第5話 査察の知らせ
割れた窓は、翌朝には板で塞がれた。
だが、夜学の空気は、以前よりも張り詰めていた。生徒たちは口数が減り、その分、紙と向き合う時間が増えた。学ぶことが、もはや「試み」ではなく「選択」になったからだ。
昼過ぎ、領政庁に一通の書状が届いた。
封蝋を見た瞬間、父の表情が変わる。
「中央だ」
短い一言で、場の温度が下がった。
書状の内容は簡潔だった。
――辺境伯領における財政および行政運営の確認。
――査察官、近日来訪。
「噂は、もう向こうまで届いたか」
父は紙を机に置き、指で軽く叩いた。
「止めるなら、今だぞ」
その言葉は、脅しではなかった。
本気で、逃げ道を示してくれている。
「止めません」
答えは、最初から決まっていた。
「理由を聞いても?」
「今さら止めても、疑われます」
「それに……」
俺は帳簿の束を見た。
「正しくやっているなら、隠す必要はありません」
父は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「……いいだろう」
それは、覚悟の合図だった。
その日から、準備が始まった。
帳簿の再整理。
倉庫在庫の確認。
夜学で学んだ者たちにも協力を仰ぐ。
トーマが、緊張した面持ちで言った。
「俺たちが、関わっていいんでしょうか」
「いい。むしろ必要だ」
「でも、相手は中央の……」
「だからこそだ」
俺は、はっきり言った。
「字が読めるというだけで、排除されるなら」
「それは、この領地の問題じゃない」
数日後。
査察官一行が到着した。
立派な外套に、整った書式の書類。
いかにも中央、という雰囲気だ。
「夜学?」
査察官は、書類から顔を上げて眉をひそめた。
「前例がありませんな」
「だから、やりました」
父が淡々と答える。
「成果は?」
「数字で示せます」
帳簿が開かれた。
以前なら、誰も自信を持って説明できなかった数字。
だが今回は違った。
「この差分は?」
「倉庫横流しによるもので、是正済みです」
「この計算は?」
「夜学で識字を行い、現場確認を可能にしました」
説明するのは、役人だけではなかった。
夜学に通う元農民が、震える声で補足する。
「……自分で、書きました」
査察官の目が、一瞬、見開かれる。
沈黙が落ちた。
やがて、彼は書類を閉じた。
「……面白い」
父と、同じ言葉だった。
「教育で、ここまで数字が変わるとは」
「危険でもありますがな」
「危険です」
俺は、否定しなかった。
「ですが、嘘のない数字は、どんな武器より強い」
査察官は、しばらく俺を見てから、立ち上がった。
「報告は、事実として上げましょう」
「評価は……上が決めることです」
それは、合格でも不合格でもない。
だが――首は、つながった。
査察団が去ったあと、夜学に戻ると、生徒たちが不安そうにこちらを見ていた。
「終わりですか?」
誰かが聞いた。
俺は首を振った。
「いいえ。続きます」
小さなどよめき。
そして、安堵の空気。
その夜、父が言った。
「もう、後戻りはできんぞ」
「承知しています」
父は、静かに笑った。
「……なら、守る」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
夜学の灯りは、試され、認められ、そして――
次は、必ず狙われる。
それでも。
ここまで来て、消す理由は、もうどこにもなかった。




