、キュスターヴ・シンシアと言う。


 現シンシア公爵家当主の弟であり……私の教育係を、幼き頃からずっと務めてきた男である。宰相は、王国史でも語っているかのような調子で、事態の詳細を語っていた。


 『――馬車には人がおらず――』


 『――おそらくは、盗賊――』


 『――総力をあげて調査中――』


 『――仮に生きていたとしても、レイネ妃がどのような扱いを――』


 『――いずれにせよ、陛下は――』


 宰相の報告は、耳を通り抜けた。


 全く、聞く気がしなかった。


 宰相が――シンシア一族の者が言うことを、全く信用できなかった。


 ――どうせ、そういう設定なのだろう?


 内心思いながらも、決して口に出したりはしない。


 ただ、従順に。


 良き王を演じる事が、私にできる唯一の事だ。


 そうでなければ……何の意味も無い。


 レイネの最後の望みを、私が叶えなければならない。


 ――そのためなら。


 私は視線を宰相から外し、机上に落とした。


 そこには、宰相が手に持っているのと同じ報告書が乗っている。


 そこに並ぶ文字列を理解しようと試みたが、思考がまとまらない。早々に、私は解読を放棄した。


 目の向きはそのままに、焦点は机上の文書から……遥か彼方に結ばれる。


 ――レイネが死んだ。


 もう一度、心の中で呟いてみた。


 やはり、実感が湧かない。


 それが事実だと……理性では、嫌なほどに分かっている。


 だが、感情では理解できない。


 庭園でも歩いていたら、緑の隙間からひょっこりと現れるような気がする。


 額に汗を浮かべて、顔に泥を付けて、太陽のような笑顔を見せて……そして、私の名を呼んでくれるのだ。


 一度聞いただけで、全ての疲れが飛び去ってしまう……そんな明るい声で、私を呼んでくれるのだ。


 そのはずだ。


 いや……だが――


 顔を上げて、窓の外へと目を向けた。


 空の高い所には、薄い雲が幾筋にも並んでいる。

 

 少し下を見ると……城壁の向こう側には、貴族の邸宅が並んでいる。


 一つ一つの建物は余裕を持って配置されていて、隙間を縦横に走る道も、幅が広い。


 ちょうど、三頭の馬に()かれた馬車が、石畳に二筋引かれた溝に沿って走っていくのが見えた。


 視線を横に流すと、周囲の建物と比べても一段と巨大な塔が目に付いた。


 王都教会。


 三つの尖塔の先端には、青、赤、緑の玉石が、日光を反射して(きら)めいている。

 

 ……あの、神々しい三つの尖塔から、聖女様が王都の事を見守っている。


 実際には、聖女様は聖国にいらっしゃるのだから、語弊があるが……聖女様に実際に会う事のできない私たちからすると、教会こそが、即ち聖女様なのだ。


 目に痛いほどに純白の、美しい三つの尖塔。その姿を目に捉えて……人々は護られている事に安堵し、そして畏怖するのだ。


 聖女様は、人ではない。人を超越する存在だ。かつて世界を脅かした魔王を打ち倒し、その後……二千年にわたって世界を見守ってきた、そんな存在。


 人々は聖女様へと親愛の情を向けると同時に……畏怖する。自分たちの理解を越えた、超越者たる聖女様――つまりは、教会を。


 この気持ちは、そこらの民でも、私でも変わらない。


 ジッと、窓から見える尖塔を睨み付ける。


 私を監視する聖女様を、力一杯に睨み付ける。


 そんな私の内心など全く知らないように、頂点の青玉石が、キラリと輝いていた。



 ――



 レイネの捜索は、一ヶ月で打ち切られた。


 レイネが乗る馬車が盗賊に襲われたのは、一方が断崖となっている小路だった。


 崖下の捜索も行われ……沢の中から、頭だけが見つかったと、宰相は言っていた。


 直ちに、レイネの墓が作られることになった。


 実感は湧かなかったが、私は求められるがままに必要な文書に署名をした。


 式典の日、真新しい墓石を前に、私は代表として言葉を述べた。


 私の後方には、多くの人が立ち並んでいる。宰相以下、高位の文官。近衛騎士の一部。上級貴族の面々――シンシア一族の者たちも、当然のように参列している。


 空虚な気分のまま、中身の無い文章を読み上げる。


 墓石に刻まれた文字を、改めて眺めてみる。


 『レイネ・ハインエル従妃

  一九九三~二〇一一』


 レイネの名前だ。


 ほんの数年前までは、レイネ・スピリタスだったが……それが今では、ハインエルだ。


 レイネ・ハインエル……うむ、いい響きだ。


 その名が、正式な物として、目の前の墓石に刻まれている。


 ……その事が、やはり()に落ちない。


 よく……分からない。


 なぜ、レイネの墓があるのだろう?


