-2話 『王宮図書館司書 後編』
殿下の願いに従って、私は殿下の思い人を篭絡する手段を真剣に模索することにした。
殿下には、十日後の同時刻に、図書館を訪ねてもらうように言ってある。
――さて、と。
まず大前提として、私には恋愛経験など皆無だ。
女人に愛を囁かれるどころか、私自身、誰かを好いたこともない。そもそもが、誰かを愛するという感覚が理解できない。
つまりは、私自身の意見ほど信用できない物は無い、という事だ。
では、何を材料として計画を立てるか、という問題だが――
私は、眼前に立ち並ぶ本棚の列を見回した。
……私には、歴史が味方に付いている。千年以上、ありとあらゆる知識人が綴ってきた書物が、ここには揃っている。
人の心の動き、特に恋愛に関する物も、確実に含まれているだろう。
それらを駆使したならば、ただの小娘など、容易に篭絡できるだろう。
――そう確信して、私は小さく笑っていた。
――
十日後にまた来るように。
そう言っておいたのに、殿下には十日も待つことができなかった。
毎日のように図書館を訪ねてきて、何をするでもなく、図書館を歩き回ったり、大机に座っていたりする。
正直、鬱陶しいが……前向きに捉えるならば、陛下のおかげで、私の健康には良かったかもしれない。
図書館内は時間の変化が分かりにくい。殿下が毎日ここに来なければ、私は寝食も忘れて作業に没頭していただろう。それほどに、今回の作業に私は熱中していた。
ふと、途中で思った。
どうして、私はこれほどに熱中しているのだろう、と。
本を読むことは好きだ。けれど、単にそれだけで説明できないほどに、私の身体には熱が灯っている。
何日経った頃だろうか……特に切っ掛けがあったわけではない。
私の頭に、唐突にその答えが浮かんだ。
――私は、殿下が好きなのだ。
殿下の役に立てる事で……私は、こんなに嬉しいのだ。
殿下のどこが好きなのか? 上手く口では説明できない。
……けれど、一つだけ分かっていることがある。
本棚から古本を一冊取り出して、その本を小脇に抱える。
書架の間を歩きながら、私は自身の内面を眺めていた。
この気持ちは、悪くない。
初めての気持ちだが……嫌いではない感情だ。
国の為に、などと言いながら命を捨てる狂人を、これまでの人生で何度も見てきたが……今なら、少しだけ、その気持ちが分かるような気がする。
殿下の為に死ねるか、と聞かれたら、否と答える。しかし、殿下の為に無償で労働するくらいなら、苦も無く実行できる……できてしまうのだ。
機嫌良く、そのまま司書机に向かっていると……例の如く、殿下が大机に出現していた。
「なあ、セバス。昼餉は既に摂ったのか?」
机に開いた本に目を落としながら、殿下は言った。
「いえ、まだですな」
「そうか」と小さな声で言って、殿下は頁をめくる。会話は終了したと判断して、私は頭を下げて司書机に向かった。
おそらくは一、二刻経ったと思う。
再び私が同じ場所を通った時、殿下は既にいなかった。
殿下はあれでいて次期国王だ。こんな所に頻繁に顔を出すから、暇なのではないかと勘違いしそうになるが、実際は多忙な生活を送っているのだろう。
殿下が座っていた席には、殿下の代わりに盆があった。
盆の上には、スープや飲料、パンが乗っている。スープはすっかり冷めてしまったようで、湯気などは立っていない。
私は少し迷ってから、手に持っていた本を机の上に置いた。さっきまで殿下がいた椅子に座って、食事を摂った。
――
約束の日。
殿下は、大机の一つに神妙な面持ちで座っていた。私はその対面に腰を下ろし、手に持っていた紙束を殿下に手渡す。
「どうぞ」
「ん? ああ……」
紙束を受け取ると、陛下は怪訝そうな顔をした。
「何だこれは?」
言いながら、殿下は手に持っている厚さ三センほどの紙束をパラパラとめくっている。
「今回の、殿下の思い人を篭絡する作戦のための、資料です」
「……資料」
呟いて、殿下はもう一度、パラパラと資料をめくった。
「一つ、尋ねたいのだが……」
「なんでしょうか?」
「これを全て、セバスが書いたのか?」
「はい、そうですが」
答えて、私は自分用にも作成しておいた、殿下に渡した物と同じ資料を開く。
「まずは一頁を開いてください」
黙って、殿下は一頁を開いた。
「ここには、作戦全体を通しての基本思想が書かれています」
「……基本思想?」
