14話:走れ!!
緒川の水筒に残された水を、二人でちょこっとだけ飲んで亀裂出口に置かれたザックの中に入れる。ザックを背負って細い亀裂を通り抜けることはできないし、ツチクレと追いかけっこするなら少しでも軽装のほうがいい。戻ってくるまで、しばらくこのザックともお別れだ。
そっと痛めたあばら骨に触れてみる。我慢できないほどの痛みじゃない。
「じゃあ行くぞ!」
「うん!」
緒川の手を取って亀裂の中から飛び出ていくと、早速、大柱の周りにある巨大な蟻塚のような小山から幾つもの重低音が聞こえてくる。
「ったく! そんな人間が好きなのかよ!」
10メートル手前まで近寄ると、その大きさに圧倒される。亀型のツチクレは、その大岩のような身体から四本の脚を突き出し、こちらに向けて動き出した。
亀型のツチクレが一歩動くたびに、空洞全体が大きく震える。
「こっちだよ! ばーっか!」
その巨体のせいで亀型のツチクレの移動速度は速くない。僕らが全力で走っていれば追いつかれることはなさそうだ。問題は……。
「康平君! 出て来た!」
重低音を響かせ、次々と蟻塚から現れる球体のツチクレに角付きのツチクレ。前に設置したトーチの灯かりに照らされて、大きな影を大空洞の岩肌に作る。問題は、こいつらの攻撃を避けながら、もう一つの亀裂へたどり着けるかだ。
「こっち!」
僕に出来ることは緒川の手を引いて、全力で突っ走ることだけ。揺れ続ける穴の中を、ひたすら走る。後ろを振り返るとすぐそこまで、何体もの球体のツチクレが猛回転して近づいてきていた。
ぴたりと振動が止まった。何事かと亀型のツチクレの方を見ると、動きが止まって――その場で四本の脚を突き出して、飛び上がった!
華麗に宙を舞った巨体は、そのまま僕らを踏み潰さんと落っこちてくる。
走れ、走れ、前へ!
衝撃音。そして巻き起こる突風に押されるようにして、僕と緒川は前方に吹っ飛ばされ、何回も転ってから倒れ込んだ。
「緒川ァ!」
「大丈夫!」
僕と緒川は、すぐに立ち上がり手を取り合い、真後ろに落ちてきた亀型のツチクレから逃げていく。そいつの足元には僕らを追ってきていたツチクレ達の残骸が飛び散っていた。
息つく間も与えずに角突きのツチクレが、その鋭い角をこちらへ向けてやってくる。亀裂まで50メートル程。立ち止まってる余裕はない。緒川の力を借りるか? ダメだ。まだこんな所で、力を使わせるわけにはいかない。
「緒川! いっせーのせ! で柱の方へ飛ぶから!」
直進的な動きで向かってくるあいつなら、多分、ぎりぎりまで引き寄せて横っ飛びすれば避けられるはず。
「わかった」
躊躇いなく、ぎゅっと僕の手を握り締める緒川の手。こんな思いつき本当にうまく行くのか? なんて心配は、今ので完全に吹っ飛んだ。なんだかんだで僕の事を信用してくれてるんだな。性的な部分を除いて……だと思うけど嬉しかった。
僕らとツチクレは、チキンレースでもしてるみたいにお互い目掛けて駆けていく。ツチクレの突き出した角がどんどん大きくなって来ると、思わず入口で殺されたあの女の人のことを思い出してしまう。一突きにされた胸から、血がとめどなく溢れ出ていた。
「いっせーの!」
ツチクレの漆黒の目が目前にあった。秋葉原で見た時、ただそこに存在するだけでも恐ろしかった空虚な二つの穴。記憶の中から消し去りたかった病的で、圧倒的な力を持った異なるもの。
「せっ!!」
緒川と僕は、地面を思い切り蹴って横っ飛び。勢いの止まらない角付きのツチクレは、そのまま突っ走っていって、こちらに向かってきていた亀型のツチクレに衝突した。
すぐさま立ち上がって走る。亀裂まで30メートル、20メートル、10メートル……。
「ゼロッ!!」
「つまり叫びは常に虚数であり、悲しみは零の彼方にあるってこと?」
緒川が僕の独り言に対して何か言っていた気がするけど、気にせずツチクレの入り込めない細い亀裂の奥へ身体を入り込ませいく。思った通り亀型のツチクレも他の奴らも、亀裂に体当たりしたり、まごついたりしていてその場から動く気配はなかった。
全身汗だくで、僕も緒川も息も絶え絶え。倒れた時に、所々擦りむいて血が滲み出してるし、あばら骨の痛みも激しくなっている。だけど休んでる暇なんてない。僕らは再び、大柱の中へと蟹歩きで入っていく。
大柱の外には、前に刺したトーチがまだあったから良かったものの、中に入れば真っ暗闇。転ばないように足元を懐中電灯で照らしながら、小走りで元いた亀裂を目指す。
「あ……矢印ここ」
三叉路の真ん中の道の岩壁に刻まれた矢印を、緒川がヘッドライトの明かりで照らす。暗がりの迷路で頼りになるのは、この矢印だけ。幾つもの別れ道を、矢印を確認しながら進んで行く。
僕らの手にした懐中電灯と、ヘッドライトの四つの丸い明かりが前方を照らす。亀型のツチクレが元いた場所へ戻る前に、早く出口へ。長いストレートの後、急な曲がり角を右に曲がった所、僕らのそんな想いを嘲笑うかのようにそいつはいた。
真ん中に漆黒の窪みが開いた、ひし形の岩の塊。その身体を構成する小さな岩は、それぞれ筋肉のようにどくどくと伸縮を繰り返している。
宙に浮かび上がったそいつは、ゆっくりとこちらに近づいて来た。
「これ……始めてみる」
「なんか、やばそうだよな」