 いや、理性では分かっている。レイネは死んだのだ……一ヶ月探しても見つからないのなら、事実そうなのだろう。


 けれど、こんな物を見たら……レイネが不機嫌になるではないか?


 ()ねたレイネは、頬っぺたを膨らましてきて可愛いのだが……本当に(へそ)を曲げると、レイネはしばらく口をきいてくれなくなる。


 一度、レイネが大切にしていた果実を勝手に食べてしまった時は……酷かった。


 十日もずっと無視された。その間、政務が全く手に付かず、王国に甚大な損害を与えてしまった。


 まあ、損害その物は別に構わないのだが、胸を締め付けるズキズキとした痛みは……もう、二度と味わいたくない。


 墓石から顔を上げて、辺りを見回してみる。


 遠く、墓地を取り囲んでいる樹林の根元に、鮮やかな色が見えた。


 黄色。


 目を凝らすと、それが名も知らぬ小さな花だと分かった。


 瞬間、思いついた。


 ――あの花を、後でレイネに持っていこう。


 中々の思い付きに、私は一人笑う。


 もちろん、花の茎を折ったりはしない。


 根を土ごと掘り出して、レイネに贈る。


 そうすれば……多少なりとも、機嫌が取れるだろう。



 ○○○



「セバス」


 声をかけると、司書机に巨大な本を開いていた老爺は顔を上げた。


 「陛下」と言いながら、開いていた頁に栞を挟んだ。


「また、難しそうな本を読んでいるな? どんな内容なのだ?」


 私が問うと、セバスは目を逸らしながら、表紙が見えないように本を引っくり返した。


 そんな事をされては、気にならないはずがない。有無を言わせる隙も与えずに、もう一度本を裏返し、その題名を読み上げた。


「……『分裂症状の考察』? どういう意味だ?」


 観念したように、セバスは目を閉じた。


「……要は、精神の病について書かれた本ですな」


「精神の病?」


「そうですな……例えば、見えない物が見えたり、聞こえない音が聞こえたり……あるいは、支離滅裂な妄想をしたり。そのような傾向を現す人が、一定の割合で存在するのですが――」


