【第13話】第3の限界乳母リーンと、突如訪れた非常事態
目が覚める。
『ここはどこ? 膜だ……おかーさん?』
タコの赤ちゃんの記憶が、蘇る。いや、薄暗い海の底とは違う。徐々に意識が覚醒してきた。
何か悪夢にうなされていたみたいだ。明るい。
『あ、そうだった。今の私は、タコじゃなかったんだ』
豪華な天蓋が目に入る。びっしょりと汗をかいていた。
改めて、実感したことがある。
そうだ、私はもうタコに生まれ変わりたくないのだ。私の精神は、タコに生まれ変わる事自体を悪夢に感じるほど強く拒んでいた。
あんなにタコとして一生懸命、タコの子どもたちを慈しみ、愛していたのに。あの子たちへの愛に嘘はないけれど、あの過酷な生態系に対する恐怖がどうしても拭えない。
『どこか、私は冷たいのかな……?』
そんなふうに、自分を責めてしまう。
いや、自分を責めてしまうこの精神そのものが、この人間特有のものなのかもしれない。
『うーん。この気持ち、何回考えても解決できない問題なんだけど、ついつい考えてしまう』
そんなことを考えていると、ベッドの横から歓喜の声が聞こえた。
「おっクタービア様ぁー!」
明るい、めっちゃ明るい声。しかもでかい声だ。
その声に少しビクッとしながら、声の方へ顔を向けた。そこにはリコでもなく、さっきの女性でもない、別の女性がベッドの縁に顔を乗せて、ニッコニコの笑顔で私のことを見ていた。
リコは腰までの髪を一本に編み込んでいて、さっきの女性は肩までのボブっぽかったけれど、この女性はショートヘアーだ。三人に共通しているのは、どの女性もすごく美人で、髪の毛の色が白と黒のツートンだということ。
でも、特にこの女性からは、なんて言うか、天真爛漫というか、サバサバ感というか。元気に満ち溢れるスポーツ選手的な、爽やかギャル的なものを感じた……上手く言えないけれど。
「おっクタービア様ぁー! さあ、おむつを変えましょうねー」
またその女性が私に声をかける。独特な呼び方だ。
そう言って私の足元へ回り込む。そして、私の体を覆う膜の中に体を突っ込んできて、私はされるがままに足を持ち上げられた。
『やっぱり恥ずかしい』
羞恥心と申し訳なさが、私の心を掻き乱す。
「オクタビア様! いっぱーい! 上手にできてますねー!」
『えっ!? 上手にうんちするって、意味わからないんですけど』
その女性もリコに負けず劣らず、めっちゃ楽しそうに、嬉しそうに私のおむつを替えている。何がそんなに楽しいのかまだ理解できないけど、嬉しそうにしている彼女に、もう私は身を任せるしかない。
「さあ、終わりましたよ。きれいきれいになりました、オクタビア様」
そして横に来て、私は膜の中から抱っこされ、その女性の腕の中にすっぽりと収まった。
『あっ! 私、お腹めっちゃ空いてるかも。この人、お乳飲ませてくれるのかな?』
そう思っていると、ポロンと口元に乳房が差し出された。
「どーぞ、オクタビア様」
『そうこれこれ、わかってるー!』
私は夢中で、口元のご馳走に吸い付いた。うーん、美味しい。私はごくごくとお乳を飲みながら、その人の目をじっと見ている。
さっきの女性といい、この女性も名前がわからない。でも、やっぱり百年の間、私を世話してきてくれた人のうちの一人なんだろうと思った。いや、絶対そうだ。私を見る優しい目が、もうそう物語っていた。
私はお腹がいっぱいになったので、心の中で『ごちそうさま』とつぶやいて、おっぱいを離した。
その女性は鼻歌を歌いながら身支度を整え、改めて私を見つめる。ゆりかごみたいに体を揺らして、心地よい揺れで私をあやしてくれている。
『うん、この人の事も大好きだ』
三人のお世話係の事が、私は大好きなのだ。この人の事も記憶にはないけれど、心の奥底から安心できる。相変わらず、その女性は鼻歌を歌っている。
『あー揺れが、心地いいよー!』
しかし、唐突に鼻歌が止まった。
『うん? あれ?』
目が閉じかけていた私は、頭に少し違和感を感じて、一生懸命目を開けて確認した。
なんとその女性は、私の髪の毛に顔を押しつけて、スーハーと深呼吸している。
「あー、オクタビア様ー! いい匂いです!」
『うんうん、赤ちゃんの頭、いい匂いするよねー! って、いたたた! かじってない!? ねー? いたいいたい! 頭に穴空いてない!?』
「オクタビア様ー! あー、オクタビア様ー!」
『いたた! 穴空く、穴空く!』
ようやく満足したのか、なんとか頭に穴が空くことはなく、解放された。
『この時点で、もう恐怖しかない。もう、くる。絶対にくる』
しかしこれは、誠心誠意お世話をしてくれている彼女たちへの、私からのご褒美なのかもしれない。どうせ逃げられないのなら受け入れよう……。私は、そんなわけのわからない謎の境地に陥っていた。
やっぱりきた、頬擦りからの流れ。私はもう諦めモードで、自分からほっぺたを差し出した。
『はいどーぞ』
彼女はうっとりとした目で私のほっぺたを見つめると、
「オクタビア様ーー! いただきまーす!」
と言って、ほっぺたに吸い付いた。
それはもう痛いこと、痛いこと。
『あいたた! あいたた! 顔取れちゃう! 皮膚全部持ってかれちゃうよー!』
そんなこんなで、この名前のまだわからない、スポーツギャル風なお世話係の愛情の強さを、文字通り痛いほど痛感したのだった。
その時、部屋のドアが強く叩かれた。ドンドンドン!
「リーン様! 至急! 女王様がお呼びです!」
『何事だろう? ていうか、あなた、リーンっていうのね』
まだ私は、そんな悠長な事を考えていた。
どうしたんだろう。リーンは私をベッドに優しく寝かせると、私に向かって、
「オクタビア様、大丈夫ですから」
と優しく微笑みかけ、私の光る膜に何やら両手をかざす。すると、私の膜の厚みが強くなり、明らかに守りが固くなったのがわかった。
最後にその女性は私に微笑みかけると、真剣な表情になり、ドアに向かって、
「すぐ向かうと、お姉ちゃんに伝えて!」
と大きな声で答えた。
『お姉ちゃん? リーンはリコの妹ってことよね。それじゃ、もう一人のあの酢味噌ジョークの女性も、多分リコの姉妹なのかな?』
しかし、何事だろう?
リーンは部屋の外に出ていった。
ドアの外から、リーンの声が聞こえる。
「ここは死守して! 絶対に、オクタビア様の部屋に何者も入れないでね! 百人体制で、部屋を守って!」
そんな、何か物騒な声が聞こえてくる。
私はただ、事の行く末を見守るしかなかった。