「はい。千年代初頭を代表する、東方――鴻の哲学者、張真明の著書『考人現行』を教会語に直した物です。まず、『考人現行』についてですが、そもそも――」
「ちょっと待て、セバス」
殿下が突然遮ってきた。資料から顔をあげると、殿下は眉間を揉んでいた。
「どうしましたか?」
「すまぬが、この後にも予定が立て込んでいてな……長くとも、三刻ほどしか時間が取れぬのだ」
……それはそうか。
どうやら、寝不足で思考が鈍っていたようだ。
殿下は次期国王なのだ。それほど暇ではないだろう。
言われるまでも無く、この資料を全て説明していたら日が暮れてしまう。全部で三百頁ほどあるから、要約しつつ進めねばならない。
「分かりました。それでは、出来得る限り効率よく進めましょう」
「ああ、頼む」
「それでは、殿下……まず一つ思考実験を行いましょう」
「思考実験? なんだ、それは?」
「……言い換えるならば、問答のようなものです。具体的な意味の理解は取りあえず置いておき、早速始めましょう。時間がありませんから」
不満げな表情を浮かべながらも、殿下は一つ頷いた。それを確認して、私は口を開いた。
「まずは、両目を閉じてください」
私が言うと、殿下は素直に目を閉じた。その殿下に向けて、私は声をかける。
「ここからは、目を閉じたままで答えてください」
「ああ、分かった」
「では。例えば……そうですね、鳥にしましょうか。殿下が鳥を飼っているとしましょう」
「鳥など飼っていないぞ?」
「それでも構いませんから、仮に、殿下が鳥を飼っていると……想像してみてください」
「よく分からぬが……もしも、の話だな?」
「はい、そうです」
「分かった」
殿下が頷いたのを確認して、私は先を続ける。
「殿下は、鳥を一羽飼っています。その鳥を、殿下は卵の頃からお世話をしていて、自室の鳥籠の中で大切に育てています。
ある日、殿下が自室に戻り、いつものように鳥籠を確認してみると、中身は空になっていました。
殿下は部屋の隅々から、王宮の至る所まで捜索をしましたが、どこにも鳥の姿は見当たりません。
諦めかけた頃……建物の外、殿下の部屋の窓のちょうど直下に、鳥が倒れているのを見つけます。おそらくは、窓から落ちたのでしょう。
殿下は慌てて鳥を両手で包み込み、観察してみると、どう見ても鳥は助からない状態です。片方の翼は折れていて、羽毛は斑に血で染まっています。ギリギリまだ息がある、という状態です」
ここで、私は一度合間を挟んだ。
「それでは、殿下。殿下は……この瀕死の鳥を、どうされますか?」
「ふむ……そうだな。余にとってその鳥は大切な存在だが、眼前で死に瀕していると。そして、もう助けることはできない、ということだな?」
「はい、その解釈で問題ありません」
数秒の沈黙を挟んで、殿下は自身の考えを述べ始めた。
「瀕死ということなら、その鳥はかなり苦しんでいるのだろう。
無理に動かしたなら、痛がるかも知れぬから、その場を動かさず……最後の時を看取るのではないかと思う。
そして、その後に鳥の遺骸を持ち帰って、丁重に葬ろうかと思う」
……なるほど、殿下はそう考えるのか。興味深い。
私とは全く違う回答だ。
「殿下、目を開けて宜しいですよ」
目を開けた殿下は、何度か瞬いた。困惑した表情のまま、視線を私に向けてくる。
「それで、セバス。これにどのような意味があったのだ?」
「では、殿下。資料の一頁を開いてください。先ほどの思考実験は、そこに書かれている内容を理解する助けになりますから」
殿下は目の前の机に置かれていた資料を手に取って、素直にその最初の頁を開いた。目が左右に動いているのが分かる。
「太字で書かれている部分です」と、補足しておく。
しばらく、殿下が文章を読むのを待っていると、殿下は眉間に深い皺を刻んだままに目を向けてきた。
「……意味が分からぬのだが」
「内容を理解するのが難しい時は、声に出して読んでみると、案外と簡単に理解できることもありますよ」
素直に、殿下は私の助言に従った。
「人間の応答は個々で複雑であり、理解せんとするは甚だ困難に思われる。しかしその本質にして複雑である、というのは果たして可能なのか。複雑な基礎の上に、安定した人格が存在し得るのか。
それが否定されるならば逆説的に、本質にして人間は安定した存在であることが証明される。であるならば、複雑の源泉は如何にして説明されるのか。
――その問に対する答えとして、単純な応答の集合による複雑な応答の形成を提案する」