 セバスは(まぶた)を開き、私の目をジッと見た。


「こういった症状を示すのが、精神の病です」


「ほぅ……そんな人がいるのか。本人からしたら、中々大変そうだな」


 存在しない物が見えるなんて、想像できないが……なんだか怖そうだ。


 セバスは疲れたようにため息を吐いて、視線を机上に落としていた。


 机の上に置かれている腕は、筋が浮き出ていて……細い。


 ふと、宰相の顔を思い出した。


 これ以上無いほどに肥えた、宰相。その腕は、私の太腿を越える程に太かった。対して……セバスの腕は、比較にならないほどに細い。


「セバス。また、本を読んで夜更かししたのか? もう年なのだから、自分の身体はもっと労わらねばいかぬぞ」


 ヤレヤレと頭を振りながら私が言うと、やっと……この部屋に私が来て初めて、セバスが小さく笑った。


「ありがとうございます、陛下。……たしかに、ここ数日は睡眠が足りていないかも知れませんな。気を付けましょう」


「そうだぞ。セバスにはもっと長生きしてもらいたいからな。――そうだ、疲れているセバスに、後で差し入れを持ってこよう」


 良い思いつきに、私は手のひらを叩いた。


「……差し入れ、ですか?」


「ああ。レイネが作る果実湯なのだが……これを飲むと、疲れが吹っ飛ぶのだ。レイネに言って、セバス用に一つ、用意させておこう」


 セバスは小さく目を見開き、漏らすように笑った。


「それは……おそらくは、陛下専用の薬でしょうな。私に効くか分かりませんが……折角ですし、ありがたく頂きましょうか」


「なんだ、信用せぬのか? ふんっ、まあ良い。レイネの果実湯を飲んで、驚愕に打ち震えても知らぬぞ」


 私が言うと、どうしてだか分からないが、セバスは眉を歪めた。


 長い付き合いだから分かるが、これはセバスがガッカリした時にする表情だ。


 何か、また至らぬ事を言ってしまったのだろうか? ……分からない。


 セバスの顔を見ていると、(しわ)の寄った唇が開いた。


「陛下……お頼みしたい事があるのですが」


 そんな事をセバスが言ってきた。


 ……意味を理解するのに、少し時間がかかった。


 それほどに、セバスがそんな事を言ってくるのが珍しかった。……いや、セバスが私に何かを求めるのは、この二十年で初めてかもしれない。


「どうした、珍しいな。セバスが余に頼みごとなど」


「はい。差し出がましいとは――」


「構わぬ、言ってみよ」


 セバスの言葉を遮って、私は言った。


 湧き上がる喜びに耐え切れず、自分でも、いつもより声が一段高くなっているのが分かる。


 顔がニヤつかないように、顔面に意識して力を入れた。


 私がそのままに待っていると、セバスは少し言いにくそうな表情を浮かべながらも、呟くように小声で言った。


「……行きたい場所があるのです」


「行きたい場所?」


 問い返すと、セバスは「はい」と頷いた。


「馬車で半月ほどでしょうか。中々に遠い場所です」

「なんだ、そんなことか! よしっ、最上級の馬車を用意させよう! 使用人は五人ほどで足りるか?」


 張り切って私が計画を立てていると、セバスが「陛下」と言いながら小さく手を上げていた。


 その様子に気付いて、私は口を(つぐ)んだ。


「どうした? 何か要望があるか? 何でも言ってもらって構わぬぞ。セバスの為ならば、でき得る限りのことをするからな!」


「……はぁ、その、ありがとうございます、陛下」


 当惑顔のセバスを見て、私は反省した。


 いかん、いかん……暴走していた。


 私は気持ちを落ち着かせて、続くセバスの言葉に耳を傾けた。


「陛下がお忙しくしているのは重々承知しています。ですが……陛下にも、一緒に来て頂きたいのです」


「……余にも、一緒に?」


 無言でセバスの目を見ていると、セバスは私の視線から逃れるように、目を逸らす。


 そのままに、淡々とした調子で言った。


「詳しい事は言えません。ただ……これは、周りの者には言わないでほしいのですが、陛下に見せたい物があるのです」


「見せたい物?」


 「はい」と短く答えたセバスとは目が合わない。


 ……詳しい事は言えない、か。


 セバスが私に見せたい物、そして……詳しくは言えない。何だろう?


