白い月
朔也は利玖にいつも、出会うタイミングが違っていたら俺はお前を好きにはならなかった、と言う。断定的な物言いに、それはつまりタイミングよく俺を好きになったということかと聞きたくなるのをぐっと堪えるところまでがワンセットになっている。
好かれている自負はある。
神崎朔也という人間を、利玖は友人以上に扱っていたし、朔也にとっての唯一無二だという自信もあった。
学生時代に友人関係というものの構築を拒んだ朔也にとって、場の空気をとりなすことに長けただけの八方美人な自分があまりよく映らないことは十二分に理解している。しかし、朔也は、洞察力のある怜悧な男だ。自分ができないことをできる相手を無防備に貶すことの危険性と卑劣さを、きちんとわかっている。
だから、文句は言わないし、否定もしない。
ただ時々、表情のない真顔で利玖を見つめる。優等生面の中に体裁の良さと自我の無さを隠していることをすっかり見抜いているのだと、切れ長の目元を眇めて。青いコンタクトレンズ越しに。
太陽が高い位置から世界を照らす初夏の時期、駄菓子屋の中は屋根に遮られ、光が射しこみづらくなる。目の前の道路に反射した光がほんのりと照らすだけで、薄暗さが否めない。しかしその薄暗さが、駄菓子屋のレトロな雰囲気に一役買っている気がしないでもないので、ライトをつけることはほとんどない。
ただ、この時間の切なさは、誰にも説明し難いと思う。
涙がこぼれるような衝動性なんて当然なくて、絶望の瀬戸際に立っているほどの緊迫感もない。飲み込まれる程の深い沼でもないし、とうとうと語る物語にも満たない。
「利っ君。ラムネ、飲みたい」
リビングでお絵描きをしていた女の子たちがバタバタと店に降りて、備え付けられた冷蔵庫からラムネの瓶を取り出す。小さな少女の手に収まる、括れのある水色の瓶は鮮やかで美しかった。
一人ずつにビー玉を落とした状態で手渡してあげていると、その弾ける気泡が目に留まった。瓶伝いにせりあがって弾け去っていく粒の一つ一つをつい目で追いたくなる。
お店の中に細長い影が伸びて、顔をあげると、一人の女性が笑顔で手を振っている。
「ママ」
「こんにちは、利玖さん」
「どうも、ご無沙汰してます」
遊びに来る女の子の保護者の中でも、よく挨拶に来てくれるお母さんだった。すらりと背が高く、いつもパンツスタイルをしたスタイリッシュな人だ。
「最近ずっと居座っているみたいで、ごめんなさいね」
「いえいえ。僕も楽しんでますよ」
にこやかに挨拶を交わす。自分でも愛想はいい方だとわかっているし、そうやって得た信頼関係は決して馬鹿にできないことも、祖母から教わった。
「利玖さんの所に行くって言われるとつい安心しちゃうの。ご迷惑だろうなってわかっているんだけど」
「とんでもないですよ。女の子たちはお行儀もいいですし、僕にとっても新しい風って気がします」
彼女は柔らかく微笑むと、持っていた大きめの紙袋を差し出してきた。
「これ、つまらない物なんだけど、よかったら、朔也さんとどうぞ」
朔也という言葉に過剰に反応してしまうのは、利玖の悪い癖だった。
「朔也に会ったことありましたっけ?」
「あ、いえ。ただ、娘が、宿題を手伝ってくれるすごくかっこいいお兄さんがいるって言っていたのよ」
少女たちの中にあまり多くの語彙がないことが幸いしているなと、頭の隅で考える。
かっこいい、という表現は、朔也の容姿の端麗さではなく、彼のスタイリッシュなモノトーンコーデや奇抜な髪色、ビジュアル系メイクを指しているのだろう。大人並みの語彙と偏見があれば、朔也を蹴落とす方法はいくらだってある。悪辣に言うことも、邪推することも簡単だ。
どちらの方が正しいのか、むしろどちらの方が間違いを含んでいるのかなんて、利玖にはわからないけれど。
とはいえ、ここぞとばかりに、利玖は朔也の大学名を教え、彼の秀麗さを売り込む。ビジュアルを見てしまったら遠巻きにされてしまうのだから、好感度はあげられるときにあげておいた方がいいと、お節介にも考えてしまった。
「そんな素敵な方なのね。いつか、お会いできるタイミングがあれば、ぜひご挨拶させてください」
そういって彼女は、娘はこの後ピアノがあるからと手を引いて去っていった。その後ろ姿を見送ってから、利玖は思わずという形で零れるため息を、どうすることもできなかった。
朔也を知らな人の中に朔也という人間が出来上がっていく。勿論、朔也に責任はない。
頂いたお菓子の大きな箱はずっしりと重たい。子供たちの目に留まると何かと面倒だと思ってレジ横に置いて、畳の部屋へと戻る。
