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00話 『王の鳥籠 二』



「レイネ。あと、どれくらいで生まれるのだ?」


 私の声が、小さな部屋に響いた。


 この部屋は静かだ。


 いつも騒がしい執務室や寝室とは違って、この部屋の近くには誰も近付けないようになっている。


 レイネの鼓動と時計の針、二つの音だけが、規則的に聞こえる。


 ……待てども待てども返事がないので、私はレイネのお腹から左頬を離した。


 温かい感触を名残惜しく思いながら、上を見る。


 そこには、呆れた様子で私を見下ろしている顔があった。


「陛下、何度同じことを聞くんですか?」


「……それほど、何回も聞いたか?」


「はい。昨日も一昨日も、同じことを聞きましたよ」


 そうだったか?


「まあ、減る物でもなし、構わぬではないか」


 レイネは小さくため息をつくと、柔らかな眼差しを、自分のお腹に向けた。


「乳母が言うには、もう一月前後と」


「昨日も同じことを言っていたではないか」


「昨日ですから」


「まあ……そうだな」


 言いながら、レイネのお腹を撫でる。


 パンパンに張っていて、温かい。


「陛下……くすぐったいですっ」


 レイネは、頬をぷくーと膨らませていた。


 非常に子供っぽい仕草だ。幼い頃から礼儀作法を叩きこまれてきた、齢十七の伯爵令嬢には、とても見えない。


 私はレイネのお腹から手を離して……人差し指で、レイネの柔らかい頬を突っついた。


 空気が抜ける小さな音を立てながら、レイネの膨らんでいた頬が元に戻った。


「もうっ、陛下は甘えん坊ですね。もうすぐ父親になるんですから、そんなことではダメですよっ!」


 厳しい口調のレイネの言葉に、私はフンッと鼻を鳴らした。


「だからこそではないか。赤ん坊が生まれてしまっては、レイネを取られてしまうからな。

 甘えられる時に、存分に甘えるのだ。この一月は、レイネの傍を離れぬからな」


「……御政務は、キチンとしてくださいよ?」


「嫌だ」


 パシンと頭を叩かれた。


「陛下の肩には王国民の生活が乗ってるんですよ? 冗談でも、そんな事を言わないでください」


「うっ……す、すまぬ。もちろん、分かっているぞ?」


「約束ですよ?」


「ああ……時間のある時だけ、会いに来ることにする」


 半ば本気で、レイネの傍にずっと居ようかと思っていたのだが、この様子だと許してはくれないだろう。本当に怒られてしまう。それは嫌だ。


 諦めるしかない。


 自分の中で結論を出して……私は憎悪の眼差しをレイネのお腹に向けた。


「どうしました? いきなり、そんな目をして?」


「……実を言うとな、私はコイツに少しだけ嫉妬しているのだぞ?」


 私から――ハインエル王国国王たる私からレイネを奪うとは……なんて怖い物知らずな奴だ。


 覚えておけよ?


