09話 『王都観光ツアー』
「私には、物の良し悪しなどは分からないのですが……」
言いながら、セバスは机の上に瓶を置いた。中に入っている褐色の液体が、チャポンと音を立てた。
「最高級のキュウシュです。共和国産なので美味しいはず、ですが」
「キュウシュ?」
聞き覚えの無い単語だ。おそらくは、セバスが机の上に置いた瓶のことだろうと思うが……。
首を傾げていると、セバスが淡々とした声で説明してくれた。
「泣くに酒と書いて、泣酒ですね。二百年前ほど前の国王が『涙を流してしまうほど美味しい』と評したことが由来のようです」
「へぇ、そうなのですか。共和国と言えば絨毯が有名ですが、お酒の質も良いとは初耳です」
俺がそう返すと、セバスが小さく笑ったような気がした。瓶を手に取って、栓を抜いている。
「聞くに、聖官様はエンリ領の出身だとか……」
言いながら、セバスが瓶先を向けてきた。
「どうぞ、まずは聖官様から」
慌てて机の上からグラスを両手で持つと、トプトプと滑らかな液体を注いでくれた。
「ありがとうございます」と言って、今度は俺が、セバスのグラスに泣酒を注ぐ。
互いにグラスを持った所で、俺は先ほどのセバスの問いかけに答えた。
「……はい、確かに私はエンリ領の出身ですが」
「エンリ領は確か、シュバルツ子爵領とセイレーン直轄領の、中間に位置していますよね?」
俺はちょっと苦笑しつつ答えた。
「さすがは宰相ですね。エンリ領のような零細領地を、それほどご存じだなんて」
「王国全体の地理は、頭に入れてありますからな」
答えて、セバスは「どうぞ、お飲みになってください」と言ってきたので、俺は言われるがままにグラスに口を付けた。
濃厚なアルコール、梨のようなフルーティーな香り。
度数はかなり高い。でも、質が良いからだろう。不快感は無い。
流れるように、喉を滑り落ちた。
「……美味しいですね」
「気に入って頂けたのなら何よりです。……では、私も少し」
グラスを傾けると、セバスが軽く目を見開いたのが分かった。
「たしかに……酒類を口にするのは初めてなのですが、貴族達が好むのも分かりますな」
「宰相も初めてなのですか」
「ええ。酒類は身体に悪い、と聞きますからね。実際、好酒家の貴族は寿命が短いようですし」
言って、セバスは自身のグラスの中にあった褐色の液体を、グイッと全て飲み干した。
皺の寄った喉が、上下に動いている。
コンッ、とグラスを机の上に置いた。
さっきと比べて、呂律の回っていない口調で、セバスは続けた。
「ですが……私も老い先短いですからな。正確な年齢など、とうに記憶の彼方ですが……今年は、教会暦何年ですかな?」
「二〇二四年です」
「ということは……」
遠くを見る目をしてから、セバスは言った。
「今は六十五ですな」
一人小さく笑って、セバスは酒瓶を手に取った。
「聖官様も、遠慮せずに読んでください。まだお若いのですから、たしょう飲もうと、えい響はない、はずですから」
セバスの顔は赤く染まっている。呂律も……どんどん怪しくなっている。
俺がグラスの中身を飲み干すと、セバスは震える手でお酒を注いだ。
「それで……お話がある、ということですが?」
セバスが酔い潰れてしまわないうちに、という思惑で本題を振ると、途端にセバスの顔が引き締まった。
「……聖官様に、お頼みしたいことが、あるのです」
虚ろな目で、セバスは――
○○○
朝、毎日の日課の通り、陛下の部屋に向かった。
いつものように寝癖だらけの陛下は、俺を見ると嫌そうな顔をした。
「おはようございます、陛下」
「ああ――」
途中で言葉を止めて、陛下は眉をひそめた。
「なんだ? 酒臭いぞ……」
「昨晩は酒を嗜みましたから」
「……ほう、聖官殿は酒もいけるのか」
ニヤリと笑って、陛下はベッドから立ち上がった。
「待ってろ……秘蔵の物があるのだ」
陛下が目指す先には、棚がある。難しそうな本が並ぶ本棚の隣に、ガラス戸の小さめの棚がある。そこへ向かいながら、機嫌良さそうに陛下は語る。
