08話 『家庭教師』
「では……」
苦痛の滲む声音で陛下は言った。
「そろそろ帰る。続きは、また明日だな」
「はいっ! 今日もありがとうございました、お父様!」
対して、エトナの声はどこか解放感に包まれている。エトナは広げていた分厚い本を閉じて、それを近くの小机に置いた。
陛下は椅子から立ち上がり、それを見て、扉の傍に立っていた俺は、陛下が通れるように道を開けた。
――と、ここで、エトナの視線が俺に向けられた。
「アルさんも、また明日、ですねっ!」
跳ねるような声を聞いて、口角が緩みそうになったが……陛下の視線に気付いて、俺は真面目な顔に戻った。
「また明日です、エトナさん」
――
陛下護衛任務に就いて、十三日が経った。
毒を盛られたあの日から、俺は変わらぬ日々を過ごしている。
陛下のトイレから始まり、エトナの部屋を訪ねて終わる、この一連の流れを繰り返している。
陛下に連れ立って歩きながら、右側に並ぶ窓を見る。
太陽はとうの昔に沈み、そこに広がっているはずの庭園の景色は全く見えない。
王宮の廊下を照らす点々とした光や、いくつかの部屋の灯りが、わずかばかりに闇を切り取っている。まだ仕事をしている文官もいるのだろう。
感覚的には、夜の八刻頃だろうか。
こんな時間に掃除をしている下女はおらず、真っすぐに続く閑散とした廊下は、どこか物悲しく感じる。
「なあ、聖官殿よ」
陛下の声が、廊下に響いた。
「はい」
「聖官殿は算学を得意としていると、風の噂で聞いたのだが、それは事実か?」
「……そのようなこと、陛下はどこで聞いたのですか?」
陛下は、全く歩調を緩めることもなく言った。
「風の噂だ」
陛下の回答に、そこはかとない恐ろしさを感じた俺は、それ以上の追求を諦めた。
……ただのおっさんのように見えて、陛下はこれでも大国の主だ。独自の調査網でも、持っているのだろう。
たしかに俺は、算学が得意だ。
頭がいいからではなくて、歴史なんかとは違って、数学は前世の知識が役に立つからだ。
母上の授業でも、算学だけはすぐに及第した――おそらく、陛下はその情報をどこかから仕入れてきたのだろう。
「まあ、人並み以上には……」
「余は幼き頃から、教養を叩きこまれてきた。王国史や教会史など、史学に類する物は習熟できていると自負しているのだが……実は、算学だけは苦手でな」
「そうなのですか?」
「ああ。最低限は身に付けているが、とても人に教えられるような域には達していないのだ。そこで一つ、聖官殿に頼みたいのだが……」
陛下は足を止めると、振り返った。
いつも以上に、普通のおっさん然とした顔が、そこにはあった。
「エトナに、算学を教えてやってほしいのだ」
「……私が、ですか?」
「そうだ。もちろん無理にとは言わぬが……当然、給金も出すぞ?」
陛下の言葉に、俺は驚きを隠せなかった。以前までは、俺がエトナと言葉を交わすことさえ嫌ってたのに……その陛下が、俺に教師役を頼むようになるなんて。
「なぜ私なのですか? 王宮であるなら、算学を教えられる人くらい、いくらでもいませんか?」
俺の言葉に、陛下は不快そうに眉をひそめた。
「それは聖官殿も分かっているだろう。エトナの存在を知っているのは、余とセバス、近衛騎士の一部に、それと世話役の使用人数名に過ぎぬ。
セバスは人に物を教えるのに適してはいないし、使用人に教養など求めるべくもないだろう。エトナの存在を知っていて、なおかつ算学を教えられる者は、聖官殿しかいないのだ」
淡々と陛下は語った。
「……教会の規則により、私は金品を受け取ることはできません」
「それなら、物の代わりに……そうだな」
陛下は宙を睨んでから、俺に目を向けた。
「聖官殿の願いを、余にできることなら何でも一つ聞いてやろう。どうせ、エトナの部屋に行った時、聖官殿は突っ立っているだけなのだ。その分を指導に回すだけの対価としては、上々ではないか?」
――
「えっと……」
呟きながら、エトナは唇を突き出した。
エトナの眼前の机には、一枚の紙が置かれている。そこには、黒いインクで書かれた数式が並んでいる。俺が作った、算学の問題だ。
陛下の頼みを聞き入れた俺は、まずはエトナのレベルを判断するためにテストを作成した。最初の方は足し算なんかの本当に基本的な問題で、後になる程に難易度が上がっていく。
エトナが握る羽ペンは、全体の半分の辺りで止まっていた。
「半分を、三等分した内の二つで割るって、どういう意味なのですか?」
すぐ傍に立つ俺に、エトナは上目遣いで聞いてきた。
どうやら、分数の割り算で引っ掛かっているらしい。
俺は真面目くさった顔で答えた。
「試験中には答えられません」
それを聞いたエトナは、捨てられた猫のような、悲しそうな顔をした。
そんな顔をされると、つい教えてしまいそうになるが……心を鬼にして、俺は無表情を貫いた。
俺の固い意志を感じ取ったのか……エトナの頬っぺたが、ぷくーと膨らんだ。
触ったことはないが、餅のように柔らかいのだろう。面白いように膨らんでいる。
無意識に、その白い頬っぺたへ手を伸ばそうとして――ただならぬ殺気を感じた。
