損失と獲得
紅花の家はいつ来ても清潔で生活感がない。それは綺麗好きで細やかな性格の彼女らしい家の整え方でもあるのだが、彼女の華美な飾り方を知っている身としては、空虚な雰囲気を察してしまう。
朔也は誰に指摘されるまでもなく、紅花と重なる部分を自身に自覚気味だった。出生から現在までの生き様は勿論それぞれの背景を持っているけれど、身体の核になっている物や精神的な部分、殊に嫌みで厭らしい部分はほとんど同じ色かたちをしている。
先ほど渡された香水の瓶を手に取る。表面のガラスが冷房の冷気に冷やされ、ひんやりと染みる冷たさを手に押し付け、逆にガラス瓶は手の温度で生ぬるさを帯びていく。体温と溶け合った丸いフォルムの瓶は程よく重たい。重さともいえない少量の香水はしかし、耳を疑うくらいの値段がするわけで、重厚感を調整するために、精緻なデザインの施された重たい瓶に注がれたのだろう。
紅花の家は横浜の中心地のタワーマンションの上層階だった。朔也も自身の育った家はそれなりに恵まれてきたと自覚はしているが、一軒家だったので、壮大な街並みを見下ろすマンションの一室に来る度に窓際に寄ってしまう。
「何してるの?」
ガラス瓶を日光に照らしていると、背後から冷静に声をかけられる。
「いや」
指摘されると、随分と子供じみたことをした気分になる。手のひらに力を込めると、プラチナのリングと瓶が擦れ、微かな音がした。
「キラキラしたものって、いくつになっても目を奪われるわよね」
フォローのつもりらしい紅花の言葉に小さく頷いて見せるけれど、内心ではそんな可愛らしい感情なのだろうかと考える。
ガラス瓶の中の薄い水色は、美しい海を連想させる。写真でしか見たことはない、グレートバリアリーフを想像した。海水は美しいけれど、一部を切り取ってもあの美しさは叶わない。小学生の時に授業でやった、空と海は一部分だけでは未完成であり、大部分では果てがないという事実が、ふと心をかすめることはある。
「ちなみに、佐野の姐さんは、香水は何処につける派?」
広い室内に音はなく、自分の男性としては高い声が良く響いた。天井の高いマンションだ。
「場合によるけど。そうね、好きなのは胸元かしら」
彼女はソファに座り、着ていた薄いニットの胸元を指さす。女性らしい身体付きを強調する服装と仕草に、朔也は何も感じない。それこそ、香水瓶を見た時に沸き上がった少女願望が、思考の中で彼女を遠ざけようとすらした。
「手首や足元よりも、自分に対して香ってくるのよ」
胸元の体温で香水が仄かにのぼる姿を想像し、頷く。紅花のこういった、間接的な品格を匂わす唇に惑わされる度、何故か満足した気持ちになる。
「で、この香水は、何が気に入らなかったわけ?」
八月に入ったばかりの夏本番の暑さの中わざわざ紅花の家に来たのは、彼女に香水を譲ると言われたからだった。
日が陰ってからがいいと言ったのに、夜は忙しいとにべもなく断られ、仕方なく昼過ぎに顔を出せば気前よく上等なアイスクリームと芳醇な香りのする紅茶を出された。
そして、彼女の薄いメイクやかっこいいファッションを見るに、仕事とは別件で夜が忙しいようだった。ご機嫌の理由はそれかと羨むような憐れむような、遠巻きな気持ちになった。
「気に入らなかったわけじゃないわ。むしろ、すごく好きな香りよ」
怪訝な面持ちになると彼女は仕事用に近い、品のある笑顔を浮かべた。彼女のこの笑顔を、朔也は万年筆の青い文字のようだと思っている。柔らかい筆致で、滲むような透明度の高い青は、無い裏側を透かす。
「でも、私には少し爽やか過ぎたのよ」
「爽やかだと思うなら、俺以外に似合うやつがいるんじゃないのか」
自分が爽やかと形容される要素を持っていないことは当然自覚していたし、自身もそうでありたいと思ったことはなかった。
爽やか、という美点は嘘くさく、偽善的で創作的だと思っていた。
「助長させるアイテムじゃなくて、意外性を生む装飾品でありたいじゃない、香水って」
細身のスキニーパンツに包んだ足を組み、彼女は挑発的な笑みを浮かべる。
肌は一切覗いていないというのに、スカート姿ばかり見てきていたせいか、華奢な身体のラインを強調したパンツスタイルの方がむしろ、見てはいけないものを見せられている気がした、
「遠ざかって見えるものと、近づいて知れるものが同じじゃ、つまらないでしょう?」
「いや、別に他人を楽しませるために生きてるわけじゃないし」
