天気は矢が降る大荒れ模様
五月八日、朝。カーテンの隙間から除く細い澄み切った青空。気持ち良く広がる晴天からは雨の気配何て微塵も感じられない。今日という日が晴れやかな一日になると予感させた。
ガラス越しの日差しに目を細めた獏はベッドから身体を起こした。
ひどく落ち着かない気分だ。激しい心音に合わせて僅かに体に震えが走る。
これはいけない。唇を舌でなめる。
視線を遠くの雲へと向けて、清涼な空気を肺一杯に吸い込んだ。
新たな日課に定めた深呼吸を繰り返す。
一度二度と空気を出し入れして、しかし最後に首を振った。
(駄目だな)
この高ぶった感情は深呼吸では収まらない。
我慢できたのはそこまでだった。
急き立てる感情が音となって喉をせり上がった。
「ッしゃあ!」
力強く握りしめた拳を膝小僧に打ち付け、抑えきれない激情に声を張る。
全身の血が湧きたつような感情の高ぶり。激しく胸を打つ興奮に、かあっと顔に火がともる。
果てしない興奮に身体は今にも踊りだすよう。
「やってやったぜっ!」
今まで何度も苦渋を舐めさせられてきた獣をついに打ち破る事が出来た。さらには目的の城も見つけてみせた。
最後は力尽きてしまったが、戦果としては十分すぎる。今までの人生で味わった事のない高揚感に、にやけた顔から戻らない。
夢の中では疲労困憊で盛大に喜ぶ気力もなかったが、本当はその場で気が済むまで踊り狂いたかったくらいだ。
そしてその考えは今も消えてはいない。
毛布を跳ね除け立ち上がると、獏は内から湧きあがる喜びに身を任せた。
足は気ままにリズムを刻み、意味もなく空中に向けて拳を放つシャドーボクシング。
「ひゃっほう! 俺はついにやったんだ!」
ここまで長かったがそれでも死亡猶予は三〇回以上残っている。
今や夢は終わりが見えない悪夢ではない。
クリアはもしかすると目前に迫っているのかも。
(これは行けるっ!)
にんまりと歯を見せ笑い、無我夢中で踊り続け、ふと気づいた。
ドアが開いてる。その意味を悟る。
冷水を頭からぶっ掛けられた。
勿論錯覚だ。だが先ほどまで身体を満たしていた熱気はどこえやら。
恐る恐る視線を向ければ、ドアの向こう側に小さな人影。
いつも通り起こしに来たのであろう茜が顔色を真っ青にして立って居て。
「お、お兄ちゃん……頭が!!!」
例えどれだけ嬉しかろうと脈絡なく踊り始めるのは止めようと心に決めた。
今朝は少しテンションがおかしくなっていた気がする。寝ぼけていたんだと涙目の妹の追求を躱して洗面所へと赴いた獏は一人反省していた。
ぱしゃぱしゃと冷たい水をかぶりながら考えているのは夢の事。
(最後は死んじゃったけど、次の夢はどこから始まんのかな)
今までの事を思えば、何時も通りの場所から始まる可能性が極めて高い。とはいえ、あまり心配はしていなかった。今度はもっと楽に獣に勝て自信がある。
攻略方法は見えた。つまり過去の夢と同じような状況を意図的に作り出せばいい訳だ。そうすれば獣の動きを予測する事が出来る。最悪立ちふさがる獣をステップで鮮やかに抜き去っても良い。足の速さで勝っている以上、あの門を超えれば獣は追っては来れないだろう。亀裂は獣が通れる程大きくは無かった。
軽く丸めた掌へと蛇口から勢いよく飛び出す水。飛び散らせないようそこへ顔を近づけていた獏は、視界に映ったものを見てぴたりと動きを止めた。
「んん? なんだこれ……?」
つらつらと考え事をしていたせいで気付くのが遅れてしまったのか。パジャマの裾の下から手首に伸びる薄い線。
滴る雫を拭いつつ眼前に掲げた腕を晒す。捲ったパジャマの下から現れたのは、くっきりと白い肌の上に残る『傷跡』だった。
「は?」
さわさわとおっかなびくり触ってみる。それは例えば悪戯で書かれたもの等ではない。確かに肌に刻まれている。
慌てて服を脱ぎ棄て半裸になれば、鏡の中に傷だらけの上半身が映し出された。凡そ十を超える数の大小さまざまな傷跡。
触っても痛みは無く、血が噴き出る事もなさそうな古傷に分類されるものだが、それらは確かに最新の夢の中で見た傷と場所や大きさがピタリとあう。
現実で全身傷だらけになるような事故を経験していない以上、つまりはこれは夢の影響で間違いないのだろう。
