針よりも小さかった夜
ミラは、いつの間にか時間の感覚を失っていた。けれど、走り出したと思ったドライブは、驚くほどあっけなく終わる。思考が不安の渦に沈みきる前に、車は静かに停止した。エンジン音が途切れ、その直後、ふわりと身体が浮く感覚。アドリアンが夜の冷たい空気の中へ踏み出したのだと、遅れて理解する。
光が視界に差し込んだとき、彼女は滑らかな金属の上に座らされていた。冷たく、継ぎ目のない感触。手術用の鋼材を思わせるそれは、宴会用のテーブルほどもある巨大な研究デスクの中央だった。
部屋は四方を完全に密閉され、壁も床も天井も、無駄な線ひとつない。天井には同心円状の柔らかな白光が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。宙に浮かぶガラス製モニターの表面を、ホログラムの操作画面が波紋のように走り、アドリアンが通り過ぎるたび、淡く明滅した。彼の背後には、淡い青色に光る巨大なバイオドームユニット。内部には培養カラムが整然と並び、それぞれが微かに脈打ちながら、リアルタイムでバイタルと仮想DNA鎖を折り畳んでいく。
ミラは、ゆっくりと身体を回し、目を見開いた。
——ここは、ただの研究室じゃない。
——要塞だ。
しかも、自分はとても、とても小さい。
「……ここで、何をするの?」
沈黙を破ったミラの声は小さい。もっとも、今の彼女にとっては、すべてが小さいのだけれど。
アドリアンはフェイスシールドを装着し、片手で滅菌パックを開封する。臨床照明の下で、細い針がきらりと光った。信じられないほど細い。けれど、安心できるほど小さくはない。
「ま、待って——」
ミラは反射的に後ずさる。裸足の踵が金属の天板で滑った。
「待って、やめて。アドリアン、何してるの?」
さらに後ろへ下がろうとするが、隠れる場所はどこにもない。冷たく、完璧に整えられた研究デスクの上。逃げ道はすべて開けすぎていて、明るすぎて、清潔すぎた。
だから彼女は、できることを一つだけ選ぶ。
ぎゅっと目を閉じ、両手で顔を覆う。見なければ、消えてしまえるかもしれないとでもいうように。
待つ。
一拍。
さらに一拍。
……何も起こらない。
恐る恐る、指の隙間から片目を開ける。
アドリアンはそこにいる。マスクをつけ、無言で。
けれど——針は、彼女に向けられていなかった。
それは彼の腕に向けられ、静かに、自分自身の血を引いている。濃い紅が、言葉もなくチャンバーに溜まっていく。
彼はただ採血を終え、チューブを封印し、淡々と遠心分離機へ向かう。動作に一切の迷いはない。まるで日常作業の一部のように。最初から、彼女に触れるつもりなどなかったかのように。
「まず、菌が僕の細胞に反応するかを見る」
落ち着いた声だった。
彼は保存された菌類が浮かぶ試料ユニットへ向かう。栄養ゲルの中で、菌は微かに脈動している。アドリアンは手慣れた動きで封じ込めスリーブを起動した。負圧制御された密閉ボックス。ハプティックグローブで操作される精密ロボットアーム。彼自身の手が、直接サンプルに触れることはない。
内部で、一本のロボットアームがマイクロバイオプシーを抽出する。髪の毛よりも細い、糸のような菌組織の断片。それは即座にバッファ溶液へと移され、マイクロカプセルに隔離された。
アドリアンは自分の血液サンプルを、自動精密注入器でカプセルの側面ポートから注入する。封印されたそれは、高感度・高速応答型の生体反応解析チャンバーへと移送された。臨床用ではない。彼が自作、あるいは改造した装置だろう。
ミラは動けずにいた。デスクの端で、彼を見つめている。地雷を解除した人間が、そのまま娯楽のように分解を始めるのを見ている気分だった。
アドリアンは振り返らずに、声を落とす。
「菌の一部だけを取った。ごく小さな断片だ。それを僕の血と混ぜて、君のときと同じ反応が出るかを確認している」
返事はない。それでも彼は続ける。
「細胞変化、血液への攻撃、毒素放出が起きれば、装置が即座に検出する。何も起きなければ、普遍的な反応ではないと分かる。特定の条件……あるいは、特定の人間にだけ反応する可能性が高い」
ミラは喉を鳴らし、金属面に指を食い込ませた。
「……つまり、私が……選ばれたってこと?」
アドリアンはスペクトロメーターの感度を調整しながら、データを見つめる。最初のライン——正常。二本目——変化なし。
振り向かずに言う。
「君の場合、反応はほぼ即時だった。接触から数分で縮小が始まっている。つまり、菌は高速な生化学的相互作用で作用している可能性が高い」
