時量師神
至が用事があると告げて大地と別れてから数刻。
至は時間屋の前に立っていた。
人生のほとんどを過ごしたけれど、ここに"帰る"ようになったのはここ数ヶ月。たったの数回。
しかも今の至にとって"帰る"という表現は、この場所にあまり適さないような気がしていた。
帰ろうと思った時に浮かぶのは、久谷家の、季節の花々や木々に囲まれた重厚ながらも温かみを感じる家であり、庭仕事をする清太郎であり、突飛ながらも世話好きな大地であり、突然現れた他人である自分に身内のように接してくれる一粒の両親。
そして一粒。
至にとって一粒は自分の世界を変えた人だ。
驚き、戸惑い、喜び、羞恥心、好奇心、苛立ち、憐憫、悲しみ、欲望、慈しみ
あらゆる気持ちを至に与えた。
苦しくもあった。
全部知らなかったものをこの歳で知るのは
知らなかった今までを知ることでもあった。
しかし圧倒的に根底にあったのは執着だった気もする。
時間屋で、訪れては過ぎ去っていく客たち。
それこそ己の父との別れさえ、惜しまなかった気がする。
去っていくと分かっていたから。
一粒も一度は去った。
彼女は逃げた。
でも逃げた背中がなぜか、至を呼んでいるような駆り立てられるような気持ちになって、気がつけば追いかけていた。
そう、初めて去ることを受け入れなかった。
実際ともに過ごしてみると、不遇な生い立ちのせいか、少し他人に踏み込むことに怯えるところもあるけれど、温かい家族に支えられている、とても素直な優しい普通の女の子だった。
時間屋の中で、時が止まったように過ごしていた至の時間が進むにつれ
久谷家で過ごす間にも、
自分はやはりもとの止まった時の中に戻るべきなのかと、背後から大きな膜が被さってくるような、思考がぼんやりと溶けていく時が何度かあった。
その度に、一粒がどこからともなくひょっこりと現れるのだ。
『時量さん』
不透明な霞んだ膜に一粒の砂粒が、ポツリと落ちる。
そこから広がる波紋が、少しづつ、歪んだ油膜を切り開き、視界が晴れていく。
そして、至は文化祭で一粒の姿を見て、自分の心の中を分かってしまった。
そして、その意味が分かってしまった。
だから時間屋に行かなければならないと思った。
もしかしたら最後の"帰り"になるかもしれないけれど。
『こんばんは。』
相変わらず薄暗い店内の中には、奥の作業台に先代が座っているだけだ。
数ヶ月前までは薄暗いと思ったことすらなかった。ここだけが至の世界だったから。
一粒と50年前の記録を調べた後も、至は時間を作って数回1人で記録を見返していた。
その時は気にならなかった小さな違和感が、今となるとまるで気づくのを待つように際立たせているようにすら感じる
『50年前の記録を見て、先代にお聞きしたいことができました。』
『…』
話を聞いてはいるだろうが、先代の視線は至の方を見てはいない。彼もこの後至が指摘する物をわかっているのだろう。
『大砂時計の砂の量が、記録と合っていない。僅かな量などではない。おそらくおおよそで、30年分ほど。』
『そうですね。』
至は時間屋の仕事を無責任に行なってきたわけではないと、自分では思っている。
ただそうあるものだと、目の前の物を受け入れ続けたことで向き合ってなかったのかもしれないと今では思う。
大砂時計の量と、砂時計製作の記録のとのずれも、そういうこともあるのかもしれないと、気づきつつも深く考えなかった。
しかし、今日文化祭の一粒を一目見た時に、馬鹿みたいな幻想を抱いてしまった。
30数年前、時間屋の後を継いだばかりの頃、作業台に座っている至。
扉が開いて、1人の女性が訪れる。
至は一瞬で理解する
"ああ、私にも訪れたのだ"と
そしてその女性は、花柄のワンピースを着た一粒だった。
『正確には34年だね。数字が半端なのはヒグレの慌てん坊かな?』
答えた声は、作業台に座っていた先代の、いや、父ヒグレのものではなかった。
いや、最初からずっとヒグレではなかったのだと今では至も分かっていた。
男は長い髪に、白の狩衣を纏っており、色彩こそ自分と似通っているものの圧倒的に纏う空気の重さが違った。
おそらく人ならざるもの。
『至、今回の最初のはじまりはヒグレだったんだよ。』
父ヒグレに、幼い頃一度だけ聞いたことがある。我々時間屋の祖は、時量師神。
火の国の神、伊弉諾ミコトがその身に身につけていた袋を投げ捨てた際に生まれた神様。時を計り、調整し、整理するだけの、強くはないその神様が、私たちの時間屋を作ったと。
狩衣の青年はゆったりとした動作で立ち上がり、まるで世間話でもするように話し始めた。まるで見てきたことのように。
『ヒグレは今までの時間屋に見ない、とても愛情深い子だった。いや、僕も"あの時"まではあの子がそんな子だったなんて知らなかったよ…。』
至の父であるヒグレは、通例通り訪れた運命の女性、つまり至の母を、本当に愛してしまった。
たった一度の逢瀬。
たった一度だけ結ばれて、去っていった女性。
しかもヒグレがそのことに気がついたのは彼女が自分の元を過ぎ去ってからであった。
ヒグレは初めて別れることの辛さを身をもって知った。
自然とヒグレの愛情は、今は居ない彼女の忘れ形見である至に向いた。