「共和国産のな、泣酒という酒なのだが……これが美味いのだ」
ガラス棚にたどり着いた陛下は、扉を開けて中を探り始めた。依然として機嫌良さそうに語っている。
「余も一度しか飲んだことがないのだが……その名に恥じぬ味、だった……が……」
陛下はガラス棚の中に頭を突っ込むように、アセアセと両腕を動かしている。床の上に、中から取り出されたガラス瓶が並んでいく。
俺はそれを無表情に眺めながら、陛下に声をかけた。
「陛下」
俺の声に動きを止めた陛下は、ゆっくりと振り返った。
……たしかに、名前の通りだ。
陛下の目は、若干潤んでいた。
俺は昨日の事を、一生の秘密にすることを心に誓った。
「お願いしたいことがあるのです」
「……お願い、だと?」
疲れた表情のままに、陛下は呟いた。
「はい。算学の指導の代わりに、一つ頼み事を聞いてくれる……ということでしたよね?」
「ああ……そういえば、そんなことも言ったな」
陛下はその場に立ち上がって、ヨレヨレの寝間着姿のままに胸を張った。
「なんだ? 言ってみるがいい。金でも女でも、大抵のことなら何とかしようではないか」
女、という選択肢に心が揺らいだ俺を、誰が責められるだろうか?
幼い頃から女子に尋常でなく……少し触ろうとしただけで失禁させてしまうくらい嫌われてきた俺だ。
心が全く揺らがなかったかと言うと、嘘になる。
だが俺は、何とか自制心を働かせることに成功した。
真っ直ぐに陛下の目を見て、俺は言った。
「王都の様子を見てみたいのです」
――
俺の想像以上に、事態は大きくなった。
今回の王都観光ツアーにあたって、五十名の近衛兵が同行することになった。
陛下の安全なら、俺だけで確保することができる。むしろ、人が増えれば増えるほど、その全員を守ることが難しくなる。五十人は流石にキャパオーバーだ。
なので、俺と陛下の二人だけでいいと散々言ったのだが、体面の問題もあるということで、大量の近衛兵も同行することになったのだった。
前方には露避けの近衛兵十数名、その後ろで俺と陛下の二人が並んで歩き、左右と後ろを、さらに多数の近衛兵が固めている。
陛下御一行が通ると、王都民たちは慌てて道の脇に避け、地面にひざまずく。
洒落た服を着ている王都民たちは、服が汚れるのにも構わず、膝を地面に擦り付けている。
老若男女を問わず、やっと歩けるようになったかってくらいの子どもから、禿散らかした年寄りまで、一様に同じ姿勢をとっている。
「王宮から出るのは、久しぶりだな」
辺りをキョロキョロと見回しながら、陛下は言った。
「どれくらいぶりですか?」
「四……いや、五年振りになるか? それくらいになると、既に王都に降りることが難しくてな。今回、聖官殿の提案は、余にとっても良い機会だったぞ」
「そうですか……」
答えて、俺は地面を見つめた。
……ヤバい。話題が無い。
流石に、ここでエトナの話題を出すのはマズイっていうのは分かるが……そうなると、あまり話すことが無い。
俺の視線の先では、綺麗に舗装された石畳が流れている。
石畳は微かに青みがかっている。聖砂が練り込まれているからだろう。
聖砂とは、教会から購入できる物で、魔物避けの効果がある。こんな、見て分かるほどの濃度で、聖砂が贅沢に使われていたら……よっぽど大規模な戦争でも起こらない限り、王都で魔物が発生することは無いだろう。
「こんな余でも――」
陛下の声に、俺は顔を上げた。
「昔は、よく王都を歩いたのだぞ。まあ、今のように護衛がワラワラと付いて来ていたがな。
屋台では色々な物を売っていてな、美味そうだから食べたいと言っても、何が入っているか分からないから、ならぬ……と、どの護衛も同じことを言うのだ」
俺が見る限り、屋台など一つも無い。
王都には、ドンヨリとした空気だけが流れている。
陛下は苦笑しながら言った。
「当時の余はまだ幼くてな。国民を信じられぬ王族がいるか、などと本気で言っていたものだ。