 かなりの疑問があるが――


「馬車で半月だったか?」


「はい、そうです」


「つまりは、往復で一月か……」


 少しの間を挟んで、私は言った。


「よしっ、日程を調節しよう。すぐにはできぬから……そうだな、出立は三ヶ月後で良いか?」


「……来て、くださるのですか」


 セバスは、目を見開いていた。


 目尻に皺が寄っているのを見ながら、私は大きく頷いた。


「当然だろう。セバスの頼みだからな」



 ――



 私は馬車に揺られていた。


 セバスの話だと、本当の目的地が周りの者にバレてほしくない、とのことだったので、今回、地方行幸という形にした。


 幾つかの都市を順番に訪ね、その途中で真の目的地を通る事にする。


 セバスが指示した目的地は、ディクスト領。特に何もない零細領地だった。


 民は農耕牧畜を主として行っていて、居住地よりも農耕地の方が圧倒的に大きい。


 王国の大半の領地はこんな様子だ。過去に何があった地でもなし、なぜセバスがここに来たいと言ったのかは分からない。


 セバスによると一瞬でいい、とのことだったので、休憩地として経由し、一刻もせずに再び出立する予定だ。


 ……そして、もう少しでディクスト領に着く。


 馬車の扉が叩かれた。


 扉の傍に座っていたファーターが、「どうした?」と反応する。


「もうしばらくで、ディクスト領に到着するとのことです」


 外で、馬車に並走している騎士の声が聞こえた。


 それを聞いて、私は隣に座っていたレイネに声をかけた。


「もう少しで、着くそうだぞ。ディクスト領の者が、取れたての山羊乳を用意していると聞いているからな、楽しみだ」


『ですねっ、陛下!』


 眩しいくらいの笑顔を浮かべながら、私の隣でレイネは続けた。


『こう見えて私、乳を搾るのも得意なんですよ! 昔、練習しましたからっ!』


 「こう見えてと言うか……」私は笑いながら言った。


「余の印象の通りだぞ。レイネなら、本職ばりに上手く乳を搾ろうとも、余は驚かぬ」


『むっ、言いましたね! そんなことを言うんでしたら、陛下の分の山羊乳も、私が飲んじゃいますよっ!』


「すまぬ、すまぬ」


 余と、レイネの笑い声が馬車の中に響いた。


『……その、キルケ様?』


 レイネの声が聞こえて、私は正面を見た。


 キルケ・シンシア。私の正妃の座に収まっている女は、ファーターと並んで座っていた。


 目を閉じているが、微かに瞼が震えている。単に目を閉じているだけで、起きているはずだ。


 レイネは、そのキルケに話しかけていた。


 おそらく、私とレイネだけで盛り上がって、キルケを除け者にするのを嫌がっての行為だろう。


 こういう気を使える所を見ると……レイネもやはり貴族の娘なのだな、と思う。


『キルケ様は、山羊乳を飲んだ事ありますか?』


「……」


 レイネの問いかけに、キルケは何一つ反応を示さない。


 レイネは小さく『えっと……』と呟いて、私に向けて照れ臭そうに笑った。


『キルケ様、寝ちゃってるようですね。たしかに、馬車って揺り籠みたいに揺れてますし……』


 ……私は、一つため息を吐いた。


「――キルケ」


 名を呼ぶと、キルケは大げさなくらいに、ビクリと肩を跳ね上げた。


 即座に目を見開き、私に向けて怯えたような表情を向けている。


 その様子に、私は嫌悪感を覚えていた。


 怒鳴りたくなるのを、全身全霊で抑える。隣にはレイネがいる。私が怒鳴る姿を、レイネに見せたくはない。


「何度も言っているだろう……レイネが話しかけているのに、無視するでない」


 震える声で再三の注意をすると、キルケの目玉が忙しなく左右に動き回るが分かった。


「……無視、でしょうか」


 (はえ)の羽音よりも小さな声で、キルケは言った。


 言いながらも、キルケは辺りを見回している。


 ゲッソリと痩せ、白く浮き出た目玉を、ギョロギョロと動かしている。


 昔は……キルケも、それなりに見れた顔だったのだが、いつしか病的に痩せてしまった。


 ここ数年は、(ねや)で見るキルケの身体は、肋骨が浮き出ていて、手足も棒のように細い。


 そんなのでは、とてもじゃないが情欲が湧くはずもなく……私は、レイネと可能な限り夜を共にするようにしている。


 一時期は、キルケの相手をするように宰相やら女官やらから五月蠅(うるさ)く言われたが、最近ではそれも無くなった。


 最後にキルケと共に寝たのは……もう、半年も前だろうか? もちろん、何をするでもなく、ただ添い寝をしただけだが。


 ――そういえば、と。


 私は、セバスが数ヶ月前に読んでいた本を思い出した。


 確か……精神の病に関する本だったはずだ。


 キルケに目を向ける。

 