「ひえ~、茜には見せらんないな。でも何で今回だけ……?」
傷跡は今朝の分しかなさそうだ。過去の夢で負った顔面中央を刺し貫かれたものや、胴体をぐるりと一周するような致命傷痕はない。
「獣を倒したから何かしら変わったのかね」
もしくは城を発見したからか。
「服で隠せる場所で良かった」
この傷跡を見つかって上手く誤魔化せる自信が無い。
ほぅと息を吐いて傷をなぞる。夢での出来事が現実に現れるのはこれで二度目。だが一度目とは違い、実際に自分の身体に現れた異変に背筋を冷たいものが這った。
「四十四回死んだら死ぬ、か」
幾つもの傷跡に将来訪れるかもしれない死を予感した。
◆ ◆ ◆
「お前ホントに風邪だったの?」
顔を合わせるや否や開口一番、飛び出してきたのはそんな言葉だった。
疑わしげな目を隠そうともしない宗太に獏はため息交じりに答えた。
「本当だって。信じてくれよ、いい加減」
「お前がねえ……」
こりゃ驚いたと腕を組む宗太に同意見だと頷いたのはもう一人の友人翔。
「それくらい珍しい事だからな。実際いつ以来だ?」
「さあ? 記憶にねーな」
「それじゃあ茜ちゃんも心配したろ」
「うん、まあ、それなりに」
ぶっちゃけ彼女の心配事は風邪だけじゃなかったかもしれない。
今朝をはじめ最近の奇行を回想し、思わず遠い目つきになる獏の隣で宗太は「しっかしあれだな」と思い出したかのように付け加えた。
「風邪が流行ってんのかね、最近」
「流行ってる訳じゃないんじゃないか? 宗太がそう思ったのは、風邪引いた人が話題になったからだろ」
「俺以外にも風邪引いた奴いたの?」
勿論風邪を引いて休む人間は常に一定数居るだろう。だが話題になったという部分に首を傾げる獏に宗太は頷いて、
「ああ。あの西園寺先輩も休んだんだよ。確かお前と同じで今迄風邪で休みなんて無くて、結構話題になってた」
「今もなってるよ。先輩、今日も休んでたから」
「マジで⁉ 大丈夫かな」
連休前に学校を休み、連休明けでもまだ休み続けているらしい。
それは心配するだろう。あの各方面から人気が高い西園寺 佳世であれば尚更だ。
当然のごとく一ファンを自称する獏の反応もその他大勢と変わらない。
心配そうな表情で何事か考え始めた彼は、ふと何かを思いついたのかこんな事を口走る。
「あのさ、……行き成り殆ど面識ない後輩がお見舞いに来たら、先輩どう思うかな?」
正気とは思えない迷案だが彼の表情を見るに、GOと言われれば間違いなく行くのだろう。
友人二人は唖然と顔を見合わせ、未来のストーカーが生まれるのを阻止すべく、この初恋を拗らせかけている少年へと百点満点の回答を返した。
「「やめとけキモイ」」
◆ ◆ ◆
友人二人の忠告で何とか踏みとどまった獏は、楽しい放課後を終え帰宅。食卓にて渋い顔で並べられた健康料理の数々をつっついていた。
基本妹の作る料理に文句は言わない獏だが、今夜ばかりは口を開かざるを得ない。たっぷり注がれた青汁を見て、渋い表情を浮かべた。
「……俺もそっちが良かった……」
ジト目で眺める先に並べられた熱々の唐揚げを頬張る妹へ、唇を尖らせて文句を言う。とてもおいしそうだ。
「駄目。体調戻るまで暫く我慢して」
「もう治ったって」
「それは私が判断するの」
「……ならお前も付き合えよ」
「やだ。私は風邪引いてないし」
この料理の数々があまりおいしくないという事は彼女が一番理解している。
「病院いって、先生の診察受けてくれたら直ぐ済むのに」
「……病院はいい」
昨日であればこの不味い飯から解放されるために喜んで行っただろうが、今はもう見せられない傷跡がある。
病院は断固として拒否し、獏は箸を握った。
例えどれ程不味かろうと妹が兄を心配して作ってくれた事に間違いは無い。
彼に残すという選択肢は無かった。
「学校で皆心配してたでしょ」
「まあそれなりに。西園寺先輩も休んでたみたいで、そっちばっかだよ」
「ふーん、西園寺先輩……あの綺麗な人か。風邪流行ってるのかな」
「そういう話は聞かないけど、一応お前も気を付けとけ」
「うん、分かってるよー。……ねえ、今日一緒に映画見ようよ」
「んー、いや今日は早めに寝る。ごめんな」