今まで見た動物型や角付きのツチクレと違って、形状からどういう攻撃を仕掛けてくるのか全く予測がつかない。後ずさりながら様子を伺っていると、そいつはその漆黒の窪みから白い煙を吐き出し始めた。地面に落ちた煙は徐々に、こちらに流れてくる。
「康平君、あの煙危ない。死んじゃう」
手の平を煙に向けて、緒川が言う。
「ったく、次から次へと!」
僕は緒川の手を引いて、全速力で一つ前の十字路まで戻っていく。
煙は勢いを増してどんどん迫ってくる。矢印を記した道はもう使えない。
「ねぇ、緒川。右と左。どっちがいいと思う!?」
「私達は右の翼、左の翼、両翼なければ空は飛べない。政治的に分断された精神では、新たなる地平を目指すことはできない」
「そういうのいいから」
「……左」
こんな状況でも、まだ余裕がありそうな緒川が羨ましい。矢印の付いていない左の道は、すぐに上へと登る坂道になっていって、僕らは岩が盛り上がった所を掴んで転ばないよう坂道を上がっていった。
坂道を登りきるとまた別れ道。運任せなことは緒川に聞いておこうと、また道を尋ねてみる。
「右と左、どっち?」
「私達は右の翼、左の翼、両翼なければ空は飛べない。政治的に分断された精神では、新たなる地平を目指すことはできない」
「えっと、それで?」
「……右」
矢印が記された道にも、亀裂が入った出口にもたどり着く気配はなかったけど、ある程度進むと僕らに迫ってきていた白い煙はなくなっていた。
早く亀裂のある道に戻らなきゃ、犯した危険が無駄になってしまう。焦燥感に押されるようにして駆けていくと、大柱の中の黒っぽい岩肌が、徐々に白い針金みたいな材質に変わっていった。
岩盤に覆われた地下に本来はあるはずがないこの異物を、僕は前にも見たことがある。
「あっ、コア……」
他の汚れを全く許さないような、潔癖で排他的な白に覆われた部屋。その中央、白い針金が集まり台座となって煌々と輝く赤いコアを掲げていた。
そしてそのコアの横、白い針金に包まれた宝石が、土や岩を生み出し一つの物体に成ろうとしている。どのような形になるかはまだ分からないけど、土がぶくぶくと膨れ上がり広がっていくその様は、化学物質に汚染された大地のそれを連想させた。
「これって種が、ツチクレを作ろうとしてる?」
「多分。早くコアを潰したほうがいいと思う」
「そりゃそうだろうけど。海水がないよ」
まさかこんな時に、コアを見つけるだなんて思っても見なかったし、海水の入ったステンレス製のボトルはザックの中に入れたままだ。
「ナイフ、貸して」
「ん? うん」
要領を得ないまま登山ナイフを緒川に渡すと、緒川は流れるような動作で自分の手の平を切りつけた。真っ白い床に、鮮やかな赤い血が滴り落ちていく。
「なっ! なにしてんだよ!」
「私達の身体にも、海はある」
その赤く濡れた手で、骨のような物質が幾つも突き刺さったコアを握り締める。するとコアは、その禍々しい光を失い、部屋中に張り巡らされていた白い針金は、すっとほどけて消えていき黒い岩肌が顔を出した。ぶくぶくと膨れ上がり何かの輪郭を形作ろうとしていた土も、砂となって崩れ去っていく。
「緒川、手を出して」
傷ついた緒川の手に巻いたタオルに血が滲み、赤く染まる。そういえば血液ってのは、海水と成分がよく似ているって話を聞いたことがある。
「こういうやり方もあるんだな」
「駆け巡る生命の火は、深遠の住人のイデアを虚無へと還す……」
「その痛い言い方はともかくとして、ちょっと分かるよ。馬鹿みたいに人を殺すことしか興味なくてさ、命とかそういう健全なの苦手そうだもんな。あいつら」
「痛いという無価値な一般的感覚に甘んじた、安易な批判に抗議する。真の表現はむしろ痛みの中にこそ潜んでいる……」
「安易でごめんな。でも、こういうのは僕がやるから、もう絶対するなよ。少しは、僕にお前のこと守らせてくれよ」
緒川を守るって決めたのに、また傷つけてしまった。血を流すくらいなら、力のない僕にだってできたのに。そんな気持ちもあったから強めに言ったんだけど、緒川は頷かずにただこちらを凝視するだけ。顔なんて赤らめて、相も変わらず何を考えてるか分からない。
「まぁ行こう。ザックの中に救急セットあったし、戻ったら治療しよう」
コアが置かれていた部屋を後にして、僕らは再び大柱の迷路を進んでいく。意外なことに僕らがいた坂道側の亀裂は、そこから五分程行った所にあって、呆気なく僕らは亀裂まで戻ることができた。
大柱の外へ顔を出して辺りを見渡してみるが、まだ亀型のツチクレ達は、こっちへ戻ってきていないようだった。僕は緒川の手に包帯を巻いて、ついでに増してきたあばら骨の痛みを抑えるために鎮痛剤を飲み、湿布を貼って外へ出る。
「緒川、お父さんの所まで連れてってやるからな」
地上へと続く坂道を見据えながら緒川の手を取ると、緒川はぎゅっと握り返してくれた。坂道手前に設置した、トーチが照らす明かりの先は真っ暗闇だったけど、一つ修羅場を乗り越えたことで気が大きくなってたのか不安なんて微塵も感じなかった。
僕らは、静寂の大空洞に足音を響かせて坂道を駆け上がっていく。あの青空をもう一度見るために――なんてポエムめいたことを想いながら、トーチの光が届かぬ闇の中へと入っていった。




