52.
どこかで見たことがあるような天井。しかし、それがどこであるかを思い出せない。
鳴り響くアラーム。人の声、足音。けれども、それらは直にではなく、どこか遠くで聞こえてくる。
「……千春さん、目が覚めましたか」
人の顔が視界に入る。愛香ではない。彼女ではないが、最近どこかで見たことがあるような顔。まばたきを一つ、二つすると、その姿が鮮明になってくる。
「……千里?」
「よく覚えていましたね。ああ、覚えてます? 撃たれた時のこと」
撃たれた? 撃たれたのは他の誰かではないのか?
「……僕が撃たれたのですか」
息が少し苦しい。体中に機械を繋がれているのだろうか。それなら……
「覚えていませんか……撃たれたのは千春さん、あなたです。僕の兄二人を庇って、二箇所撃たれたんです。銃弾は二発とも肺に達していました。それを僕の麻酔の下、兄二人が手術して摘出しました。その時に気胸――肺がしぼんでしまう状態と、出血がありましたので、血液をドレーンで出して今輸血しています。あまり動かないように」
兄二人――昌志さんと、健人。ああ、そうか、二人の専門は呼吸器だったか。しかも、あのカードが役に立った、ということらしい。しかし、その二人を庇った、とは。
「お兄さんたちは、狙われて、いたんですか」
声が嗄れている。少しずつしか発声できないが、せっかく彼らの弟がいるのだ、疑問をそのまま放置するのは癪に障った。
「犯人は小野坂誠でした。既に逮捕されています。昌志が、あなたも例の事件を知っていると言っていましたので、それが誰か分かるでしょう。二日前に、健人への殺人未遂事件での服役から出所していたそうです。拳銃をどこから調達したかはまだ分かりませんが、兄二人がまだ生きていて、しかもこの病院に出入りしているのを、向かいのマンションから把握していたようです。そんなに兄二人が許せなかったのでしょう……それで、二人を狙ったところ、あなたがとっさに飛び出して庇ったのです。当たっていた位置的に、特に当時の執刀医だった健人を狙っていたようです。昌志はともかく、健人は術後でしたし、もしどこに当たっていたとしても、命は危なかったと思います。その点は、二人の弟として、あなたに感謝しています」
僕は複雑な気持ちだった。僕も兄弟たちも命は助かったとはいえ、危険な目に巻き込まれたのは確かだ。彼らの関わった手術で愛香の姉が亡くなり、その報復で彼らが襲われ、愛香が亡くなった姉を追って自殺を図ってこの病院に運ばれ、それについて調べていた警察署で、あの事件の被害者の名前を見た健人が、恐らくはそのショックもあって心筋梗塞を起こし、愛香と同じ病院に入院し、健人の兄も現れ、二人一緒にいたところに、たまたま彼らを狙っていた男がまた現れ、報復を遂行しようとし、代わりに僕が撃たれ――
そこまで時系列を頭の中で整理すると、今この場に、僕が撃たれた時にいたはずの三人が、誰一人いないことに気付いた。
「あの、他の皆さんは」
それを問うと、起き上がれない僕に対して、僕と視線を合わせて話してくれていた千里の表情が、明らかに変わった。それから、視線を僕から離してしまった。
「……皆さん、今はこの病院の地下にいます。僕もつい十五分ほど前までは、そこにいたのですが」
地下? 病院の地下といえば、経験上連想する部屋は二つ。一つは、CTやMRIなどの大型の検査機器。もう一つは……
「あの、まさか」
先程まで見ていた、起きてから夢だと気付いたそれを思い出す。愛香はその最後に、何と言っていた?
『どうか、私以外の他の方と、幸せになってください』
そう言われて、僕は目が覚めた。その言葉の意味を、先程千里が言っていた言葉と繋ぎ合わせて分析していると、また彼が一言、発した。
「……逃げられたんです」
彼が背を向ける。僕の勘が、最悪のシナリオが、今目の前に顕現していることを知らせてくる。
――マクハ、オリタ。スベテハ、オワッタ……
「逃げられた?」
「……彼女がいつもしていた髪留めの中から、青酸カリが検出されました」
文字通り、頭の中が真っ白になった。彼女の私物は、僕や警察の手元にあるはずなのに、それでも、なお。そのことをあのような態度で言うのならば、もうそれは、確定的事項なのだろう。
「……間に合わなかったんですか」
「実際に身体に入った量は、致死量を遥かに超えていたと思われます。見つかった時には、既に心停止、呼吸停止。電気ショックによる心肺蘇生を試みましたが、三回やってもダメだったそうです」
愛香、君は、君は最初から……
「傷だらけのあなたに、その事実を告げるのは酷だとは思いますが、それが事実であり、それが全てなんです」
視界が濡れてくる。これは心が泣いているということなのだろうか。
「……これから、は」
自分は、どうすればいいのだろうか。僕は、どうやって、心を整理したらいいのだろうか。祖父母の死は、何とか乗り越えられたが、彼女は、僕が初めて本気で恋をした相手だ。
ティッシュを取る音が聞こえたかと思うと、また彼が、ぼんやりとし始めたそこに入ってきた。そっと、その涙を拭き取ってくれる。
「……死亡届は同居人であれば出せるので、明日の朝一で健人に行かせます。葬儀はいつ出せるか分かりませんが、二人が退院してからになるでしょう。それからは……時に任せるしかないのかもしれません」
時に、任せる。時が全て、解決してくれる。頭では分かっていても、僕はそれを、受け入れられる自信はなかった。