男の子がゲームをして騒ぐ声と女の子たちの顔を近づけた笑い方は、周波数が違う。声や輪が大きくなればなるほど盛り上がっていく男の子とは裏腹に、女の子の絆は綿密さが重要視され、そこには強い仲間意識が存在している。
子供にもきちんと性差は出ているのだなとぼんやりと考え、そのまま夕食のことも考える。
あのお菓子を餌に、朔也を釣ることはできるだろうか。
子供たちが集まることが迷惑だなんて思っていないことは、本心だった。しかし、楽しい時間を過ごしたからこそ、子供たちが各々の家に帰ってしまった後のこの場所が、酷く寂しく見えてしまう。
夕暮れが一瞬で巻かれ、夜の帳が下ろされたリビングで一人食事をするのは、必要以上に孤独だった。
独り暮らし相応の家ならば一人であることが普通なのかもしれない。その昔母親の家族が一家で暮らしていた二階建ての木造建築は夏でも薄っすら肌寒さがあって、廊下を裸足で歩くと、背筋に嫌なものが伝わってくる。利玖がこの家に転がり込んできたとき、祖母がいたく喜んだ理由が今になってわかる。閉ざした寂しさよりも、開けた寂しさの方が、風が吹き抜けていく。
リビングに戻ると、冷房のひんやりとした空気が身体を一瞬にして冷やしていく。
「冷房、下げたの誰?低すぎると、風邪ひくよ」
リモコンを片手に声をかけると、子供たちの責任のなすりつけが始まる。
お前が暑いって言いだした。お前だって暑いっていったじゃん。だから俺が下げたんだよ。勝手に下げない方がいいっていったよ。俺が悪いって言うの?
いざこざが始まると、案の定女の子が最初は少し驚いた表情になって、状況を理解すると冷めた目つきになり、最終的に怒りが引き出される。
もう煩いって。お前は関係ないだろ。関係なくはないよ、此処にいたんだから。じゃぁ、お前が誰の責任か決めろよ。誰でもいいから謝んなよ。俺は悪くない。
利玖は繰り広げられる言葉の応酬の隣で、知らない物語が勝手に作り上げられていくのを、ただ眺めた。
真実を突き止めたいとは思っていないから、物語がどこに転ぼうが構いやしない。ただ、真実にそれぞれの思惑、思い込み、身勝手、思い違いが混ざり合って、嘘とは言えない齟齬を持ったままに終わるのだろう。優しさのつもりがお節介に過ぎなくて、お願い程度だったことが喧嘩の元になって、口を滑らせたら後に引けなくて。
大人になっても変わらない。
利玖は少女の髪を撫でて、大丈夫だよと宥める。口を挟んでしまったがゆえに、徒党を組んだ男子と一人口喧嘩をする羽目になってしまった少女の目には、負けん気の強さと涙が同時に浮かぶのだから、意味が分からない。男に二言はないというけれど、利玖が今まで出会ってきた人の割合で考えるのならば、女性の方が言葉への責任感が強かった。
小さな肩を抱くと、我慢の意図が切れた少女は本格的に泣き始めた。周りにいた女の子たちも寄ってきて、男の子たちは途端、気まずそうに唇を尖らせる。
わかるよ、君たちの言い分も。
声には出さずに、目が合った子たち一人ずつに頷いて見せる。それで察しただけ、彼らは優しさを持っているのだろう。
「ごめん、言い過ぎた」
一人が謝ると、後が続いた。納得のいっていない声、嫌嫌な雰囲気、謝れたことへの安堵。同じ案件を目の前にしても、よほどのことがない限り人の反応は、千差万別になる。
「もういい時間だし、今日は解散にしようか」
利玖は立ち上がり、窓の外を見る。夏の昼は短いけれど、確かに太陽の位置は低くなりつつある。まだ明るいと思いがちな子供たちを安全な時間に、何を指して安全と言っているのかは結局のところ利玖自身にも分らないけれど、家へと帰すのも大人としての役割だと思っている。
子供を見送るために外に出ると、空はほんのりと群青に滲み始めていた。白い雲と、まだ残る青空と、やや濃さを増した空と、何処からが境界線なのかは、此処からではよくわからない。
うっすらと白く浮かんだ月はやせ細っていて、下弦の月と新月の間の、やや新月寄りだった。遠ざかる子供たちの声は段々とぼやけていき、代わりに蝉の鳴き声に世界を支配される。うるさいとは思わない。しかし、この音量を意識するということはつまり、自分はひとりぼっちということだった。
じわじわと額や脇に汗を感じる。それでも、利玖は空を見上げていた。置いてきた携帯電話に返事が来てはいないかと確かめたい思いと、その返答が望むものでなかったらどうしようという不安があって、抑々あの出不精が突如の誘いに乗るだろうかという根本的な諦めも小さく抱えているから、結論をもう少し先に伸ばした自分がいる。
どうせ当たらないとわかっている宝くじだって、結果が出るまでは大事な紙切れだ。