ミラは眉をひそめる。「それって……?」
「皮膚からの吸収。経皮反応かもしれない。あるいは、神経系に関連する深層トリガー。神経化学反応は、生物学的特性——遺伝子と密接に関係している」
彼女が口を開く前に、彼は続けた。
「それと……正直に言うと、魔法生物学的ハイブリッド機構も排除できない。メリディアン地下の図書館が実在し、君の記憶が事実なら、この菌は、我々の理解を超えた論理体系に部分的に束縛されている」
そこで、アドリアンはようやく肩越しに彼女を見る。
「ただし、君と同じ方法では自分を曝露しない。直接触れない。顕微レベルの断片を、密閉血液サンプルに導入した。それだけで、時間軸は変わる」
「……どれくらいで分かるの?」
息を詰めた問いに、
「十五分から三十分。反応があれば検出される。今のところ——」
彼はモニターを指で叩く。静かな緑のラインが、安定して平坦なままだ。
「……何もない」
「それに、もう一つ調べたいことがある。君の遺伝子に、外部刺激への感受性を増幅する要素があるかもしれない。感情変動や、カフェインやアルコールの微量摂取に対する反応が、通常じゃない。体格や体重を考えると、ワインソースやお茶であそこまで反応するのは異常だ」
ミラは瞬いた。「……私、遺伝子的に大げさってこと?」
「遺伝子的に反応性が高い、だ」
彼は淡々と修正する。
「基本的なDNA配列を調べたい。血液が必要だ。全身規模の物理変化が起きている以上、遺伝子レベルで許容している何かがある。知る必要がある」
ミラは固まった。
「……何が必要だって?」
冗談めかした声だった。そう言えば、現実味が薄れる気がして。
「一滴だけだ」
あっさりした答え。
ミラは、完全に動けなくなる。
もともと白い顔色が、さらに一段薄くなる。呼吸が引きつる。その反応は、言葉より雄弁だった。口元の緊張、速すぎる肩の上下、ゆっくりと広がる恐怖の瞳。
彼女は彼を見る。まるで、歪んだ親指姫の物語に出てくる悪役のように。白衣を纏った闇の魔法使いが、羽のない妖精を摘み上げ、旅が始まる前にガラス標本に挟もうとしているかのように。
アドリアンは、静かにキットからそれを取り出す。
二本の指に挟まれた、極小の針。精密で、微小生物用に作られたもの。彼女にとっては、剣と同じだった。
「スケールは合わせてある」
野生動物を罠の縁へ誘うような、穏やかな声。
「一秒だ。目を閉じて数えろ。終わる前に終わる」
唇が震える。
動けない。
「……一滴だけ、って言ったよね」
運命の契約を確認するような囁き。
彼は頷く。
「一秒?」
もう一度、頷き。
ミラは喉を鳴らし、風に揺れる葉のように震えながら言う。
「……嘘ついたら、許さないから」
そして覚悟を決め、ぎゅっと目を閉じ、雷でも来るかのように顔を背けた。
滅菌バイアルが開く小さな音の向こうで、アドリアンの声が落ちてくる。
「この後、温かいものを食べよう。ちゃんとした服も用意する。……それから、もし望むなら、花の家を作ろう。今の君に合ってる」
「ちょっと、アドリアン——何言って……」
ミラは目を見開き、睨みつける。
けれど、言葉は途中で止まった。
もう、終わっていたからだ。
彼は冷静にバイアルを封印している。得意げでもない。
「叫ばなかったな」
静かな評価。
「何を調べてるのか、全部説明して」
今度の声は鋭かった。制御を取り戻そうとする必死さを孕んで。
アドリアンは一度、頷く。
「結合組織マーカーだ。組織弾性と急激な体変化を結びつける希少なプロファイルがある。可能性は低いが、変身現象なら無視できない」
一瞬、言葉を選び、続ける。
「それと、深層配列比較も必要だ。高解像度のヒト参照ゲノムと照合する。菌との接触は、理解しきれないレベルで君を変えた。構造異常——変異、重複、非コード領域の異常活性があるかもしれない。エピジェネティックな変化でも、痕跡は残る」
「……つまり、本物の科学、ってことよね。妖精理論じゃなくて。今やったら、結果はいつ?」
「大学設備なら、一日か二日。それで、ここに来た。これは第四世代ナノポアシーケンサーだ。帯電膜を通過するDNAをリアルタイムで読む。ライブラリは揃ってる。基本プロファイルなら二時間以内」
「全体解析は時間がかかるが、構造フラグや重複異常、タンパク質コード領域の歪みは——」
彼は言い足す。
「三十分で、最初の兆候は見える」
「……三十分で、私が遺伝子的に呪われてるか分かるってこと?」
「遺伝子的に、特異だ」