「今日もじゃん。やっぱりまだ調子悪いんじゃないの?」
「せっかく習慣付いてきた早寝早起きを辞めたくないだけだよ。……ごちそうさま」
「おそまつさまです。早寝早起き頑張ってるね…………、からあげ食べる?」
「食べる」
分けて貰った唐揚げはやっぱりとても美味しかった。
◆ ◆ ◆
どぼんと意識が睡魔の海に沈む。すやすやと意識が揺蕩う海の底。しかし底に水は無く、海底を転がり想定外の目覚めを迎える。
本来の目覚めである、睡魔の海から浮上するのとは全く異なる、スイッチが切り替わる様にぱちりと意識が冴えわたる奇妙な覚醒の感覚。
この感覚にももう慣れた。辺りを変わらずに吹き荒れる猛吹雪もすっかり見慣れた風景だ。
だが何時も通りが通用したのはそこまでだった。
瞼を開き、真っ白な世界を目にした瞬間、真っ先に頭に浮かんだのは。
「さっむっ!」
両手で肩を抱え、彼は積雪の中首をすくめた。
今までは感じた事の無かった景色に見合った凍てついた冷気。急速に体温は奪われていき肌が凍り付く。がたがたと小刻みに体は震えていた。
「くっそさっむいっ! 何でえ!?」
両足で飛び跳ねて何とか熱を取り戻そうとする彼の行動が実を結ぶ機会は来そうもない。最早肌が痛みを感じる程の酷寒に獏は情けない悲鳴を上げる。
どうしてこれ程までに寒さを感じるのか。自分の服装を見下ろせば一目で答えは出た。
「うっそだろ」
隙間一つなく外気を遮断していた服装が、今や見る影もなく切り傷だらけのボロ服になり果てていた。
(獣に切り裂かれた跡……身体の方は治ってて血も出てないけど、服は全然戻ってない!)
通りで寒い訳だ。凍てついた風が身体の中へ吹き込んでいる。
しかしこれは同時にある事実を示している事になる。
夢の世界での時間が明確に進んでいる。
つまりつまりつまり。
後ろを振り返ってみれば、へこんだ積雪の中央に小さな獣が尻を向けて蹲っていた。
(おお……、セーブポイント更新されたのか……)
とはいえ現状それはどうでもいい。いや、どうでも良くは無いが、とにかく今は喜ぶよりも優先すべき事項がある。
この寒さは耐えられるものではないが、幸い獏にはこの寒さを凌げる場所に心当たりがある。
道を進んだ先にある巨大な門を潜り抜けた後、確かに吹雪は突然止んだ。
例えそれが前回だけだったとしても、あの城の中であればそれなりに寒さを凌げる筈。
(進もう。こりゃシャレに――――)
――くっしゅんっ。
場合によってはあっさりと暴風にかき消されてしまいそうな、雪原を転がる小さな音に思考を中断し獏はゆっくりと振り返る。
「ええ……。お前もしかして……寒いの?」
こちらを見ようとせず、尻を向けて蹲っている獣。返事は当然ないが、先ほど聞いた音は聞き間違いではない筈。
僅かな逡巡の後、恐る恐る獣の身体へ手を伸ばす。
指先が触れた身体は、可愛そうになるくらいに震えてた。
「お前ここで生まれたんじゃないのお? なんで寒さに弱いんだよっ」
これをそのまま放置しておける程心の冷たい人間ではない。慌てて抱きかかえてみても、今度は悪戯をされる事もなかった。
そもそも意識が無いのか、抱え上げた獏の顔を見もしない。
急いだ方がよさそうだ。少しでも暖を取れるよう、震える獣をぎゅっと強く抱きしめた。
門の亀裂を抜けた先で、吹雪は予想通りにぴたりと止んだ。寒いとは思うものの、吹雪の中で感じた身も凍る程ではない。
「さてと……、どうするかなコイツ」
腕の中で震える獣へ目を落とす。ここから先何が起こるか分からない。出来れば両手は開けておきたいところだ。
少し考えて、彼は獣を肩にかけた鞄の中へと入れた。ナイフなどの危険物を取り出しておけば十分スペースはある。風もこの中までは吹き込まない。とてもいい考えに思えた。
嫌がる素振りを見せず鞄の中で丸くなった獣から視線を外し、遠くに見える真っ赤な城を眺める。
「でっかいなあ……」
距離感がおかしくなる。
思った以上に距離がある思った方がよさそうだ。
「しっかし何なんだこれ。木じゃないみたいだし」
城門目指して歩いていると、目に入ってくる数多くの太く長い棒のようなもの。
触れてみれば相応に冷たく、叩けば硬質な音が返ってくる。それが幾本も雪原に突き刺さり影を作っていた。
