この教室は知らない──彼のペンケースに少女がいることを
ミラはアドリアンのペンケースの中に収まっていた。
即席のハンカチ製ワンピースを着せられたまま。
蓋は少しだけ開けられ、ノートPCの角度の影と光が半々に落ちてくる。
座っている位置から、彼の顎のラインが見える。
アドリアンは、まるで何事もないような顔をしていた。
まるで“ペンケースに人形サイズの少女を隠しながら講義を受ける”なんて行為が、学問のルーティンのひとつであるかのように。
教壇の前では、アルドレン教授がまた咳払いした。
乾いた音。
講義は脱線していない──していないのに、まったく集中が戻らない。
教授はまだアドリアンを見ている。
本当に、これが現実なのか確かめようとするように。
一時間前、ミラ・ラクスパー──出席率も参加率も模範的な“シラバス優等生”──は、突然の欠席届をメールで送ってきた。
そして今、この教室にはアドリアン・ヴェイルが一人で座っている。
落ち着き払って。
ノートPCを少し前へ傾けて。
ほかの全てを霞ませるような存在感と一緒に。
教授は喉を鳴らし、視線を学生たちに戻す。
アドリアンを見すぎたら、自分まで“何か”に巻き込まれそうで。
何度か口を開くが、言葉が形にならない。
──あの二人は、一体何をしている?
──そして何故、教室全体が“たった一歩の踏み外し”で、誰かの秘密に迷い込む気配に満ちているのだろう?
アルドレン教授が新しいシナリオを説明し始めた瞬間──
国境横断型の資源圧、AI連携クラスター、人口移動予測──
ミラはもうスライドを指していた。
アドリアンを指し、空中を指し、まるで黒板の前に立つ講師のように、次のページが切り替わる前の三秒で伝えようと必死に。
そこでようやくアドリアンがタイピングを始める。
いつもの静かな正確さで。
淡々と、教授の声をリアルタイムで書き写していくように。
画面には整然としたロジックブロックが積まれ、
グラフには小さな注釈が記され、
教授の独り言のようなぼやきまで綺麗な略記で記録されていく。
ミラの腕が、ゆっくり下がる。
──が、十秒後。
彼が“ミラ的に重要な一文”をスキップした瞬間、
両手を派手に広げて「なんで飛ばすのよ!?」と口パク抗議。
そのまま大げさに仰向けに倒れ込む。
アドリアンは一度も顔を上げずに、追記した。
ミラは即座に起き直り、満足げに頷く。
三十分が経つ頃、教授が冗談めかして
「ここでシミュレーションは破綻しやすい」と言った瞬間、
ミラはブンブンと両腕を振り回して全力警報。
アドリアンは意外にも、その一行にハイライトを入れた。
スクリーンの向こうで、クラスはただスライドを眺めている。
誰も知らない。
この教室で、本当に渦巻いている“嵐”は──
アドリアン・ヴェイルの机の上、小さなペンケースの中で静かに燃えているのだ。




