184『光秀【出自の謎】』
「――明智十兵衛光秀!」織田信長が、呼ぶ。
「はい、織田上総介信長様」明智光秀が、答える。
しかし……何故、二人は昔の呼び方で呼び合っているのだろうか?
と、思ったら……
「そなたが義昭公の命で余に会いに来た――光秀か!」
まだ若々しい青年のような三十五才の信長が、大きな声で問うた。
「はい、そうですじゃ」
まだ五十三才の光秀が答える。
この日は、『細川家記』によると、
時は永禄十一(1568)年六月二三日、岐阜でのことである。
――そう信長と光秀が初めて会った日である。
『細川家記』によると、信長と会った光秀が、
「信長の室家に縁があって、しきりに誘われたが大禄を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と記されている。
これは、光秀が土岐源氏の流れをくむ明智氏の場合――
光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫は道三の娘なので光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁もあり、信長の家臣になったと受け取れる。
この説が正しい場合、
光秀は若い時に、土岐氏から美濃を奪った斎藤道三に、道三の妻の縁者として仕えるも、
弘治2年(1556年)、斎藤道三・義龍父子の争いである『長良川の戦い』の時に、道三方であったために、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。
つまりは、諸国放浪して齢五十となった光秀が――
亡き主君斎藤道三の姫君濃姫を妻とする、織田信長に仕えたというよくできた物語になる。
しかし、あまりに上手くできたストーリーなので、当然創作の可能性も大いにある。(後述する)
光秀は、青年まで不明なことも多いが、概略すると――
美濃国を出て諸国を放浪した後、四十代から越前朝倉氏に十年程仕えたといわれる。
といっても、待遇は悪く、貧乏な家計を補うため、光秀の妻が髪を売って生活費に充てたという逸話まで残っている。
――しかし、京の騒乱から逃げてきた後に将軍となる足利義昭が越前に留まることとなり、それで義昭に仕えることにになった。
義昭は、次期将軍になるべく、越前の大名朝倉義景に兵を起こして上洛するよう頼むが応じてもらえず、そこで白羽の矢がたったのが、尾張の織田信長である。
そこで将軍からの上洛を要請する使者に細川藤孝と共に任命され、光秀が信長に会いに、信長の新たな領土となった岐阜に来たのであった。
ということで、光秀は足利義昭の家臣になったのだが、
もし明智光秀が土岐源氏の者である場合、源氏筆頭の将軍家から通常高位の役職に任命されるはずが……
『永禄六年諸役人附』によると、
名門出としては考えられない単なる足軽衆として扱われている。
これは、源氏の棟梁である義昭側は――
光秀の出自が「土岐源氏の明智氏」では無いとしている証拠ともいえる。
つまり、光秀には、土岐源氏ではない、ただの明智姓を名乗っただけの者との可能性も大いにある。
実際、朝倉家での待遇、将軍家での待遇、どこでも大した扱いをされておらず、五十代にまでなっている。
また逆に、もし濃姫の縁者なら、濃姫が信長と婚姻してから、光秀が五十代という高齢になるまでに、どうしてもっと早く若い時に光秀が信長に仕官しなかったのか?、不自然となる。
――ということで本作品では、光秀は名門土岐源氏の出身ではない説をとっており、
つまり“今”信長に初対面している光秀は、信長正室濃姫の縁者でもない、ただの明智姓の齢五十を過ぎた光秀となる。
「……でもそれなら何故信長は、
高齢でしかも大した実績も無い光秀を、家臣にしたのか?」と感じますよね?
――そうです遂に次回、
織田信長が光秀を登用した理由が明らかになる!?
乞う、ご期待!