突きささるそれの一本に目を付け、しげしげと眺めて回る。
「柱かなんかかな……、アイタッ!」
吹雪は止んだがたっぷりと膝下まで積もった積雪の下。埋もれた何かに足を引っかけたたらを踏む。
足元の雪をかき分け出てきたのは、中世の騎士が付けている様な鉄の兜。
「これにぶつけたのか……」
何の気なしに持ち上げた両手にかかる、ずっしりとした異様な重さ。
別に持ち上げられない程重い訳では無いが、この重さは絶対に兜だけの重量ではない。何か中に入ってる。そしてそれは雪が詰まっている重さではないような。
「……中身入ってないよな……?」
脳裏を横切る嫌な想像に僅かに身震いをした獏は、兜をそっと元あった場所に戻して雪をかける。
中身の有無を、確かめる勇気は無かった。
(剣に城に騎士の兜。よくある中世ファンタジーみたいな世界観だな……、その割に俺の恰好はあんま合ってないけど)
頭部に被る兜とは度遠い装備。その異様にも思える程につるりとした繋ぎ目一つ見当たらない表面を撫でる。
これが先程見つけた様な鉄の兜であれば違和感もないのだろうが。腰に下げた剣に視線を落とし、全身像を思い浮かべた時に感じる中途半端なコスプレ感に思わずため息が零れた。
あっさり顔面を貫かれた経験から防御力も見た目以上の物は持っていないことが伺える。
さらには着脱不可と来た。
「兜とか鎧のが良かったな、剣にも合うし。防御力も高そうだし。世界観は大事だぜ?」
誰に向けた訳でもない文句を言ってみる。
この世界が一体何なのか。あの獣に集中するために一度は追いやった疑問が、再び頭を過るのは獣を倒したからというのもあるだろうが、それ以上にきっと今が暇だからだ。
何か起こるかと思ったが今の所至る所に刺さっている謎の棒と、鉄の兜が見つかっただけ。吹雪いてもおらず視界は良好で敵影は皆無。
「ここは一つ歌でも歌うか? ……ん?」
もぞり、と動きがあった。雪原ではなく、鞄の中で。
目を覚ましたらしい獣はひょこりと鼻先を外へ出すと、何かを探る様にしきりに鼻を鳴らして空気を嗅ぐ。
「どうした? おーい……、どこ行くんだよ?」
呼びかけに答えぬまま、獣は鞄から飛び出し全力で雪原を駆けて行く。
ここまで運んできた仮にも恩人である獏に対して全くの無関心。ただの一度として目が合う事は無かった。
平凡な学生である獏には野良の獣と心を通じ合わせるという行為はあまりに難易度が高いらしい。
宛ら除雪機の如く、雪をかけ分けあっという間に遠のく姿を獏はぽかんと間抜けに見送る。
「……そんなに俺の歌聞きたくなかった?」
冗談交じりに零した言葉が、当然の如く全くの誤りであった事を彼は直後に思い知る。
獣の危機感地能力は、獏のそれとは比べ物にならない程に優れていた。
獣は逃げ出したのだ。
まさしく脱兎の如く。
では一体、何から?
「――――ごぉアッ⁉」
衝撃。爆散。
何かが知覚外から恐るべき速度で飛来した。
辛うじてそう認識した時には既に獏の身体は手遅れな程に徹底的に破壊されていた。
積もった大量の雪はまとめて地面から引きはがされめくれ上がり、まるでそそり立つ壁の様な有様。
天より訪れた圧倒的な暴虐は本来下にあり、決して動かない筈の不動の大地に裏切りを促す。地面と共に獏の身体は壊れたおもちゃの如き滅茶苦茶な姿勢で宙を踊った。
暇だと感じていたのは確かだ。それでも致命的に油断しているつもりはなかった。
いかなる攻撃にも対処できるように気を張り詰めているつもりだった。
それでも、こうして身体を蹂躙する激痛を経てなお、何が起きたのか全く理解が及ばない。
「ば、ばがッ! あおぉぉあッ……はァッ!」
かたかたと壊れた身体が小刻みに揺れる。全身を走る不気味な振動は獏の意思に反するもの。
痛みだけが脳みそを鮮明に貫く。あるのは痛み、痛みだけ。当然だ。身体の右半身が吹き飛んでいた。
世界が血に溺れている。真っ赤で、淀み、歪んでいる。
そんな不安定な視界でも、辛うじて一直線に飛翔する物体を捉えた。
巨大な鉄塊。太く、長く、それは決して人に向けて放つようなものではない。本来攻城兵器として使われる、巨大な矢。
着弾と同時に、死は確実に訪れた。