 まるで、何かに怯えているかのように、震えている。


 もちろん、正妃がこんな姿では問題がある。医官に命じて、病を調べさせたりもしたが……結果は、正常だった。ただ、体重だけが減少していた。


 もしや……精神の病という物なのではないかと、今になって始めて、私は思い当たった。


 そういう事なら、あまり辛く当たるものではない。病人には、慈悲が必要だ。


 微笑みを浮かべながら、私はキルケに声をかけた。


「すまぬな、責めるような物言いをして。 ……王都に戻り次第、しっかりと静養させてやろう」



 ――



 キルケは疲れているようだったので、馬車に休ませておくことにした。


 レイネはキルケのことが気がかりなようだったが、一面の麦穂を目に捉えると、モヤモヤとした気分は幾らか吹っ飛んだようだった。


 季節は秋。行幸中に似た光景を、飽きるほど見ているはずなのに、レイネは何度でも喜んでくれる。


 そんなレイネの様子を見ていると、私も何度でも嬉しい気持ちになる。


 レイネと共に、楽しみにしていた山羊乳を堪能する。


 正直、あまり美味しくなかったが、「美味かった」とディクスト領の者に言っておいた。


 そんな私に対して、レイネは本当に美味しそうに山羊乳を飲んでいた。口の周りに真っ白な輪っかを作ったレイネを見て、私はひとしきり笑った。


 山羊乳を飲んだ私は、住民に(かわや)を借りた。近衛が扉の前まで付いてくる。そのまま、二人して個室の中に入った。


「陛下、あまり長くは持ちませんので、お急ぎを」


 近衛は懐から、村人たちが着ているのとよく似た、簡素な服を取り出した。


 無言で受け取り、自身が来ている服を脱ぐ。それを近衛に渡し、薄っぺらい服で身を包んだ。


「すまぬ、頼んだぞ」


「はっ!」


 キレの良い返事を聞いて、私は厠の扉を開けた。近衛も一緒に外に出て、扉の傍で直立姿勢を保つ。


 この様子だけを見れば……まるで、厠の中に、誰か守るべき人がいるように見える。


 私は小走りで、目的地へと向かった。



 ――



 セバスは、護衛の一人も付けずに、切り株の上に座っていた。


 こんな所でさえ、手のひらに収まる大きさの本を読んでいる。


 「セバス」と声をかけると、老爺は切り株から立ち上がった。


「……そのような服装をされていると、全く陛下の印象が違いますな」


「ふんっ、溢れる存在感で分からぬか」


 セバスは苦笑を浮かべた。


「――では早速。こちらです、陛下」


 言って、セバスはしっかりとした足取りで歩き始めた。すぐ傍の、森の闇の中に向かっている。


 普通なら、ここで警戒するのだが……セバスが呼んだのだ。危険なことは無いだろう。


 私は一瞬の躊躇(ちゅうちょ)も無く、セバスの背中を追いかけた。


 季節は秋。地面には茶色や黄色、赤色の葉が敷き詰められていて、滑りやすい。


 にもかかわらず、セバスはそれに足を取られることもなく、かなりの速さで進んでいく。


 これで、年が五十を過ぎているとは思えない。


 私の方が少し息を荒げながら、やっとの思いでセバスに付いていく。


 歩いたのは、長い時間ではなかった。四半刻の、さらに半分。それくらい。


 森の中に、丸太で作られた小屋があった。


 セバスは、玄関扉に向かい、扉を拳で叩いた。


 「はい」と、しわがれた女性の声が、扉の向こうから聞こえた。


 (きし)む音を立てながら、扉が開いた。


 家の中から顔を見せたのは、年老いた老婆だった。


 老婆の顔には、優しい微笑みが皺になって刻まれている。


 ……誰だろう?


 そう思った所で、私は違和感を覚えた。


 自然と、目が引き寄せられていた。


 扉から顔を見せたのは、老婆だけではなかった。


 老婆の右足に抱き着きながら、小さな子どもが、私の顔を見上げていた。


 柔らかそうな金色の髪に……澄んだ赤い瞳。


 私と目が合った瞬間、その少女はニコリと笑みを浮かべた。


 その表情は――



 ○○○



 薄暗い廊下を、私は共も連れずに歩いていた。


 寝室を出る際に当然近衛がいたのだが、命令だと言って、同行を許さなかった。


 右方に立ち並ぶ窓の外は……黒い。


 壁に点々と灯る光が、球状に闇を切り取っている。


 闇と光の間を、交互に抜けていく。


 ――右手で扉を開けると、ムワリと、匂いがした。


 濃厚な、紙の香り。その生暖かい空気の中に、自分の身体を埋める。


 図書館は……暗い。


 当然だ。


 廊下と違って、図書館を一晩中明るくしておく意味は無い。


 図書館は……暗い。けれども、微かに遠く、一つの光が灯っていた。


 本棚の間を抜けながら、遠くの光点を目指す。


 一歩、一歩。


 一歩ごとに、光は大きくなる。


 足音が、図書館の暗闇に響く。


 その中に時折、紙をめくる音が混じる。


「……セバス」


 声をかけると、手元灯を頼りに巨大な本を開いていたセバスは、顔を上げた。


 ユラユラと揺れる光に応じて……セバスの顔を染める陰影は変化する。


「……前も言っただろう。夜更かしは身体に悪い。もう年なのだから、もっと自分を労わってやれ」


「そうですな」


 静かに呟いてから、セバスは続けた。


「――ですが、今日に限っては……陛下も許して下さるでしょう?」


「……ああ、そうだな」


 私は、どんな表情を浮かべているのだろう?


 分からない。分からないけれど……セバスになら、どんな表情でも、見られていいと思った。


「なあ、セバス」


「なんでしょうか?」


「余は……余自身のことが、憎いのだ」


 深夜の図書館には、沈黙が立ち込めている。


 シン、と痛い沈黙を、私の声が貫いた。


「余は……逃げていた。自分が犯した罪を、一生背負って生きていく……そう決意したはずなのに、早々に逃げ出した」


「……罪、ですか?」


 セバスの声に、私は頷いた。


「余は、最初から知っていたのだ。薄っすらと、悟っていたのに……それを無言のままに承諾した。だから……これは、余の罪なのだ」


 一度口を閉じてから、私は続けた。


「レイネは、余が殺したのだ」



 ○○○

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