雲は竜に従い風は虎に従う
絶え間なく打ちつける雨粒が風防で弾け、勢いよく視界の外へ消えていく。
「さあああああむいいいいいいいいいいい!」
雨とエンジン音に負けないくらいの声で後席が吠えている。
「あと少しだ」
「それさっきも言ったよね!?」
可動キャノピーがあるとはいえ、半ば吹きさらしの後席は夏場でも冷えるだろう。
「それに今日中に帰りたいって言ったのはリベカだろ」
「うぐ……」
奉天からの帰路、あと少しでハイラル市街が見えてくるというあたりで俺たちは特大の積乱雲に出くわした。
新京まで引き返すか、北西のハイラルに迂回したいところだが燃料の残りが心許ない。
幸い雲底はそこまで低くないが、気流に煽られて機体が不気味に揺れる。
「抜けられそう?」
「あぁ!」
正面の視界が明るくなっていく。
雲の切れ間が近い。
「うわっ!」
雨の下から出た瞬間、目の前を横切った機影に思わず操縦桿を引いた。
――カーチスP-40。
ほんの少し前までは敵機だったシルエットを見ると、やはり身構えてしまう。
「なに、竜!?」
リベカも驚いた様子で声をかけてきた。
「いや、武装民間機だ……撃たなくてよかった」
反射的に解除した安全装置を戻し、大きく息を吐いた。
「撃っちゃダメでしょ!」
カーチスのパイロットはキ45に併進して中指を立てて突き上げる手信号を送ると、南へ飛び去って行った。
「なんなんだアイツは……」
ようやく眼下に、ハルビン市街地が見えてきた。
「さっきの機体、胴体に翼の生えた虎が描かれてた」
高度500メートルで一旦滑走路に沿って飛び、軽く機体をバンクさせて滑走路の様子を確かめる。
ところどころにできた水たまりが陽光をぎらぎらと反射しているが、地盤の硬いところを選べばなんとか降りられそうだ。
駐機場に並ぶ機体も、日の丸もめっきり減った。
今は五色の満州国の国章をつけた武装民間機と、旅客用の小型機があるだけで、元からいた陸軍の航空機はほとんど引き払っている。
「よし、降りるぞ」
脚とフラップを下ろし、第三旋回へ。両エンジンの上の赤ピンを確かめる。
第四旋回。着陸目標点は水たまりが目立つので少し先の方を狙う。
どすん、と着地の衝撃が機体を揺さぶる。
スロットルを全閉にし、じわりとブレーキを踏む。
「おっと」
左輪が滑って機体を振られそうになり、ブレーキを緩める。
隅っこにある武装民間機用の駐機場までは自走だ。
マフラーを緩めて天蓋を開くと、むっとする湿った風が頬を撫でた。
「停止……と」
エンジンを止め、小物入れから荷物をポケットに突っ込んで立ち上がる。
「リベカ、大丈夫……じゃあなさそうだな」
濡れた髪が額に張り付いた姿に思わずぎょっとする。
「水炊きになるかと思った」
後席の計器を拭き終わったリベカはつなぎを半分脱いで袖のところを絞りはじめる。
「ぎゃっ!?」
悲鳴に続いて大きな水音が背後から響いた。
「あーあ」
「もうやだ……」
振り向くと、顔まで茶色になったリベカが力なく翼を震わせていた。
「肌着を操縦席に干すなって言っただろ」
「だってこっちのほうが早く乾くんだもん」
宿舎で着替えてきたリベカはキ45の空中線につなぎを干しながらこちらを振り返った。
「ねぇマサ、あの大砲元に戻しちゃダメなの?」
先月川崎の技術者が取り付けた37ミリ砲は装填するリベカからは不満たらたらだ。
曰く「砲弾は重いし装填は手間だし弾の大きさだけが取り柄の弾の出るゴミ」とまで言われる始末だ。
「オーバーホールの代金まけてくれるって言われたら外せねぇだろ」
俺は脚についた泥をはらい落としながら答えた。
「マサがバリバリ稼げばいいんだよ」
「その稼いだ金をモリモリ食うやつがいなきゃな」
「なんでぇ、また離婚の危機か?」
「「まだ結婚してない!」」
俺とリベカの返事が見事に重なり、東は苦笑した。いまでは日本が満州国に残すところ僅かとなった飛行戦隊の一員として各地を回っているらしく、俺も先月以来だった。
「どうだい、デカブツの調子は」
「あいにく大物とご無沙汰で実射ができてないんだ」
あじあ号の進路上に現れた巨大竜を落とした後、2頭ほど仕留めたがどちらも機首の12.7ミリで事足りる小物だけだ。
「マサ、お前変わったな」
「そうか?」
2年もこんな騒々しいのとやくざな商売をしているから、堅気の感覚とはずれていっているのだろうか。
「操縦席に女もんの下着を干すなんてひでぇ趣味だぞ」
「おいリベカぁ!」
胴体に馬乗りになり、旋回銃に油を注していたリベカの背で白い翼が広がった。
「だって前席のほうがよく乾くんだも~ん!」
リベカはばつの悪そうな顔を浮かべて言い訳をこぼした。
「ったく、恥じらいのない……で、また厄介事か?」
「マサ、例のアメリカ野郎どもの話は聞いたか?」
聞くも何も、武装民間機乗りの間では最近その話で持ち切りだ。
「あぁ、俺もさっき上でカーチスとぶつかりそうになった」
中指を立てて離脱するカーチスを思い出し、再び怒りがこみ上げる。
「ったく、協調路線だかつながる空だか知らんが、世も末だ」
「たぶん今日の月例会で話が出ると思う。リベカ、水抜きと注油はあとどれくらいかかる?」
「10分くらいかな? 後から行くね!」
「んじゃ先行ってるぞ」
キ45の水抜きをリベカに任せ、俺は先に月例会の会場に向かうことにした。