身体を硬直させたまま、斜め前方に目を向ける。
そこの椅子に座って、難しそうな本を読んでいたはずの陛下は、俺に濁った瞳を向けていた。
――それからさらに数分経って、いよいよエトナの手の動きが完全に止まっていることを確認した俺は、試験の終了を告げた。
俺が解答用紙を取ると同時に、エトナは疲れたように、机の上に腕を投げ出した。
「ふぁー」と、力の抜けるようなエトナのため息を聞きながら、解答用紙に目を通す。
上三分の一は全部埋まっていて、真ん中辺りから斑になり、下三分の一はほとんど白紙だ。
暗算で、エトナの解答の正否をザッと確認してみた。ミスはあまり無い。
「見たところ」俺が口を開くと、机に突っ伏したままに、エトナが見上げてきた。
「単純な四算は大体できているようですね。ただ、分算が入ると厳しいと……」
エトナは恥ずかしそうに目を逸らした。
真っ白な頬っぺたがピンクに染まっている。そのまま、小さく頷いた。
……本人も理解しているようだ。
「理想を言えばキリがありませんが、私が王国にいられるのは、長くとも残り一ヶ月です。現実的なもくひょ――」
「えっ……」
エトナはガバリと上体を持ち上げると、勢いそのまま立ち上がった。
「アルさん、あと一ヶ月しかいられないのですか?」
「……はい、そうですね」
エトナの目から逃げるように、俺は手元の解答用紙へと視線を落とす。
「あくまでも任務で来ていますから。今回の任務は、長くとも二ヶ月と言われています」
同じ聖官がずっと護衛任務を担当していると、戦闘の勘が鈍ってしまう。なので、長くとも二ヶ月ごとに聖官を交代させると、聖女様は言っていた。
「そう……そうですか……」
チラリと目を向けると、エトナは俯いていた。
聖女様に頼んで、ちょっとだけ伸ばしてもらおうかな――そんな考えが、頭に浮かんできた時だった。
「……アルさん」
笑顔を浮かべたエトナが、俺のことを見つめている。
「現実的な……なんですか?」
「はい?」
「さっき、アルさんがしてくれていたお話の……」
その言葉で、俺はエトナが何を言わんとしているかを理解した。
「ああ、えっと……そうですね。先ほどの続きですね」
エトナがコクリと頷いた。
「エトナさんは四算はできているようなので、現実的な目標は、分算が混ざった問題を解けるようになることだと思います」
少し戸惑いながら俺が言うと、エトナは「分算……」と小さく呟いた後に、大きく頷いた。
「分かりました! 頑張りますっ!」
そう言って、エトナは悲しそうな笑顔を浮かべた。
○○○
俺が国王護衛任務に就いて二十日が経った。
――
「ありがとうございましたっ!」
エトナの溌剌とした声で、今日の授業も終了した。
エトナの目の前には、俺が素手で作成した方眼紙が広がっている。そこには直線や曲線が、エトナの手によって引かれていた。
エトナは昨日までに分算、要は分数計算をマスターした。
次に何を教えようかと悩んだ結果、俺はグラフを教えることにした。役に立つかは分からないが、知っておいて損は無いだろう。
ブンブンと手を振ってくるエトナに会釈を返しつつ、陛下と共に隠し部屋を退出した。
いつものように陛下を私室まで送り届けて、近衛兵に引継ぎをして、俺は与えられている自室に戻った。
馬鹿みたいにデカい部屋を横切り、これまたデカいベッドの上に腰を下ろす。
ベッドから二メートルくらい離れた場所に窓がある。窓の外には闇が広がっている。今の時刻は、八から九刻くらいだろう。
俺が位置しているこの部屋は、かなり高い場所にある。
王宮に来た日に実際に通ったから知っているのだが、城壁はかなり巨大だ。高さ十メートルくらいはあったと思う。
俺が今いる部屋は、その倍以上の高さはある。だから、城壁を越えて……その先にある王都の景色を、臨むことができる、はずだ。
俺はベッドから立ち上がって、窓際に向かった。
――窓の外には、闇が広がっている。
完全な闇ではない。ポツポツと……幾つかの明かりは灯っている。
……これが、王都か。
千八百年の歴史を持つ、五十万の人口を擁する大都市。
……こんなに夜、暗いのだろうか?
エンリ村では日が落ちたら真っ暗だったが、こんな大都市でもそうなんだろうか? 少なくとも、聖国は一日中明るかったが。
首を捻って、俺は窓際から離れた。
着ていた青ローブを脱いで、ベッドへと放る。欠伸を一つ。
さっさと寝よう。
そう思って、俺はベッドへと足を向けた。靴を雑に脱ぎ散らかす。一日中靴に包まれていた足が解放されて、気分が良い――
「聖官様」
扉の外から若い男の声が聞こえた。
「宰相閣下がいらっしゃっているのですが……」
宰相?
疑問に思いつつも、俺は先ほど脱ぎ散らかした靴を手に取って、両足に履かせた。
扉を開けると、困惑した表情の若い近衛兵と、セバスがいた。
「夜分に失礼します」
セバスは俺に頭を下げてきた。
「いえ……どのようなご用件でしょうか?」
セバスは顔を上げると、右手に提げていた酒瓶を持ち上げながら言った。
「聖官様に、お話があるのです」
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