――して、聖官殿。各国を巡る機会も多いと思うのだが、他の国でも屋台など出ているのか?」
屋台、か……。
「色々な国を訪ねましたが、どの国でも屋台はありましたね」
「……ほう」
「特に、マエノルキアの屋台は凄かったです」
陛下がチラリと俺を見た。
「マエノルキアと言えば、医療の国か。そういえば、数年前に、マエノルキアで伝染病が流行ったと聞いたな。たしか、聖官が派遣され解決したとか」
「ああ……それ、私ですね」
それから、俺はマエノルキアで体験した出来事を、所々端折ったり、脚色したりしながら語った。
陛下にとっては興味深い話だったようで、いちいち大げさに反応しながら聞いてくれたので、話しやすかった。
最後に、全ての元凶が屋台の魚に含まれていた虫だった、ということを聞いた瞬間の、陛下の絶妙に嫌そうな顔を楽しんで、俺は話を締めくくった。
「羨ましいな……」
陛下が、ポツリと呟くのが聞こえた。
隣に目を向けると、陛下は遠くを見ているようだった。
俺に向けて言ったというよりも……無意識に口から漏れていた、そんなふうに見えた。
俺は何も言わず、視線を前に戻した。
……どうやら、目的地に到着したようだ。数十メートル先に、人混みが見える。
そこに集まっていた人々は、陛下の登場で一斉に最敬礼をした。
柵で囲まれた広場を、ひざまずいた人々が取り囲んでいる。
柵の内側は青かった。
今は雲で見えないが……晴れた日の空に、負けず劣らず青かった。かなりの分厚さで、聖砂が敷き詰められている。
柵の内側にも人がいた。
外側と違って、人口密度はかなり低い。
直径二十メートルほどの、柵の内側の円形には、十数人しかいなかった。
そいつらだけは、陛下の登場にも関わらず最敬礼をしていない。
おそらくは、事前に陛下の来訪を伝えられていたからだろう。陛下が来たとしても、最敬礼をする必要は無い、と。
兵士が五名。近衛騎士団の部分鎧とは違って、全身鎧を身にまとっている。
デザインもちょっと違って、上手く言えないが……こっちの方が、近衛よりも武骨な印象を受ける。
他の十余名は、シンプルな恰好をしていた。薄っぺらい、何の装飾も施されていない襤褸を着ている。今は一月末。あんな恰好をしていたら寒いだろう。
実際、その十余名はブルブルと震えていた。
寒さによる物なのか、別の理由による物なのか……俺には、分からなかった。
「聖官殿、構わぬか?」
陛下が横から言ってきたので、俺はゆっくりと頷いた。
「始めよ」
陛下の声が、広場――処刑場に響き渡った。
特段、陛下は声を張り上げたわけではない。何かコツでもあるのか、陛下の声はよく響く。
キビキビと、柵内で兵士たちが動き始めた。
列を成している襤褸の人々――罪人の中から、兵士の手によって一人が引っ立てられた。
子どもだ。十歳に満たないくらいの女の子。
長い髪は木枝のようにボサボサで、ゲッソリとした顔は垢に塗れて黒い。目は虚ろだった。
別の兵士も加わって、少女は両腕を引っ張られている。
少女には、抵抗する様子は見られない。引っ張られるがままに、ヨタヨタと足を動かし……処刑場の中央で、両膝を地面についた。
そこは黒かった。
他の部分は、目が覚めるような青色なのに……そこだけ。
中央の、直径二メートルほどの地面だけが、黒く染まっている。
少女は、黒い地面の上に両膝をついていた。
少女をそこまで連れてきた二人の兵士が、腰から剣を引き抜いた。
よく手入れされているようで、刃はテラテラと光っている。
二人の兵士は、白い首を晒す女の子の、その両脇へと進み出た。
手に剣を握り、頭上に剣先を掲げる。
そこでようやく、俺は兵士の顔を見た。
血の気が引いていて、顔色は白い。
そこには、何の表情も浮かんでいなかった。
茶髪が、冬風に揺れている。
あれは――
「ラインハルト……」
俺が小さく呟くと同時に、二つの剣が振り下ろされた。
○○○