長文を朗々と読み上げた殿下は、少しの間をおいて言った。
「……意味が分からぬのだが」
私はため息をつきそうになるのを堪えて、殿下でも理解できそうな言葉を選んで説明を試みた。
「先ほど、殿下に行ってもらった思考実験。殿下の回答は、今日と明日で大きく変化しますか?」
「……んむ、そう簡単には変化せぬと思うぞ」
「では、殿下以外の誰かが同じ思考実験を行った際、全員が全員、殿下と同じ考え方をすると思いますか?」
「……いや」言いながら、殿下は虚空を見つめた。
「中には似た考えをする者もいるだろうが、全員が同じ考えを持つことは無いだろうな」
「つまりは、そういうことです。人によって答えが変わるような複雑な問にも関わらず、一人一人が持つ答えは、一日や二日で変化することは無い。
それがなぜかと言うと、複雑な問を考える際、頭の中では案外と単純な経路の積み重ねを経て答えが出されているため。
そして、一人一人の答えが違うのは、単に辿る経路が多様性に富んでいるからに過ぎない。
そういう意味のことを、その文章は伝えようとしているのです」
この説明なら殿下でも理解できたのか、頷きながら殿下は言った。
「それなら、直感的に理解できるぞ。……同じ内容なら、わざわざ難しい言葉を使わずに簡単に説明すればいいのにな」
殿下の愚痴には反応せず、私はようやく伝えたかったことの説明を試みる。
「この考え方は、恋愛事にも応用できます。殿下が目指す最終目標は、目的の令嬢に対して『愛している人は誰か?』という問いを投げかけて、『殿下だ』という答えを引き出すことです」
本題に入ると、殿下は身を乗り出すようにして私の言葉を聞き始めた。
「現在、令嬢の殿下に対する印象は、真っ白な状態。これから行っていく作業は、そこへ様々な問と答えを組み込んでいくことです」
「……どういうことだ?」
つい先ほどまでとは段違いに真剣な表情で、殿下は問ってきた。
「単純な質問、例えば『好きな色は?』に対して、大抵の人は単純な理由を介して答えを返します。
対して問題の、『愛している人は誰か?』などのような複雑な問に答える際、本人の自覚の有無に関わらず、複雑な思考を介して人は答えます」
殿下はギリギリついて来ているようだ。顔を歪めながらも、耳を傾けているのが分かる。
「ですが、いかに複雑に見えようとも、実際は複数の単純な問と答えが組み合わさっているだけなのです。
逆に言えば、単純な問と答えを意図的に操作することで、複雑な問と答え、つまりは『愛している人は誰か?』という問に対する答えでさえ制御することが可能、ということです」
「……よく分からぬが、つまり、セバスには勝算があるということか?」
私は大きく頷きながら、自信のこもった声で答えた。
「もちろんです。成功は約束された物だと考えてもらって宜しいかと」
「おお……」
殿下は、大きく目を見開いていた。
「頼りにしているぞ、セバス!」
○○○
「いますか?」
無人の図書館に、私の独り言が響いた。
「はい」
どこからか、声だけが返ってきた。
姿は見えない。声音からも、その主の姿が見えてこない。
無色の、記憶に残ることの無い……そんな声。
「そこにいるのは、分かっています。出て来なさい」
一点をジッと見つめながらに言うと、朧な輪郭が見えてきた。
本棚の脇に、その女性は立っていた。
服装は、特別変わった物ではない。女官たちが身に着けている、普通の制服。
まだ、若い。正確な年は知らないが、二十代から三十代……私の半分程度の年でしかないだろう。
「……それほど、下手でしたか?」
悔しそうな表情を浮かべながら、女性は私に向かって歩いてくる。
「いえ、以前までと比べたら上達しましたよ。それだけ消せたら、任務には支障が無いでしょう。
私も、いるはずだ、と思っていたから微かな違和感を見つけられただけで、そうでなければ、気付けませんでした」
「……そうですか?」
女性の声には、感情が現れていた。
……そういう所は、まだまだだ。
「頼みたい事があります」
私が言うと、女性は足を止めた。
私の目を覗き込んでくる。
「我々は、国王陛下以外の命令は聞きません。そういう組織ですから……いくらセバス様の頼みとはいえ、動くことはできません」
「戻りましょう」
女性の目が、見開かれるのが分かった。
「首領の座に、戻ります。――首領の命令なら、聞けますよね?」
○○○




