196『結局、愛宕百韻は必要だったのか?』
ここまで本作は――
『本能寺の変』は、明智光秀の裏切りでは全く無く、
『信長による福音書』計画、つまりエヴァンゲリオン計画を完遂するために織田信長と光秀が協力して遂行されたものである!
と論説で述べ、その説をもとに小説でその世界観をイメージしてきた。
しかし、そうすると問題が一つ残る――
それは……
何故信長は、『愛宕百韻』を執り行ったのであろうか?
ということである。
通説の『光秀謀反説』であれば、その決意表明の場として確かに理解できる。
しかし、『本能寺の変』が、信長によって計画されたものであったなら、そもそも『愛宕百韻』などしなくてもよいのではないか?
という疑問が出てくる。
つまり、史実光秀との今生の別れである『安土饗応』から、『愛宕百韻』、そして『本能寺の変』へ向かう歴史の流れを信長の計画とするなら――
『愛宕百韻』が無くとも本能寺事件は成立するからである。
もちろん、本作ではこの『愛宕百韻』は、光秀による謀反の決意表明の場と見せかけ、その真意を隠す為に行われた連歌会と結論を出している。
そして何故光秀の謀反と見せかけるようなことを意図したかというと、信長が自らの計画に基づいて命を捨てた行為を秘匿するためであった。
しかし、そもそも信長と光秀の関係は、『諏訪法華寺』での光秀殴打事件や『安土饗応』での饗応役解任事件で極度に悪化し、恨み心頭の光秀が謀反を起こしたと――
事件後ちまたでは認識されているくらいである。
そう、あえて『愛宕百韻』まで開催せずとも、両事件だけで光秀謀反説は真実味が増すであろう。
何を述べたいかというと、結局『愛宕百韻』で光秀の決意表明などせずとも、信長の意図通り、後世本能寺事件は光秀の犯行と誰もが信じるであろうということである。
しかし、にもかかわらず信長が『愛宕百韻』を開催した。
信長が意図した計画という歴史の流れからは、必ずしも必要ではない『愛宕百韻』を何故、あえて後世注目されるような本能寺の変の直前の重大イベントとして執り行ったのか?
その結論をもう言ってしまえば、信長には『愛宕百韻』が必要だから、信長にはそのイベントが重要だから執り行ったのである。
では、何故後世『愛宕百韻』と呼ばれた連歌興業は本能寺の変の前に実行する必要性重要性があったのであろうか?
その答えは――
その答えを解く鍵は――
聖書の『ヨハネの福音書』と、
日本の『言霊』にある!




