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女神イシュタル


「アイダ、またこの先の村人から要請が有りました」

「…………」


 風の悪魔少女レイラの報告である。


「数えきれないほどの魔物達に何度も襲われ難儀をしていると言う事です」

「分かったわ、行ってみましょう」


 やって来た此処は山里の静かな村で、人気のない細い道が家々の間を縫っている。谷あいの緑が芽吹き、暑さも寒さも感じない。緩やかな風の中に、花の妖精が放つかすかな香りが混じっている季節である。

 その時、


「あれは……」


 アイダたちの前方で空気が変る。

 気配を察した鳥はさえずる事を忘れ、ただ柔らかな風だけが流れている。

 皆が声をひそめ、静まり返った瞬間、花が揺れ、川面には銀色の光が広がってゆく。だがそれは明らかに物の怪の気配などではない。


 誰かが……現れ、来る。


 レイラがそう理解した時、すでにアイダはひざまずき首を垂れていた。

 アイダたちに歩み寄るその姿は人に似ているが、人ではなかった。純白の衣が優雅な肢体を覆っている。女神イシュタルが現れたのである。

 彼女が口を開くと、その声は皆の胸の奥へ直接響いた。


「恐れる必要はありません」


 イシュタルとは愛と美、さらには戦闘をも司る女神の名前である。しかしその性格は限りなく自由奔放であり、殿方との浮名を流しては、どこまでも気ままに生きている神なのだ。だがこの女神、じつは神々の中でも序列が非常に高い存在で、その権限は最上位の神々にも匹敵するほどと噂されている。ワイナが神の使いである黒龍の首を討ち取ってしまった罪さえ、水に流す事が出来るほどの権限を持っていたのである。あの風の神ニンリルも、その前では首を垂れるほどの存在だと言われている。

 しかしここで問題なのは、ワイナが以前イシュタルの誘いを断っている。その代償として聖獣のライオンと闘わざるえなかったのだ。


「ワイナ、久しぶりだわね」

「…………」


 女神の視線がジャガーのワイナに注がれているのは明かであった。

 イシュタルとワイナ、二人の間には特別な空間が生まれている。

 それを見たアイダたちはいつの間にか姿を消し、後にはワイナと女神イシュタル、トゥパックとレイラしか残っていない


「トゥパック、私たちも行くのよ」

「はぁ、何処に?」

「ーー何処にじゃないの」


 レイラはトゥパックの腕を強く引っ張ると、ワイナたち二人を残し離れて行く。

 ワイナを見つめるイシュタルは笑みを浮かべ、静かに声を掛けた。


「ワイナ」

「はい」


 ある意味人間界でも笑みは最強の武器だと言える。ましてやイシュタルは美と愛の女神であり、その微笑みの類まれなる美しさは、洋の東西を問わず最強であるに違いない。しかし、ひとたび敵対すると分かれば、そんな相手は残忍な方法で殺す事もいとわない。躊躇なく引き金を引く恐ろしい一面も持っているのだ。


「そんなに身構えなくてもいいのよ」

「…………」

「少し歩きましょう」

「…………」


 ワイナはイシュタルの少し後ろを歩いている。


「一騎打ちで貴方の闘いぶりは見事だったわ」

「申し訳ありませんでした」


 イシュタルが振り向くと、ワイナがつぶやく。


「あの者の顎をーー」

「ライオンの顎は既に回復しております。それに、貴方は堂々と闘い勝ったのですから、何も謝る必要などありませんよ」


 イシュタルが歩調をゆるめると、並んだ女神の肩がワイナの腕に軽く触れていた。






「アイダ、現れたわ」


 レイラの報告通りに村の外れ辺り、魔物達が地の底からどろどろと這い出るように現れたのである。

 ただただ破壊を繰り返す半獣戦士、

 牙を鳴らす骨だけの大蛇、

 飢え、人の絶望を喰らうように死肉をあさる妖怪、

 あたりの大気は濁り、空は血のように赤黒く染まり、村人はひたすら逃げ惑った。

 魔物達は武器を振り回し笑っている。


「アラカーー、シャーーヴォアーーシャザムァーハースヴァーハー」


 問答無用である。すかさずアイダの呪文がさく裂、次いでレイラも呪文を投げかけた。


「アラカザンヴォアラホートシャザムスヴァー」


 呪文の直撃を受けた者どもがバタバタと倒れるが、新たに現れる魔物が次々と前に出て来る。


「腐れ魔物ども、今度はおれが相手だ」


 声を上げたトゥパックの剛剣が白骨大蛇を粉々に打ち砕くと、返す剣で二体の魔物をまとめて一刀両断にした。脇ではキイロアナコンダが巧みな剣さばきを振るい、魔物の首を落としている。


「はっはっはっ、では儂もやってやろう」


 今度はドラゴン・バーブガンが飛び立ち、空から火炎攻撃である。

 無数の異形戦士が炎に包まれてゆく――

 犬のノラも巨大な猛犬に変身、くねくねと揺らぐ首を持つ妖怪に食らいついてゆく。

 しかし魔物の群れは一向に減らない。


「これでは多分きりがないわね」


 アイダがため息をついた次の瞬間――

 天空に、一筋の光が走る。

 鞭を手にした魔物が一瞬空を見上げたが、それはほんのかすかな異変であった。


 気のせいか。


 魔物は再び惨劇を始め、村人たちが逃げ惑う――

 と、

 今度は一陣の風が吹いた――

 更にかすかな、獣達が忌み嫌う教会の鐘のようにも聞こえる音色――

 風の音がそのように聞こえたのか。

 だが、それだけで、魔物達の動きが止まった。単なる敵意ではない。本能に刻み込まれた恐怖だった。聖なる結界は魔を拒絶する。弱い魔物なら近づくだけで肉が裂けてしまう、恐ろしい存在なのだ。


 まさかこの気配は……


 魔物達は恐怖に震え始めた。

 そして戦闘の場は静寂に包まれ、アイダたちの前にワイナと女神イシュタルが現れた。ワイナはイシュタルの左に、右にはいつの間にか聖獣のライオンが控えている。中央に立つイシュタルを見た妖怪野盗の群れは、即座に武器を投げ捨て、腕をたらして皆身体が固まってしまっている。

 ワイナは数歩前に出ると、短く言った。


「立ち去れ、二度と戻って来るな」


 有象無象の半獣共らがわらわらと飛ぶように逃げて行ってしまうと、イシュタルはワイナに近づき、そっとつぶやく――


「またいつか会いましょう」


 女神イシュタルはライオンを伴い消えて行った。






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