星が落ちた夜(第1話)
それは静かな夜だった。
空には雲ひとつなく、世界は深い藍色に沈んでいた。昼間の熱気はすっかり消え、ヴェーリス村の家々は、ほとんどが灯りを落とし、眠りの気配を漂わせていた。
ヴェーリス村は、古くから〝星の加護〟を信じる村だった。森と川に囲まれ、外界との行き来は少ない。村人たちは夜になると家の前に小さな灯りを置き、星々に感謝を捧げる風習がある。星は魂の還る場所であり、村人にとっては、守り神のような存在だった。
だが、その夜。
村の外れにある古びた小屋だけは、まだ灯りがついていた。
小屋の中で、少女は机に向かっていた。
「……また間違えた」
少女はため息を吐き、紙の上の文字を消した。消し跡だらけの紙は、何度も同じ失敗を繰り返してきた証のようだった。
少女の名前はキーリ。十四歳。村の誰もが知る、ごく普通の少女──と、表向きはそう言われている。
だが、正確には少し違う。
キーリには、ひとつだけ変わったところがあった。
彼女は、魔法が使えなかった。
この世界では、ほとんどの人間が少しだけ魔法を扱える。火を灯す。水を集める。風を起こす。ほんのわずかな魔力でも、生活には十分役立つ。
魔力は〝器〟と呼ばれる内側の空間に宿る。器が大きければ魔力も多く、扱える魔法も増える。器が小さければ、火を灯すのがやっとだ。
そして──器が空の者は、百年に一人いるかどうか。
キーリは、その〝空っぽの器〟だった。
「……もう一度だけ」
指先に集中し、小さな火の魔法を試す。子供でもできる初歩の術だ。
キーリは息を整え、ささやいた。
「灯れ」
不思議なほど静かになり、何も起こらない。
ろうそくの炎だけが、かすかに揺れた。
「……やっぱりだめか」
苦笑が漏れる。笑ってないと、胸の奥が痛くなるからだ。
村の子供たちは皆、もう普通に魔法を使える。幼い頃は同じようにできなかったはずなのに、気づけば自分だけが取り残されていた。
村では、よくこう言われる。
「キーリは空っぽの器だ」
不吉だ。とも囁く者もいた。器が空の者は、星の加護から外れた存在だと信じる者もいる。
迷信だとわかっていても、言葉はキーリの胸に刺さった。
キーリは、紙を丸めて捨てると、椅子から立ち上がった。
「外の空気でも吸いに、少し歩くか」
家の扉を開けると、夜の空気がひんやりと肌に触れた。
虫の声。森の葉の揺れる音。遠くで流れる川の音。昼間には気づかない音が、夜には鮮明に聞こえる。
本来、夜の森は危険だ。魔獣が出ることもあるし、星の光が弱い夜は村人は外には出ない。
だがキーリは、夜だけは自由だった。誰も彼女を見ない。誰も彼女を測らない。
夜の静けさは、彼女にとって唯一の〝逃げ場〟だった。
キーリは空を見上げた。星が無数に瞬いていた。
星は魂の還る場所。
そして、まれに地上に落ちることがある。それは、〝星の子〟と呼ばれ、村の古文書には、星の子が現れた年には村に大きな変革が起きたと記されていた。
災厄か、祝福か。
それは誰にもわからない。
「もし本当なら……」
キーリは小さく笑った。
「私も、いつか星になるのかな……」
その時だった。
空の一点が──光った。
キーリは目を細くした。流れ星だと思った。だけど違う。光は消えない。それどころか、どんどん大きくなっている。
「……え?」
次の瞬間、空が裂けた。
まるで布を破くように、夜空が歪んだ。裂け目の向こうから、白い光が溢れ出した。
それは、古文書に記されていた〝星の門〟の描写と同じだった。
魔力の強い者ほど、空気の震えや魔力の流れの乱れを感じるはずだ。
だが、キーリは何も感じなかった。
ただ、胸にはざわめきがあっただけだ。
空っぽの器は、世界の異変すらも感じ取れないのだ。
光の塊が尾を引きながら、森の奥へ落ちていく。轟音が鳴り響き、地面が揺れ、鳥たちが宿り木から一斉に飛び立った。
「……今の、何?」
ただの流れ星じゃない。危険かもしれない。村の大人を呼ぶべきだ──そう思うよりも先に、キーリは走り出していた。
「落ちた場所は、近い……!」
森の中に駆け込む。枝が顔をかすめ、足元の石に躓きそうになる。それでも足は止まらない。胸の奥がざわついていた。
恐怖ではない。もっと別の、説明できない衝動だ。
数分走ったところで、キーリは立ち止まった。
森の奥、そこには巨大なクレーターがあった。木々はなぎ倒され、地面が抉れている。中心には、白く光るものがあった。
「……本当に星?」
恐る恐る近づくと、光はゆっくりと弱くなっていく。そして──それが見えた。
「……人?」
クレーターの中心に、少女が倒れていた。銀色の髪、雪のように白い肌、そして背中には、光の羽。
キーリは息を呑んだ。
「……天使?」
少女は静かに眠っている。傷ひとつない。ただ、淡い光を放っていた。
光の羽は、魔法の光とは違う。魔力の揺らぎがなく、まるで星そのものの輝きだった。村の伝承にある〝星の子〟の特徴と一致していた。
キーリはしゃがみ込む。
「あの……大丈夫ですか?」
返事はない。だが、少女のまぶたが微かに動いた。そして、ゆっくりと開く。
黄金に輝く瞳。その瞳が、キーリを真っ直ぐ見た。
しばらく沈黙が続く。夜の音が、遠のいたように感じた。
やがて少女は、小さく口を開いた。
「……ここは?」
透き通る声だった。
「地上……」
キーリは戸惑いながら答えた。
「え、えーっと……多分」
少女はゆっくり身体を起こす。その時、羽がふわりと光った。
キーリは口を開けて見惚れていた。
「そう……落ちたのね」
少女はそう言って、キーリを見て首をかしげた。
「あなた」
「な、何?」
少女は不思議そうに言った。
「どうして──空っぽなの?」
キーリの心臓が止まりそうになった。
その言葉は、村で何度も聞いた言葉だった。
「……え?」
「あなたの中」
少女はキーリの胸を指差した。
「何も入っていない」
魔力がない。その意味だった。
キーリは何も言えなかった。胸の奥が冷たくなる。
だが次の瞬間、少女は、クスッと笑った。
「変なの」
その笑顔は、嘲りではなかった。むしろ、どこか嬉しそうだった。
「でも」
まるで運命を見つけたように、静かに言った。
「だからあなたの元に落ちたのかもしれない」
キーリは困惑した。
「……どういう意味?」
少女は立ち上がる。光の羽が夜に溶けるように揺れた。そして、キーリの手をそっと握った。
「私の名前は──」
少女は明るい声で言った。
「ルミナ」
一瞬、空の星が強く輝いた。
「私は──」
その声は、どこか遠い響きを持っていた。
「星から落ちてきた存在」
キーリは呆然としていた。星? そんな馬鹿な話はあるか。だが、この光、この羽。そして空を見上げるルミナの横顔。それはあまりにも──人間じゃなかった。
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