150『光秀辞世の句の暗号《五十五》の謎』
六月一日のスケジュールは、大茶会も本因坊戦もあらかじめ決まっていた――
そう推察というか事実確認するだけで、おのずと、
『光秀辞世の句の暗号《五十五》の謎』は解けてしまうのです。
そう五十五=『囲碁の初手の数』の論拠となったのは……
六月一日に本能寺にて『本因坊戦』があったからです!
そう辞世の句は、明智光秀のように翌日に戦闘行動を起こすと計画していた場合は特に――
前もって詠んでおくものなんです。
つまり、光秀は六月二日に『本能寺の変』を決行すると決意した時までに、その前日六月一日の主君信長のスケジュールを、五月二十九日以前に把握していた。
だから――
《辞世の句》に、『囲碁』、そう『囲碁対局開始』を指し示す『五十五』という数字を使った、使えたということです。
そう特に大茶会や囲碁戦といった秘匿する必要のまったくない行事ですから、その日までに六月一日のスケジュールは参加者が多い分、それ以前に公開されていたということです。
またそのような大がかりな行事を、近畿の責任者である光秀が知らない、知らされないはずもないのですから。
――ということで、この光秀の辞世の句の解釈もおのずと変わるということです。
通説的解釈である『五十五=年齢説』と、
信長による『福音書計画』的な『五十五=囲碁説』と見比べて見てください。
逆順無二の門 大道は心源に徹す
五十五年の夢 覚来めて一元に帰す
『明智軍記』
〈通説的解釈〉
たとえ信長は討つとも、謀反人と非難されるいわれはない。
そもそも御互い武士である以上、隙あれば誰もが天下を狙うもの。
まして武士が本当に使えるのは、暴虐なる主君ではなくて、
《天皇》の他にあるだろうか。
その天皇に対する忠誠心から、信長を討ったことを、いつか気付いてくれる者もやがて出てくるであろう。
いすれにしても我が五十五年人生も、夢のように覚めてしまえば、
そう死んでしまえば皆一緒であろう、そうもはや悩むこともない。
〈『囲碁説』的解釈〉
たとえ信長様を討つことで、皆に謀反人と非難されてもよい。
そもそも、これは信長様と秘密裏に計画したもので、つまり謀反と疑われるように仕組んだものであるから。
そう武士が目指す真の《大道》とは、
この戦乱の世を終わらすことにおいて他にない!
そのためには、私のこの身体も惜しまず、“裏切り者”悪名がつくとも名前を惜しまず。
私が襲撃する前日に、信長様は大好きな《囲碁》を観戦されたあと、信長様は《年来》の《夢》を叶えるためこの世を去られる。
しかし、それは悲しいことではない、
何故なら私も直ぐに信長様の《元へ帰っていく》のだから。
――もちろん、どちらの解釈がより真実に近いものか、
実際に光秀にでも聴いてみないと解らないことですが……
辞世の句と同時期に参加した『愛宕百韻』で、明智光秀の謀反心がなかったことは本作品で証明されていますので、拙者としては――
『五十五=囲碁』の方が、より真実に近いと感じます。
次回、逆に『明智光秀謀反説』が真実ならぱ、
なんと囲碁名人である日海が……
――織田信長を殺したことになる?!
『囲碁名人日海――本能寺の変関与説を追う!』
乞う、ご期待!