 コツンと、軽くレイネのお腹を小突く。


 すると、向こう側から返ってくる振動があった。


 全身の血液が沸騰するのを感じた。


「レイネっ! いま、動いたぞっ!」


「それは、動きますよ……生きてるんですから」


 レイネは軽く噴き出してから続けた。


「陛下、昨日も同じように驚いてましたよ?」


「もう、生まれるのではないか!」


「大丈夫ですよ……あと、一月もあるんですから」


「だがっ、動いてるぞ?」


「そういう物です」


「そ、そうか……?」


 うーむ、昨日も同じことを言われたが……解せぬ。


 もう一度レイネのお腹を小突いてみても、今度は何も反応はなかった。


 中に……いるのだよな? 私と、レイネの子どもが。


 未だに、実感が湧かない。自分の子どもが、ここにいることが。不思議な感覚だ。


 男の子だろうか、女の子だろうか? どちらでも嬉しいが……とにかく、元気に生まれてきてほしい。


 レイネの膨らんだお腹を手のひらで撫でる。


 温かい、パンパンに張ったお腹の感触。


 表面は柔らかくて、その奥に拍動を感じる。


 レイネの……そして、私の子どもの命の感触。


 元気に、生まれてきてほしい。


 そんなことを思っていたら――突然、レイネが私の頭を両手で抱え込んできた。


 しゃがんでいた私は、踏ん張りがきかずに、前のめりに倒れ込んでしまった。


 ぽすんと私の頭を受け止めたのは、レイネの柔らかい二つの胸だった。


 同時、ちょっと甘いような、心の底から落ち着く香りが私を包み込んだ。


 ……目を閉じると、視界は真っ暗だ。


 今の私の世界は、レイネの体温と、規則正しい心臓の拍動だけ。


 そこに、落ち着いた音色の、レイネの声が滑り込んできた。


「……女の子なら、エトナにしましょう」


「エトナ?」


「この子の名前です」


 黙って、私はレイネの優しい声を聞いていた。


「私の一番大好きな果物の名前なんです。

 私の地元のスピリタス領の近くでしか育たない果物なので、あまり知られていないのですけど、すごく美味しいんですよ」



 ○○○



 目を覚ますと、髪の毛が汗でジットリと湿っていた。


 寝間着も同様に湿っていて、肌に張り付いて気分が悪い。


 寝台から身体を起こした私は、服を脱いだ。そこらの床へと適当に放っておく。


 寝間着のことなどは即座に意識から外れ、代わりの頭の中を占めるのは、先ほど見た夢のことだ。


 ここ一年以上、夢を見た記憶は無い。睡眠をとるのはせいぜい日に三、四刻だけだが、常には暗闇だけを見つめる時間だ。


 虚空を視界に捉えながら、右の手のひらを閉じ開きする。


 ……まだ、感触が残っている。


 少し高めの、レイネの体温。


 ピンと張った、レイネのお腹の質感。


 私の問に答える、レイネの穏やかな声。


 私は手のひらを寝台に擦り付けた。


 そこに、何かがこびり付いている気がした。


 ただの夢。それは分かっている。だが、どうしても止めることができない。


 私が手のひらを擦り付けるのを止められたのは……部屋の扉を叩く音が聞こえた時だった。


「陛下、お目覚めでしょうか」


「ああ。入って構わぬぞ」


「失礼いたします」


 寝室に入ってきた若い女官は、私の姿を見て目を丸くした。


 おそらく、私が全裸だからだろう。


 だが、そんな様子も一瞬で、即座に女官は私に向けて最敬礼をした。


「ご朝食はお部屋で召し上がるとのお言いつけでしたので、お持ちしました」


 私は何も答えずに寝台から足を落とし、部屋を横断した。


 向かうのは、部屋の中央に置かれている小さめの机だ。


 女官は部屋の外から、朝食が乗せてある台車を室内に引いてきた。


 ――臭い。


 突然の臭気に、私は女官に目を向けた。


 ……臭い。 


 この女官が臭いのは毎度のことだが……今朝は、いつにも増して臭い。


 私の視線に気付く様子もなく、女官は私の傍までやってきた。応じて、臭気が強くなる。


 女官は、手際良く台車から皿を取って、それを机の上に並べている。


 全ての用意が終わって、女官は深々と頭を下げた。


「すぐに、係の者にお召し物を用意させます」


 頭を上げて、女官は私に背中を向けた。背部は大胆に白く谷型に切り取られていて、肩甲骨までを露出している。


「待て」


 言いながら、私は女官の手首を握りしめた。


 「あっ……」と小さく女官が漏らすのが聞こえたが、気にしない。そのまま力一杯女官の腕を引っ張ると、軽い身体は容易によろめいた。


 私の胸の中に、ちょうど女官の頭が飛び込んできた。


 頭部には半輪型の装飾具がはめられている。金色の髪の毛からは、香油の香りが仄かに漂ってくる。


「へ、陛下……なりません」


 潤んだ薄青色の瞳は恥ずかしそうに逸らされ、私の胸板へと向けられている。


 口では駄目だと言っているわりに、女官は抵抗らしき抵抗をしていない。むしろ、自ら瞼を閉じて、私に身体を委ねようとしているように見える。


 右手で机上の果実水入りのグラスを手に取る。


 自分の唇にグラスの縁をあてがい、一口分の液体を口内に注ぎ込む。


 左の中指で、女官の柔らかい唇を撫でた。


 熱っぽい吐息が女官の半開きの口から漏れる。


 ――臭い。


 感じた瞬間に、私は息を止めた。


 吐息の流れに逆らうようにして、人差し指と中指を女官の口の中に滑り込ませる。


 滑った感触が私の指に絡む。


「……へい、は」


 湿っぽい音に交じって、呂律の回っていない声が聞こえた。


 二本の指に力を入れると、抵抗なく小さな口は開かれる。


 桃色の口内が、私の視界に晒された。


 中央では、丸々と太った芋虫が蠢き、私の指の上を這っている。不快感しか生まれない光景だ。


 内心を押し殺し、私は自分の唇を女官の唇に重ね合わせた。


 同時、女官が私の首に両手を回してきた。貪るように顔を押し付けてくる。


 開かれている女官の口に、私は口に含んでいた果実水を注ぎ込んだ。


 少し驚いたようで、女官の動きは一瞬だけ停止した。


 ……だが、受け入れることにしたらしい。コクリと、喉の鳴る音が微かに聞こえた。


 瞬間、私は女官の胸を押しのけた。


 脂肪が邪魔なせいで上手く力が伝わらなかったが、全力を込めると、私の首に絡みついていた女官の腕は解けた。


 支えを失った女官は、無様に床に尻餅をついている。


 目を見開き、愕然とした表情を向ける女官を、椅子から立ち上がった私は見下ろしていた。


「……へ、陛下?」


 私は床に唾を吐いた。右腕で口元を拭う。


 ……そろそろか。


「うぐぅッ!?」


 突然、女官は自分の首元を押さえた。


 次の瞬間には、白目を剥いて痙攣を始める。


 しばらくの間、女官は床の上で悶ていた。その様子を、私は微動だにせず見下ろしていた。


「がっ……ごぼぇッ……」


 口と鼻から真っ赤な液体を噴き出して、女官は動かなくなった。


 冷たさを感じて足元に目を向けると、赤い飛沫が(くるぶし)の辺りに付着していた。


 ……湯浴みをする必要がありそうだ。



 ○○○

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