時間屋は代々似たような容姿に産まれる。おそらく祖である時量師神の先祖返りなのだと、ヒグレは考えていた。
至の見た目に愛した彼女の面影などない。
けれど、至が成長するにつれ、子供らしい世界への好奇心や、外への隠しきれない憧憬、それらのはしばしに、むしろ押し殺していた自分を見てしまった。
彼はきっと自分と同じように苦しむ。
愛を知ってから、それを失うことに。
ではいっそ、知らなければ。
時間屋と至、どちらをとるかなど、ヒグレには迷う価値もない天秤だった。
ヒグレは代替わりした後、"その時"が訪れるのを慎重に待っていた。
代替わりしてからも、何かと理由をつけて至を奥で作業させることにした。
自分が店の表に立ち、至に気付かれないように。
そして"その時"は思っていたよりも早く訪れた。
『すみません、勝手に入ってしまって。…お店かと思って』
至よりも年上だろうけれど、花柄のワンピースを着た素直そうな愛らしい雰囲気の女性。
キョロキョロと店内を見渡しているその様子をあえて無視して、ヒグレは素早く彼女の手に用意しておいた物を握らせる。
『ここには二度と来てはいけない。そしてそれを持っていってください。もしも、時間を戻したいようなことがあったら、使ってください。』
鬼気迫るようなヒグレの雰囲気に気圧されたのか、女性は一度だけ頷くとすぐに店から走り出ていった。
ヒグレは、自分のしたことの重さがのし掛かったように、がっくりと肩を落として項垂れた。
さすがに時戻しの砂時計を騙して使わせるまでは出来なかった。いや、渡した時点で騙したも同然だ。
もしも彼女が正しい条件が揃っていない状態でそれを使えば、彼女が時の中でどうなるか分かったものではない。
至を守ろうとしたとはいえ、罪のない彼女の運命を捻じ曲げてしまったことをヒグレは自覚している。
いや、本当に自分は至を守ろうとしたのか?
守りたかったのは、過去の自分か。
『ヒグレにより君と出会うことのなかった彼女は、おそらく不正な時戻しにより時軸の中を彷徨っただろう。正しい位置がなかったのだから。』
至にとって、この事実は驚きよりも腑に落ちたという心情だった。そしてそれは意図して捻じ曲げられていた自分の運命に、特に何の怒りも湧かない自分にも。
『ヒグレを恨むかい?』
『いいえ。』
至の反応は、狩衣の青年にとって満足するものだったのか、にっこりと微笑んで頷いた。
『"彼女"はどうなったのですか?』
『僕は見ていただけで、何もしてあげられなかった。彼女は時軸から外されて、ゆっくりと消えていった。…でもね、彼女というか、彼女の小さなカケラが不思議と残ったんだ。』
ああ、
『その小さな小さなカケラは、時軸の中を漂い、何度も何度も消失を免れて、もとの戻された34年の時を経て、なんと己が弾かれた小さな穴の隙間から、時軸の中に戻ったんだよ。その時にはさらに小さくなって、まさに砂の一粒くらい。』
やっぱり、君は
『そして、時軸の中でなんとか命になったその一粒は、残念ながらかつての彼女ではなかった。あまりに小さかったからね。それでも、時軸は異物としてすぐに異物の一粒から生まれた彼女を弾き出そうとした。』
それでも、
『とても運の良い子だった。時を掛けて人間に大事にされ続けた樹木が、その時を経た力で、我が子のように彼女を時軸から守り続けた。』
運だけではない、御神木だけではない、彼女を愛する家族が、彼女を守ったんだ。
『でも、時の因果はどうしても避けられないのか、御神木は大きな傷を負い、力を失い、彼女は大砂時計に導かれてしまった。』
あの日、まだ老いた身体の時、一粒を見て、純粋に突然時間屋に訪れた少女に驚いた。
時戻しの客は年取った大人が多い。
流れた時間の中での後悔を持って訪れるから。
『あの時、大砂時計ははじめは確かに一粒を時軸から外そうとしたんだよ。でもその瞬間に至と一粒出会った。時軸は正しいほうに調整される。とても面白いことに、君たちの"運命のタイミング"の方が正されるように時の調整が変わった。』
だから一粒ではなく、時計屋が戻ったのだ。
出会いの時の場が正しい位置に戻された。
『だからね、君たちは2人でいれば"正しい"んだ。』
至はだんだん自分の思考がぼやけてきていることに気が付かなかった。
もう抗えないほどの濁った分厚い膜が自分を覆っている。
しかし、思えばこの膜は時間屋に居た時は常にあったような気もする。別段これでいいと、ここから抜け出そうという気もなかった。
でも今はダメなんだ。
『一粒さんは、何も間違っていません。』
『そうかな?』
『御神木が守れなくなった今、大砂時計を彼女を代わりに、せめて彼女が生きている間に守護に。』
『それはダメなんだ。』
『…なぜ』
視界が濁ってきたのは、自分の目だけではなかったとようやく至は気づく。
時間屋がゆっくりと、この空間が濁って、まるで崩れ落ちる砂のように歪んでいく。
大砂時計すらその歪みに引き摺られて、あれだけ美しかった曲線はぐにゃりと醜くひしゃげていた。
『時間屋が、もうなくなるから。』
"至、最後の僕の子。さようなら"
至の意識は、その神の言葉を最後に砂に消えた。




