129『ついに決着!光秀発句論争も、今夜で終結』
○ついに発表!――光秀の発句、《新解釈》!
ときは今 あめが下しる 五月かな 光秀
――この発句は、改めてみると本当に感慨深いものがあります。
まさか、この発句や発句関連の事柄が……
本作が丸々一章をかけて考察・推論するほどのものになろうとは……
拙者自身もそうですが、読者諸兄も驚かれたと思います。
『愛宕百韻』の奥深さというか、本当に事件三日前の犯人の心情が推察できる絶好シチュエーション。
歴史は現実にあった《人間ドラマ》といわれますが、本能寺の変という動的悲劇の前に、行われる連歌興行という静的観劇というこの対比。
まるで、誰かがシナリオを書いたみたいなストーリー展開の秀逸さ。
そうまるで“誰か”がシナリオを書いたかのような……
――ということで、
ここまでの流れをダイジェストで振り返ると――
明智光秀の発句、そうたった一句だけで、
多くの解釈があり、光秀の謀反決意表明――
反信長、打倒平氏もしくは、単に五月雨の情景を詠んだもの。
そもそも発句が改竄されている可能性すら出てくる……
羽柴秀吉による里村紹巴の尋問。
第二句で、完成する短歌になると――
打倒信長は、朝廷を擁護するためのものとなり、
第三句は、それを後押しする解釈と、それを押し止めようとする解釈に分かれる。
――しかし、愛宕神社への奉納興行として連歌会を日中行われた性格上、ほぼ公開され記録が残る場所での決意表明などあり得ない。
――また、同日に織田信忠が愛宕神社にいたという事実から、それが補強されると共に、
光秀発句の内容は、極めて後世からは謀反決意表明と取られやすい発句ではあるが……
――しかし、
織田信忠はもちろん、織田信長が内容を知っても問題ない発句となる。
――これがこの句を解読する絶対条件である。
そう、この絶対条件に合う解釈だけが――
光秀のこの発句に込められた心情、そう《真意》を知ることができるのである。
――ということで、お待たせしました、
――拙者の発句解釈はこうなる!
『ときは今 あめが下しる 五月かな』
――この五月に誕生祭で祝福された信長様が、皆のために命を捨てることで、天下の人々が平和を知る時が来たのだ!
そのために忠臣であるこの光秀は、信長様による『福音書計画』を、必ずや上手く成し遂げるぞ!
という、救世主――そうキリストとなる信長に向けた光秀の決意表明だったのである!
この解釈を、
「なるほど、だから織田信長とイエス・キリストの類似性を追及していたんだな」と感じる読者様もいれば、
「こんなの作者の都合で、当て付けしただけの解釈」と感じる読者様もいると思います。
……が、結局その解釈があっているかどうかということは、
もちろん読者様が証明することではありません。
――そう、この後に起こる《歴史》が証明することになります。
さぁ、新たなる歴史、そう信長による『エヴァンゲリオン計画』が、ついに次章より幕開けです!
乞う、ご期待!