朔也は自分の左足に、右足を重ねる。真夏でもブーツを欠かさないのでソックスは履いているのだが、冷房に冷えたフローリングの上では、足先が冷えてしまう。出してもらったスリッパを断らなければよかったなと、内心後悔した。
「あなたって、どうしようもなく一途ね」
「浮気性よりもいいだろ?」
当て擦りのつもりはなかったが、なにか後ろめたい物でも隠すように、彼女は肩をすくめて見せた。
朔也は紅花のはす向かいのソファに腰かけ、香水を自分の首筋にワンプッシュする。冷たい霧が首元を濡らし、直ぐに鼻先をかすめる強い香りがあった。
「マリン系?」
「サンディビーチ」
砂浜。
海の中というよりも、砂浜に足を運んだ時に香るイメージということらしい。
子供のころ、家族旅行でハワイに行った思い出が蘇ってきて、今が夏休みだということを強く意識した。
「海に入ると冷たいし、肌がかゆくなるし、日焼けもストレスになるけど、砂浜歩いてた時は楽しかった」
遠い記憶を掘り起こして話すと、彼女は不思議そうな目で見つめてきた。
「なんだよ?」
「思い出話をすることもあるのね、あなた」
「そりゃ、二十年生きて来たんだからな」
思い出の一つや二つくらいある。そういいかけて、止めた。
過去を振り返らない主義の紅花と、過去のことを必要以上に恐れている自分とでは、同じように懐古をしないからと言って同じではなかった。
過去との決別を意識している彰葉とも、過去を過去と割り切っている蓮とも違う。
自分が一番健全な精神でないことはわかっている。だからこそ、都合のいい甘やかな思い出だけを抽出しようと、記憶が書き直しされ続ける。記憶は遠ければ遠いほど曖昧で、曖昧であればある程都合がいい。
「十年くらい前のあなたに会ってみたいわ」
紅花がそんなことを言い出すので、朔也はそれを鼻で笑う。
「当時の俺は、佐野の姐さんは相手にしないと思うよ」
顔を見合わせる。揶揄ったつもりはなかったが、お互いに笑ってしまった。
「十年後に自分が同じような人種になるってことも、理解できないままにな」
「今の自分は、十年前の想定と違うのね」
「そりゃ、この髪色には憧れないだろ」
朔也は下ろしている髪の毛先を摘まんで見せる。
明日、蓮のところに予約を入れている。高級なプリンを片手に夜中に現れて以来、蓮とも会っていなかった。
「あの頃はさ、もう少し、自分をまともだと思っていたんだ」
言いながら、今日の自分はやけに素直に自己開示をしている、と思う。紅花の意外そうに笑う目元に無駄なアイシャドウもアイライナーも引かれていなくて、ラフな格好にも当てられているのだろうと解釈した。
「この世にまともな人間なんていないわ」
紅花の言葉にはフォローやお世辞の意味合いはなかった。しかし、ある種の健全さを持って生きている人間を、そういったカテゴライズで名辞しなければ、外れ値の自分はもっと、無意味な塵芥となってしまう。
「その香水の箱、とっておいてあるけど、いる?」
要らないと言おうとしたけれど、持って帰ることを考えて、頷いた。
紅花は立ち上がって、何処かの部屋へと消えてしまった。
煌びやかな瓶に注がれて、華美な装飾を施された箱に入れられた香水は最早、どの部分から商品と言えるのだろう。
紅花は十年前の朔也に会いたいと言った。
十年前の、利発さがあってそれなりの社会規範を守りながら品行方正に生きていた、神崎家の長兄だった自分を、彼女はどんな目で見るのだろう。
細身ではあったが健康さは損なっていない小柄な黒髪の少年を見て、何を思うだろう。今の朔也を損失と獲得、何方に結論付けるだろう。
出された紅茶は既に温くなっていた。ソーサーで音をたてないようにゆっくりと持ち上げて、冷えた紅茶をすする。華奢な持ち手のカップはあまりに持ちにくいから、右手も添えてみた。
黒と、紺と、シルバー。ネイルの毒々しい色合いが、洗練された金淵のティーカップに不釣り合いで、なんだか笑えてしまう。好きな物を選りすぐって身に着けているつもりだけど、その自己表現も自分という人間の一部というのなら、それこそ自分という人間は何処までが自分なのだろう。
蓮に、長兄であることを、そんな気がすると頷かれたこともある。親が開業医だと知れば、雅は納得した表情になる。一度実家辺りまで遊びに来た利玖が零した、似合うねという言葉も、忘れられない。
家族構成や家庭環境、生まれ育った些細な縁取りなんて自分で選んだわけもないのに、やはり神崎朔也を神崎朔也たらしめているようだ。
自分を切り刻んで何処までが自分かと問われるよりも、コンパスで広げた直径の何センチまでが自分であるのかの証明の方が難しく、また朔也の心を惑わせるのだった。




