【第6話】海藤花が散る日
私は、太くしなやかな腕を伸ばし吸盤でその海藤花を、優しく触って、生命の息吹を、確かめる。
『あっ、ゴミが、綺麗綺麗しましょうね、私の赤ちゃんたち』
天井から無数に垂れ下がる白い卵の房。絶食で削られていく自分の命と引き換えに、この子たちは確かに育っている。
私は、その卵を、産みつけた、岩穴の前の岩肌に、自慢の太い足の吸盤で、しっかりと吸い付き、穴の前に、陣取った。
かつ、新鮮な海水を、漏斗から、送り続けた。
『あー愛おしい、なんて、愛おしいんだろ。私の赤ちゃん』
暗い岩穴の中で、私はただひたすらに我が子を慈しむ。しかし、その穏やかな時間に浸ることを、残酷な海の摂理は許してはくれなかった。
『こらー! あっちいけ!』
私は、卵に近づいてきた、ベラ数匹を、腕を広げ、威嚇して、追いやったが、その隙に、次から次に、小魚が、やって来る。
休むひまなどなかった。
食欲が消え失せても、激しい防衛行動による体力の消耗は誤魔化せない。それでも、私の全神経は四方八方へと鋭く張り巡らされていた。
いつのまにか、岩を這って近づいていた、海牛を、吸盤で、剥がして、遠くに投げた、その隙に、また、卵を、餌と認識した、小魚たちが、集まる。
際限なく押し寄せる外敵の群れ。気が遠くなるような数の暴力の前に、それでも私は三つの心臓を激しく打ち鳴らし、誇り高き母として再び太い腕を大きく振り上げた。
『負けないぞ! まだ、まだ、私の体力は、ある。守ってみせる、絶対に!』
『そうだ、誇り高く、カッコよく、女として、母として、うん、俯瞰してみても、今の私は、間違いなく、立派で、カッコいい』
『すぐに死ぬ事決定事項だけども、タコの精神的な、仕組みだろうか、人間の母親とタコの母親、二人の母親から受け継いだ、もともとの、私の精神のつくりなのか、自分が、死ぬ事より、この子供達が、孵化する方が、優先している』
飢えと疲労で限界をとうに超えているはずなのに、心はどこまでも透き通って、静かに燃えていた。
『自分に今自分で自分を賞賛したい』
『自然界の掟は残酷だ、この子供達も生まれた瞬間に、共食いするのだろう。それもまた、全てを、受け入れなければ、ならないのだろうか? いや、どういった、神様のいたずらか、わからないが、私には、人間としての、残滓がある。子供達の共食いを、見逃すつもりはない』
ただ産んで終わるのではない。私は、人間「道子」の魂を持ったタコのお母さんなのだから。
それから、約一か月たった。
終わりの見えない防衛戦と絶食の末に。そして改めて、自分の体を見た。
白く白濁し、皮膚は破れ、ちぎれた腕は、再生のきざしなどなく。それどころか、何故か、透けて向こう側が見えるんじゃないかと、思うぐらいに、腕の筋肉の密度が、無くなって、いた。
かつて明石の激流を泳ぎ回り、極上のグルメでパンパンに張っていた太い腕は、もう見る影もない。幽霊のようにすり減ったその姿は、自分の命をすべて卵に注ぎ込んだという何よりの証だった。
『うん、でも、怖くはない。それどころか、この子達が、もうすぐ、卵の殻から、孵るのが、本能で、手に取るように、わかる。それが、楽しみでしかたなかった』
死への恐怖よりも、新たな命が世界へ飛び立つ瞬間に立ち会える歓喜が、すり減った体を温かく満たしていた。
そして、その瞬間は訪れた。
一人目が、膜から飛び出した。
小さく透明な命が、海の中へとフワリと舞い上がる。すかさず私は、漏斗から、水流を、吐き、その海藤花のふさから、あえて遠くへ、吹き飛ばした。
共食いなどさせない。これは、まさしく、最後の、人間の残滓としての執念だったのかもしれない。
『ああ、何とか、生き延びてほしい』
ただその願いだけで、私は、子供達を、力の限り、水流を、起こして、なるべく、ひっつかないように、バラバラに、なるように、時には、腕を使い、水流を、掻き乱すのだった。
次々と孵る無数の命たち。彼らが本能のままに噛み付き合う前に、私は母としての最後の力を振り絞って、海という広大な揺りかごへと彼らを優しく、力強く散らしていく。
最後の、もう、目は白濁して、よく見えない。しかし、子供が孵っただろう時。
私は、意識を手放した。
フッと体の力が抜け、張り付いていた岩肌から体が静かに離れていく。暗く引き込まれる意識の、なかで、やっぱり思ったことは、
『ああ、この子達の、成長を、見たかった。ただ、その、望み、ただ、その想いだけだった』
『この時、やっと、本当にやっと、人間のお母さんの、気持ちと、あの、タコのお母さんの気持ちが、シンクロするように、母の愛の深さを、私は、知った』
視界が真っ暗に染まっていく中で、私は自分の命から生まれた小さな光たちが、広い広い海へと散らばっていくのを心の中で見届けていた。
そして、完全に。
私は、海に帰った。
第1部完




